尖兵と遊撃兵

03.尖兵と遊撃兵

 …私は第二大隊の新編成替で第三中隊所属となり、四月一日付けで上等兵に進級した。四月二十日…。手製の階級章を一つ左胸に縫い着けて新中隊長に、二十日遅れの申告を済ませたまでは良かったが早速危険な任務を命ぜられてどぎまぎしていた…。「部隊」が中国軍との遭遇戦を回避する為「尖兵」を選出し、本隊に先駆けて情報収集及び、敵状偵察をするのが目的で、非常時には本隊の盾になるかも知れないのである。第三中隊では、大蔵軍曹が尖兵班長に指名され、補佐の山田兵長は六年兵で、他の六名は何れも三年兵以上だったが、私と同年兵の前田兵長が若手の掌握を任されていた…。「おぃッ、保科ょッ、羽目を外さんようになぁッ、頼むぞッ、」駄目押しの先手を打つ彼とは二年兵時代に太山廟警備の衛兵を共に務めた仲であった。…歩哨係上等兵の彼を散々に困らせた私の我侭ぶりが忘れられないらしく、今度の重大任務に同行する私が、負担になるのを恐れて、その出鼻を挫いた積もりなのだ…。 「はいょーッ、新参の酔っぱらい上等兵様は大人しくしますッ…」 危険と隣り合わせの尖兵に選抜された大蔵軍曹以下の誰も彼もが、一筋縄では済みそうもない顔触れなのを承知している彼は、遠慮のいらない同年兵を利用して、荒らくれ連中を巧妙に牽制したのだろうが、私にはその「腹」の内が読めていた…。 「本任務ハ 漢口ヘ急行スル本隊ノ前進ヲ助成スル目的ナリ。偵察ノ判断ハ正確二把握シ、情報報告ハ迅速果敢ニ行イ、各人ハ責任ヲ重ンジ、任務達成ヲ図ルベシ…」命令は簡略なものだったが、明らかに建前と本音の違いが認められた。携帯食料は残り少ないのに、長沙の兵站基地でも補給は無く、約三百kmの行程を消化する日程及び、食料調達の条項が明確にされておらず…目的達成の為には手段を選ぶ必要なし…と云う指令が含まれているようなものであった…。大部分の兵隊達は今日を生き、明日をも生きんが為に善悪を無視して行動し…、この一年を生き抜いてきたのだから、理屈なしで漠然と低級な行為をすることには慣れていた。全般的に軍紀が弛緩した状況下で…「大蔵尖兵班」の結成目的の重大使命とは裏腹に、任務達成の美名を売り物にした行動は奔放で、小人数の気楽さから規律は緩慢であった。本隊の八kmくらい前方の敵状を偵察しながら前進するのだが、取るに足らぬ異変でも、発見がなければ、堅苦しい「規律」に縛られなくとも済むから、こんな極楽任務は滅多にあるものではない。八人は戦場の「危険」に慣れているので…威勢もよかった。大蔵軍曹は、生来の沈思黙考型の人らしく、六年間の戦場経験で、自分なりの処世訓を創っていて…常にそれを実行していた。『生死を二分する事態の時には思い懸けない異質な条件反射が無意識に働くものだが、これは蓄積された実力が瞬時に行動を起こすからで、この瞬発力が必要である…』「運と寿命は平素の鍛練に応じて変化するもの……」と確信しており、任務遂行の成否の鍵は…「各人の気構えと決断力が肝心なのだ…」と呼び掛けていた。…然し、無節操な行動が伴うと…不可解な任務逸脱の弊害が…生じ易くなる…。蛇足ながら当時、大本営統帥部には「在華兵力の奥地進攻作戦に於いては、全般兵力運用に支障なき範囲内で小部隊の挺身奇襲作戦の実施を認むる」との新条文が追加された。大蔵軍曹が、それを知るや知らずや、隊員は次第に大胆な行動を採るようになった…。…五か年に渉る日本軍の…長沙侵攻の重圧で…、湘桂公路周辺の農民は、悉く疲弊し切っている状態だから、この近在で纏った食料を入手することは困難であった。私達は持参の食料品は非常用として保管し、例え小量でも消耗しないよう心掛けた…。日常の食物は…丁度季節柄、畑に実っている「そら豆」や「莢豌豆」を無断採取して…「常食」にし、飽食を望むことなど考えもしなかった…。先行き、どんな事態が勃発するのか予測も出来ず、私達は…緊急の場合に食料無しの状態で動きを封じられることを警戒した。何度もその辛さを経験しているから、こと「食」に関するものは決して油断はしない。例え…それが収穫の少ない農産物でも、見付け次第…躊躇せずに捲き上げて了う…。…昨年の十一月十日に「桂林」を占領し、市街で大量の岩塩を戦利品として押収、各隊に分配されたものを、今回の出発にあたって、道中で必要な貨幣代わりの「物々交換」用に携帯していたが、農民は調味料を歓迎するので、この岩塩を「見せ金」式に茶わんに盛り、実際にはほんのひと摘みを相手に渡して野菜や米を言葉巧みに取り上げるのである。