比島の野重八

19.比島の野重八
 昭和十六年七月、野重八にも動員が下令されて、八月満州に向けて出発する。そして東満の満ソ国境に近い綏陽付近にあって、ソ連軍を目の前にして訓練を続けた。満州にあった野重八は十月に入ると南満に集結、さらに船舶輸送によって行先不明の航海に出た。到着したところは台湾の高雄であり、嘉義に集結した後、台湾軍の隷下に入る。やがて十一月、本間中将の指揮する第十四軍が編成されて、野重八もそれに属することになる。十二月二十四日、リンガエン湾に上陸した野重八の主力は第四十八師団とともにマニラ平野に進出したが、十二月三十日、高橋聯隊長の指揮する高橋支隊が編成され、第一大隊を除く野重八、歩兵、野砲、工兵より成る軍直轄の独立部隊はバターン半島に向って南下することになった。第二大隊はサラゴサで比島上陸後最初の砲門を開いて歩兵部隊を掩護した。翌くれば昭和十七年、元旦早々から進撃は続けられ、ポヘラック、サンホセを経てデナルピアンに向かい、その機動力を発揮して快進撃を続け、途中一部の戦死者を出す戦闘を混えながらも、十加が支隊の先頭を切って進んだ。 その間にマニラは無防備都市を宣言して日本軍は一月二日無血進駐し、やがて高橋支隊も旧に復してバターン半島の攻撃に当る第六十五旅団の指揮下に入り、第一大隊も聯隊主力に合した。バターン半島北部に対する第一次バターン半島の陣地攻撃には全力を以て主として歩兵第六十五旅団の攻撃に協力し対砲兵戦に任じたが、その間敵十五加の集中射撃を受けて相当の損害を出した。第一大隊はその途中で軍命によって、一月二十四日ごろからはコレヒドール島その他の敵要塞施設の破壊に任じた。しかしバターン半島の攻撃は予想に反して容易に進捗せず、四月三日、日本軍砲兵の総力をあげた攻撃準備射撃の後、第二次バターン総攻撃が開始される。この攻撃には野重八はもちろん、二十四榴、十五加をふくむ総計三百門に達する砲兵が参加した。かくして四ヵ月にわたつたバターン半島攻略戦も四月十二日ころようやく敵軍の全面降伏となって終ったが、マニラ湾口を扼するコレヒドール島など四つの島の要塞は抵抗を止めたわけではなかった。軍砲兵隊はバターン半島の南端、コレヒドールの対岸カブカーベンからマリベレス間に展開し、砲兵司令官の統一指揮下に四月十三日ころから五月始めまで、徹底的に敵施設を破壊する攻撃準備射撃を行ない、五月五日歩兵第六十一聯隊を主とする敵前上陸が決行された。それには各砲兵隊から将校観測連絡班が行を共にし、野重八からは子塩少尉ら八名が派遣された。暗夜決行されたコレヒドール島敵前上陸は成功し、五月六日ウェンライト中将は降伏を申し出で、七日マニラ放送局から全軍に投降命令を出し比島作戦は終了した。そして野重八には五月十九日復員が令せられ、帰還第一陣として六月マニラを発って内地に向かい、懐かしの世田谷に帰ったのは六月末であった。
                             (われら野重八より)

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