苦衷時代

01.苦衷時代

 一九四十年(昭15)一月…。荒張千五百氏(昭18春・軍曹・20年~曹長)は中国湖北省の「武昌」西南「金口鎮」に駐留する「トセ部隊・第二大隊」の…初年兵であった。この時期…。第十一軍が企図した「荊襄進攻案」は大本営陸軍部より、同年五月に裁可されたが、従軍した同氏の手記によると初戦の「漢水渡河作戦」は熾烈を極めたとある。同月三十一日…「第十三師団」歩兵部隊の壮烈な「渡河決行」を援護射撃した野戦重砲兵の「トセ部隊」も…「長寿店」、「荊門」、「当陽」と…血みどろの進撃であった。…「宜昌」に到着したのは七月十一日で…その後十一月頃迄に「南津開」に達した…。翌年(昭16)一月は「長橋凌」、「銭家山」と激戦が続き…‥「鴉鵲嶺」に暫し駐留して近辺の警備体制を敷くようになったのは同年三月に入ってからである…。四月から再び…積極的な「宜昌周辺掃討戦」となり…、十月頃まで繰り返された…。わが軍は「沙荊地区」一帯を平定したかに見えたが…「重慶」の蒋介石主席は心機一転総軍五十八箇師の大軍を結集し…「江北五箇地区」に在る日本軍に一斉攻撃を開始した。…支那事変史に特筆される「十月反攻」の史実である。…敵軍は「宜昌」に約十三箇師、「沙市」には二箇師と振り分けられ、北東方面の第五戦区軍は「荊門」「安陸」「随県」地区に迫り…十重二十重の襲撃予備軍が配置された。特に「宜昌、沙市」地区の「絶対的奪還」を厳命された国府軍は、わが兵力の二十倍を数え…「宜昌・東山寺」の「第十三師団司令部」は完全に包囲されて…通信連絡は勿論、食料補給までも抑圧され、最早…全滅を待つばかりの重大事態となった。南東部地区の「第三十九師団」(藤兵団)でも全陣地の悉くが敵軍に包囲されていたが…玉砕寸前の「僚友師団司令部」を見殺しには出来ないぞと、俊英の大守少佐が指揮する五百名の「決死隊」全員が貨物自動車に便乗し、疾風迅雷の奇襲作戦を敢行し、遂に敵軍の包囲網に突破口を開き、難局に喘いでいた同司令部に一応の活を与えたのものの…、敵の勢力は「押さば引け…」式の柔軟戦術を執り、一向に気勢の衰える様子が見られず、司令部陣営は…救援部隊諸共、孤立状態は以前よりも激しくなってしまった…。国府軍勢の江南軍主力は続々と長江を渡って江北地区に傾れ込み、各地の我が分哨所は逐次敵軍の手中に堕ち、一帯は最早「風前のともしび」同然の有様であった。「トセ部隊」でも最前線で奮戦中の本隊共々、残留者の傷病兵に至るまでが、肉薄してくる敵軍に銃撃を以て抵抗し、「塹壕」に立てこもり、最後の決意を迫られていた。時に…。去る八月以来の「長沙作戦」に遠征中だった第十三師団の「早淵少将」は戦局の急変を知り、手持ち四千の兵力で「宜昌」の危急を打破せんものと…急遽反転し、「沙荊地区」に進攻したが…将に電撃的な変わり身であった…。「藤兵団長」の澄田中将は満身創痍の部下将兵に「檄」を飛ばして切り込み隊を募り、「早淵支隊」に合流、自らこの支援部隊の先頭に立ち、攻撃の采配を執ったのである…。よもや…と思える意表を衝いたこの決死隊の反撃体制により、第十三師団司令部を包囲中の国府軍は背後から、この急襲を受けて堪えきれずに忽ち敗退し…「宜昌」周辺は一夜にして敵の影すらみられない状況で…奇跡の戦勝ムードを捷ち得たのである…。…而も、その敗走軍に我が航空隊の軽爆機が追撃し…甚大な損害を与える戦果となった。