万一、警備隊に訴えられ、詰問されても…そうして置けば云い逃れはできる。彼らとて…連日の空襲下で…必死に「湘桂公路」を擁護しているのだから、些細な事件に立ち会うほど閑ではない。転進部隊の行状に「苦情」を持ち込まれても、一概に無法な徴発だと決め付けられないので、区域内の警備兵もそう深くは咎め立てしない。…勝手な理屈を並べて…、私達の常軌を逸する無頼漢同様の旅が続いた…。…破廉恥な行為を窘める反省心が湧いている間は、その状況に未だ余裕があるからで、寝食が極限状態になってくれば…過去の常識を護っていられなくなる…。雨が降りだせば…、集落の外れの納屋を選んで泊り、五月雨の冷気を避ける…。…戦場の…小事に拘らない独善的な処世術では「悪業」の語義が「道理」に解釈され、機転を働かせて「食」を得ることが日常茶飯事であった。貧しい暮らしの農民は、凶悪な日本兵を警戒しても、矢張り…生きんが為には…成り行きの仔細を無視して…矢張り…虎視眈眈と「物資」を探し回っていた…。女共もそれぞれ…一握りの野菜を握っては「これを買え…」と私達に接近して来る。…乏しい稼ぎに歩き回る女を見ると、長い間…殺伐な禁欲生活をしてきた私たちは…堅苦しい道義も…抑制心もかなぐり捨ててしまい、今にも自爆しそうな性欲を満足させるには「丁度いい格好な捌け口…」だと、言葉巧みに女を呼び寄せては…性交を要求した…。中国四千年の歴史の流れには…幾度も争乱が繰り返えされてきた伝来の逞しさからか、女たちも異質な風習で、何を言われようとも…生き永らえる術は心得ていた…。…例によって、一摘みの岩塩が…邪な獣欲の代償として支払われる。 騙された女は一遍で懲りるかと思いきや、明くる日もまた来るのだった…。弱肉強食の原始的な法則が、生存意識を卑劣に追込み、哀れな駆け引きが成立すれば、肌を露にした女と男が巴に縺れ合い…憎悪を忘れて、浅ましい肢体でつるんでいた…。無情の長雨が、私たちを益々醜い堕落の淵に引き摺り込んでいく……。…旺盛な意欲でも邪険に心身を苛めれば、倒錯した精神では一片の反省もなく、番度に累ねる悪業は惰性となって、それらの刺激も…日毎に薄れていった…。折角…今日まで命永らえた「神の采配」にも…感謝の懐いなど…遠い存在であった。…野性動物に下落したような不逞の八人に「尖兵」の任務を脅かす事件はそればかりか、…うっかり…近道だと思って、集落を跨ぐ抜け道等に入ったりすると、得体の知れない場所から銃撃され、八人は吃驚仰天して飛び散る…。…「すわこそッ、ござんなれッ…」と散開して迎撃体勢をとっても…小人数の悲しさで、積極的な攻撃は避けねばならず、たまたま、敵方が非力のゲリラらしくて…事なきを得たものの、組織的な襲撃だったならば全滅になるような事件に…肝を冷やしていた…。相変わらずの空襲が何度もあり、昼日中の行動は制圧されて動きがとれず、夜行軍をすれば地元警備隊に怪しまれて狙撃され、尚更危険が増大し、困り果てた日もあった。この時期…。…在華米軍航空隊の主力は成都飛行場に在ったが、一九四五年(昭20)六月のマリアナ基地が整備完了する直前のことで『Bー29』が大挙移動する事前の偽装戦術だったから、計画的な威嚇空襲をことさら頻繁に実施したものと云われている…。他には…「カーチスP51型機」が小型編隊を組み、我がもの顔で湘桂公路を南から北にかけて湖南、湖北の各地を襲撃し、日本軍駐留部隊の機能を阻害したのである。田園地帯等で突然の低空射撃を受けると、避難場所がないので、各人は寝転がって畔道の段差に身を隠し、転々と位置を変えて、頭上からの銃撃を躱すのだが、激しい飛翔音と同時に無数の銃弾が左右の畑地に撃ち込まれてくるので、数分間は生きた心地がしない。…高度の上空を飛行中の『B-29』から撃ちだされた「20mm機関砲」の一発を顔面に直撃されて即死した戦友を知っているが、人体には命中率が低いと云われても不運に仆れる場合もある。…小型機が低空から銃撃することは人体の殺傷が狙いなのだが、よくも撃ちまくるものだと呆れる程だった。私たちが…死んだように身を伏せた侭の姿勢で…上空を盗み見していると、攻撃機は射撃を中止し、爆音が遠ざかっていくのである。八人は…こうして…その都度、銃撃を躱し「危難」を切り抜けた…。悪運の強い私達は銃撃の嵐を掻い潜った後は…決まって仲間の強運を祝福し合った…。…街道を離れて「湘江」まで退避して、流れの浅瀬で身体を洗い、暫しの休息を執る。 