転進命令

02.転進命令

 一九四四年(昭20)五月末より…中国湖南省を主戦場とした「湘桂作戦」は十一月十日の「桂林」攻略戦を最後に激戦は沈静化したが、日本軍は…戦死傷者十万余、病没者四千に達し、軍馬の損失も八千を超える甚大な犠牲を払う悲惨な結末だった。而も、全期間の制空権は…完全に敵軍に掌握されていた…。後方の兵站基地等は爆撃で壊滅し、物資の輸送が殆ど途絶した状態だったから、前線部隊では現地の稲を刈って粗雑な方法で精米し、しがない食生活に耐えていた。私達第四分隊の八人は「広西壮族」東部地区の小さな「赤蘭村」に潜伏、自給自足体制で緑濃い南国地区の師走を過ごし…昭和二十年の正月を迎えたが、かりそめの平和に唯諾諾と無表情、無感動の顔で空うそぶいていた。そのうち…、自堕落な快楽を求めて安直な「どぶろく」醸造が成功し、日毎夜毎不遜に酔い痴れて不様な眠りを貪っていたものの、内実は…時期作戦を待つ…身の成り行きに戦慄いていたのである…。そんな頃…、暖風を誘う弥生(三月)となり、当然…来るべきものが訪れた…。「独立野戦重砲兵第十五聯隊ハ五月00日、江蘇省西部00地区に集結セヨ…」それが…新規の作戦命令だったが、私達は…其の日まで過ごしてきた怠惰の暮らしが瞬時に突き崩され、忘れていた緊張感が身内に漲り、胸の鼓動が高鳴った…。然し…、転進命令を受けても…私達の手持ち車両用燃料は乏しく、北進するのには不安だった。肝心要の燃料支給が曖昧では…出動決心が鈍るのも仕方がない。「東洋鬼」と怖れられた日本軍の私達が「殺伐」な懐いを忘れて、村人達の厚い情誼に囲まれた柔和な生活に慣れてしまった精神状態は…一年前に「太山廟」を出発した当時の毅然とした意気込みとは程遠い…脆弱な厭戦思想が芽生えていたのかも知れない。…私達が安穏な生活に執着するのは…その他にも理由があった…。…今後、大攻略戦は発生しないと予測しても…、空襲の脅威は以前に増して激烈な状況だから、飛来する米軍機は…中国軍が後退、四散した現在では…むしろ攻撃目標を日本軍だけに絞り易い。部隊の移動を感知すれば、此処を先途と銃爆撃を繰り返すであろう。わが軍の防空施設と、機械化部隊の空襲防禦対策は…近代戦に離反する貧弱な設備であり…全く頼りにならない。其々が場当たり的に単独で空襲退避をするしかない。昨年夏場の進撃途上で、辛酸を舐め尽くした夜行軍の恐怖を思うと私達は…果たして…何処まで、転進の道中が続けられるのか心配なのである…。「十加砲車」…牽引車、貨物車の整備は入念にしたけれど、…気もそぞろのおよび腰で…、遥かなる「上海」に…無事到着が叶えられるようにと祈っていた。三月二十五日…。この日は「第二大隊」系列の各「分隊」だけが移動を開始した…。「赤蘭村」の私達は…悲喜交々の懐いを残して…村人連中に別れを告げた…。…「全県」に集合した時点で…全ての「砲」と牽引車及び、貨物自動車等は鉄道輸送させる計画が既に決定していたのだと…此処で初めて報されたのである…。その時期…「全県~武昌」までを開通させた鉄道復旧工事は、わが軍の「鉄道工兵隊の活躍が下積みに隠されており、無謀とも執れる不眠不休の敷設作業の下に…夥しい犠牲を強いられた…数多の尊い「生命」を代償に完成したばかりであった…。…鉄道貨車に同乗するのは若干の車両監視兵だけであった。その外に部隊の機密書類及び人事関係その他の記録や、緊急医療用資材を積載した貨物自動車三台が別途に用意された。それ以外の将兵は新規に徒歩隊を編成し、第一目的地の「漢口」へ向かう段取りが結成されていた…。二十九日の薄暮…。私達は長年労苦を共にした「愛車三六五号」が無蓋貨車に乗せられ…「全県」操車場を発車する…その刹那は複雑な想いで…何時までも立ち竦んでいた…。 ………………。「中支の殿様部隊」として…自他共に豪快な機械化編成を誇っていた「トセ部隊」の古強者も、機動性を失って了えば驢馬の歩みにも劣る弱体集団でしかなかった…。而も聯隊創立以来未経験の…大集団による徒歩の行軍だから…悲壮な決意である。…古風な型の背負い袋に、命の糧の「米」を一○㎏程を詰込み、それに小銃を担いで歩くのだが…、その要領を会得する迄に体力の方が先にばてるかも知れないのである…。この急拵えの徒歩隊は…「全県」を出発した時点から既に威厳を欠いていた。私の肩に担う…「チェコ製軽機関銃」は小銃より重量があるので、長距離歩行をすると予想以上に重圧が肩へのし掛かり、忽ち悲鳴を上げて…大騒ぎしたが、新編成分隊の兵隊たちの失笑を最初に浴びた一人である。一日の歩行距離は三○㎞前後だったが「漢口」までの宿泊日数を指折り数えると溜め息ばかりがる始末で…「千里の道程」を空襲の脅威に曝されながら、消耗した体力で何処まで行軍が出来るのか、果たして無事の生還が叶うのであろうかと誰云うともなく囁かれる…この転進こそ…半歳後に迫る「敗戦」への葬送行進曲の序曲でもあった…。三年兵とは云うものの若年層だった私が不様な姿態を隠しもせず、隊伍の最後尾を必死になって歩いても、同情する者なぞ…いる訳がない。誰もがよろめきながら、前列を行く兵隊の足元だけに神経を集中して、恨めしそうに憑いて行くのが精いっぱいで…戦友を庇い合う余裕など無かった…。落伍すれば敵兵に襲われ…死亡に繋がると云う恐怖心から歯を食い縛って無言で歩く、…しかも一旦、雨が降り出すと、粘土質の道路だから部隊の行進が土を捏ねる作用をし、…忽ち凄い泥濘となり、足首まで没して了うほどで‥我々の行く手を阻んだ…。休息家屋がない露営の夜でも…哨戒の不寝番はなく、いぎたなく眠るだけであった。…四月を半ば過ぎると疲労で仆れる兵隊が続出した。行軍のリズムが乱れると中隊毎の歩行順列に狂いが生じるばかりか、見苦しくふらつく処を、付近の集落に潜伏している中国軍の敗残兵に攻撃されたのでは一大事だから、約四百kmまで辿ってきた「長沙」の兵站宿舎で…三日間の休養をすることになった…。此処で…各中隊合同の将校会議の席上、軍司令部の追加作戦命令が下された…。…漢口迄の道程約三百km内にある「洞庭湖」西方の「常徳」地区一帯に集結した中国軍第六戦区の三十箇師が、北上する日本軍部隊を側面から奇襲攻撃を仕掛け「湖南会戦」惨敗への意趣返しを目論み、全中国軍を煽る対日総反撃戦の口火とする戦略情報だった…。「敵軍ニ遭遇戦ヲ展開セントスル我ガ軍ハ、歩兵部隊及ビ、野砲部隊ヲ充当シ、各重砲部隊ハ戦闘ニ参画セズ、円滑ニ迂回シ、速ヤカニ『漢口』集結ヲ計ルスベシ…」…以上が…第十一軍作戦本部からの命令だと発表された…。

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