一九四二年(昭17)五月一日の臨時召集で、東京の「野重八」に入隊した約三百名の新兵と共に…「鳥居政夫」氏ら…若干名の「バタァン帰還兵」等が中支の「野戦重砲兵第十五聯隊」に転属となり、現地に到着したのは同年八月末である…。その当時…「トセ部隊」の聯隊本部は「当陽」南東五kmの「金沙舗」に移っていた…。新たな転属兵と交替に「宜昌攻略戦」以来の古参兵の内ほぼ同数が内地へ帰還した。「金沙舗」南六kmの「太山廟」地区に「第二大隊本部」、「第三中隊」、「第二大段」の三隊が急拵えの兵舎を構え、警備体勢の哨戒陣地を築いたのも同時期である…。翌年(昭18)四月初旬 …「野重十五要員」となった「浜野宗一や保科博」ら百十数名が原隊を出発し…中支前線の「金沙舗」に到着したのは同月二十日だった…。一九四四年(昭20)の五月半ば …「湘桂作戦」に出動するまで…「太山廟」警備隊の私達が、此処を根拠地とした一年八ヵ月間に「江南(北)殲滅作戦」と「常徳作戦」の二大戦闘が、この湖北省襄西部沙荊地区一帯に展開された。その間…十数回も非常ラッパが鳴り響き、果敢な出撃戦が繰り広げられ…息を休める閑もなかった。…湘桂作戦は壮絶な激戦の末…晩秋の桂林攻略戦で終ったが、その後遺症が癒えない侭、翌年の三月に…「上海」への転進命令が出て…トセ部隊は湘桂公路を後退していく。そして、初夏より開始された湾岸防備作戦の最中…八月十五日に「終戦」を迎えた。…強力な「米軍機動部隊」の迎撃戦を企図した日本軍は…一瞬のタイミングで、この衝突を免れることになり…九死に一生を得たのである…。それが若しも、実行されたならば、日本軍の全部隊は恐らく…米太平洋艦隊の艦砲射撃の猛攻と押し寄せる戦爆攻撃機の空襲で…殆どが全滅になっていただろう…。…日本の勝利を信じて闇雲的な抗戦を計画していた私達は、降って沸いたような…突然の「敗戦」を嘆いたものの…その宣告によって生命を救われたのは…神のご加護によるものだったと、現在に至るも疑うものではない……。「軍命令」とは云え、不法に中国の都市を蹂躙し、罪科のない良民を弾圧し、不遜な君臨を続け…悪鬼の如く各地を横行した私たちにも「敬虔」な信徒と平等に恩恵を戴いたことは、その後の人生において深い反省と思索を抱かせたが、年月を経る毎に…その感銘は強烈になって…老後の只今を感謝する要因の一つに数えられている…。而も…。終戦直後の中国軍第七砲兵団に約六ヵ月間派遣された体験は…当時の日本兵としては珍しいことであり、私たちは…少年期より叩き込まれた「精神主義」が、虚偽の妄言だったのを知り…長年、汚辱していた中国人観を見直すきっかけとなった。…一九四六年四月に復員…。…戦後の迷走による経済混乱期の窮乏時代、かの鳥居政夫氏に再会したのも…ごく自然の成り行きで…後年の保科博の気風が育成された素因などとは…想像もしなかった「無知蒙昧」の生活は十年余りも続いた…。ごく普通の世間常識さえも理解出来なかった私は…近代の青年に比べると甚だ未発達の精神構造だったに違いないと思うが、その格差は古希にいたる今日まで尾を引いており、見た目は老人だが…一向に貫禄もなく、若者層の一挙手一投足に振り回されながら…辛うじて生き延びる生活の中に押し寄せるハイテク機器に驚嘆し、日毎…狼狽えている…。
                                 一九九二年二月三日

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