野重八 三十周年記念講演

18.野重八 三十周年記念講演
 野戦重砲兵第八聯隊は、機械化砲兵の先駆者として大正十一年八月創設されたもので、近衛師団に属し下野会長によれば、全国羨望の聯隊で、先に申し上げたとおり、桜の星章はありませんでしたが、近衛師団に属し、非常の場合は連絡車を司令部に派遣する等、定められており、昭和の初期までは、陛下の行幸の供奉サイドカーの操縦手は、聯隊の下士官が担当しておりました。その後近衛歩兵の適性のある下士官を訓練して供奉業務を譲ることになりました。私が着任した頃は、供奉に参加した下士官から地方奉迎の時の模様とか御料車の運転手とのつき合いなど自慢話を聞かされました。
 次に、徴兵区はご承知のとおり第一及び、第十四師管で、東京、千葉、埼玉、神奈川、山梨と栃木、群馬、茨城、長野の八府県で、京浜地帯と日光足尾の鉱業地帯を除くと主に農村、とくに養蚕業が多い地域であります。次に聯隊の装備の変遷について申し上げたいとおもいます。
 創立当初はは三八式十加と米国から輸入した五屯ホルト、付属車両も輸入車の装備でスタートしたようであります。
 三八式十加はドイツ・クルップ社の火砲で日露戦争の時購入されたもので、トラクター牽引には向かない品物なので、その後火砲は十四年式十加に改装されまして、昭和四年には全砲兵を統括する砲兵 操典が制定公布され近代化の第一歩を進めて参りました。
 十四年式十加は開脚式、ゴム車輪、射程一万五三00米、よく纏った火砲で、独野重十五及び十六の装備品として最後まで御奉公した火砲であります。

一方ホルト牽引車は、米国キャタピラー社の製品で、第一次大戦で軍用に使用されたもので、機械化砲兵部隊用として輸入され、聯隊創立と共に装備されました。牽引力は十分でしたが、最高速度が九粁で、行進の際は自転車で誘導するのを常としておりました。
 しかし昭和四~五年になると各部の損耗が進み、代替機を必要とするに至り、昭和七年頃、一時期 三屯牽引車と装備替えになりました。
 昭和六年十二月、満州事変の緊急動員で満州へ…、次いで上海に転進した中島中隊は、十四年式十加と殆ど耐用年数のなくなった五屯ホルト牽引車で出動致しました。
 次に自動車は昭和五年頃は制式四屯自動車、ウーズレー三屯自動車、ダットの一・五屯自動車、次いでTGEの三屯自動車が配属されて、国産貨車の共演の状況でありました。
このうち四屯自動貨車は技本の設計、造兵廠の製造による軍用車両で、エンジンは発電機始動、前照灯はアセチレン灯、チエーン駆動、ソリッドタイヤ、最低地上高は三0糎位で野外走行に耐え得る軍用車両としては適格のものであり実用性は十分ありましたが既に時代に合わないもので次の制式貨車を待ち望む状況でありました。
 我が国の自動車産業は、陸軍の格別の支援による保護自動車制度により石川島自動車、東京瓦斯電の二社を中心として成長し、「すみだ」「ちよだ」の商品名で生産を続け、東京の市バスは両社の製品を均等に使用する等、米国の「フオード」「シボレー」等の輸入品に対抗しておりました。
 豊田、日産の製品が市場に現れたのは偶々日支事変の勃発と合致し、生産品の殆どが軍用として徴発されました。
 昭和十年、聯隊の装備は九二式十加と九二式五屯牽引車に改装され、自動車類も観測自動車、自動貨車、側車も略制式車両の一代前の準制式品が支給される様になり、機械化砲兵部隊の全容が整い、部隊訓練の基礎も確立されました。
 九二式十加は十四年式より一回り性能を向上し、最新技術の総てを導入した火砲で、初速七六五米、最大射程一万八二00米でやや軽量に過ぎキャシャな感がありましたが精度は良好で、昭和十三年三月 北支の戦線で洛陽に対する擾乱射撃では尖鋭弾装薬一号一万六二00米で二00米狭差が可能であり、四門の弾着も画に書いた様に揃ったことを確認することが出来ました。九二式五屯牽引車は技本の基本設計、細部設計と製作は石川島自動車によって誕生したもので、全体がバランス良く牽引力も十分で、牽引車に対する長年の不満を解消して呉れた車両であります。欠点と云えば不斉地で前後進を繰り返すとき下部転輪が外れ易い点でありました。昭和十二年に入ると日支事変の勃発により聯隊は北支に独野重八を、中支に独野重十五を派遣して実戦の経験を重ねましたが、軍はこれらの体験を加味して、昭和十四年砲兵操典を改訂し従来、観測班長、観測小隊長と呼称したものを指揮班長、指揮小隊長と改め、観兵式に措ける整列体系まで規定致しました。
 以上が我が国の機械化砲兵の発展の経緯であり、大東亜戦争に突入する前の姿でした。

(注) 文中にある石川島自動車は現在のいすず自動車の前身で、東京自動車工業は現在の日野自動車の前身です。

        続 われらの野重八 記念講演会より 抜粋 ( 島津 武 )

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