手榴弾の安全栓を抜き、深みを狙って炸裂させ、衝撃で浮かび上がる魚を、水中で待ち受けて捕獲し、焼いて食べるのだが、飲みものは白湯だけで…一滴の酒もない…。…幾つかの集落に泊り、鉄道の駅舎に寝たりして、敵襲が予想されていた「洞庭湖畔」も難なく超え……「岳州」の市街にも異変はなく…無事に通り過ぎた…。五月上旬…。…大蔵班長は…『岳州地区一帯ハ全ク異常ナシ。部隊の前進は可ナリ…』…と偵察状況を…後方十kmの地点で待機中の本隊に急報すべく、佐々木上等兵外一名を伝令に出して後…、更に…約百八十km前方の「武昌」を目指して北上を続けた…。…同月七日。…武昌へ到着…。丁度、一年前にトセ部隊が市内で八日程駐留した思い出の地である…。軍服も汚れ放題で、最後の行程を強行軍した一行の疲労度は尋常ではなかった。…一人の落後者も出なかった幸運を喜んだが、此処では…落ち着いてはいられない。「長江」北岸の都市「漢口」が今回の第一段階の集合地なのである…。………………。その時期…。中国軍は「米軍」の…対中国本土上陸作戦と睨み合わせ、米式装備師団を主体とする兵力を再編成し、大々的な「対日総反攻」を企図している頃であった…。日本の第六方面軍(司令官岡部直三郎大将)は、第十一軍(軍司令官笠原幸雄中将)と第二十軍(軍司令官坂西一良中将)の二軍編成で、南部の衡陽地区から…武漢地区に至る広範囲の地域に在ったが…、第十一軍は…武勲の誉れ高い第五十八師団その他の独立聯隊が桂林方面から撤退中で、第三、十三、三十四、百三十二師団は既に北上中だった。…第二十軍は、衡陽付近から武漢地区に至る第六十四、第六十八、第百十六師団、その他の部隊で構成されていた…。…第十三軍(松井太久郎中将)は、第六軍司令部(十川次郎中将)第六十、六十一、六十五、六十九、七十、百三十三、百六十一師団からなり、一部は「湖口」の下流揚子江及び南部津甫線の要域を確保し、北支方面軍は第一、十二、四十三軍と、駐蒙軍が在った…。その他、支那派遣軍の直轄兵団として、第二十七、第四十、第百三十一師団及び、飛行第十三師団がいた。 …以上、支那派遣軍の総兵力は約百五万である……。これに対して、中国軍は総兵力約三百箇師、約三百万で、中共軍は基幹部隊は約五十万と判断し、この外に民兵組織化に依る抗日戦力は軽視できないものがあった。アメリカ在華空軍は「成都」並びに「重慶」両飛行場に重軽爆等合わせて約千機を擁して…物量の豊富さを誇示し、日本軍を威圧した。そして…、華印公路に依る援蒋物資は月額約五万トンに達していたのである。…この時機、わが…支那派遣軍の作戦計画の大要は次の通りである。
  一、華中及び華北の要域を制圧し、対ソ、対華の持久戦を策謀すると共に、沿岸要域に来攻する米軍を撃砕し、以て皇土の決戦を容易ならしむる。
  二、対米戦備の重点は、先ず華中の揚子江下流、次いで山東半島とする。止むを得ぬ状況下でも南京、北京、武漢の三地区は確保に努める。然し…。 この作戦計画が発表されたのは…六月になってからのことである…。…以上の計画に基づき、軍勢力の態勢を立直し中の「八月」に終戦となったのだが…。…日本陸海軍の…本土防衛強化を図る競合は、あらゆる面で激突した。…いわゆる「星と錨」の相剋である。…右のほかにも多くの難問が累なっていた。軍の動員がもたらす労力不足、生産力低下、食料不足等の諸問題、動員部隊を収容する宿舎の不足、及び兵器不足等々……。戦況の不振、空襲の激化等は、国民の軍に対する不信感を高め、次第に厭戦気分を醸し出した。…動員兵力の増大に伴う軍の素質低下は…将兵の規律の乱れを誘発した。…そうした複雑な背景は…国力を浪費し、戦力を阻害する大きな原因であったが…その当時の私たちは、祖国の全貌を客観的に批判する能力がないばかりか、国勢の変動を数理的に判断する知識にも欠けていたのが実情で、ただ漠然と今日を生きるだけであった…。昨年の五月…。「湘桂作戦」に従軍出来なかった「トセ部隊」の疾病者達は、その後に「漢口」市内の陸軍病院等に移されて…、…若干名が残留していた…。私たちは早速尋ねて行ったが、各病室の中には…顔見知りの者が何人か見受けられた。「二本」の同年兵「矢田裕之一等兵」は一年前に胸膜炎で「太山廟」から「当陽」の病院へ入ったまでは知っていたが、この「漢口」に転送されていたのを偶然にも発見した。 私が思わず大声で呼び掛けると、気がついた彼は…吃驚したような顔をしながら近付いてきたが、見る見るうちに涙が溢れた泣き顔で喚き出した…。「あぁッ、保科ッ、生きていたんだなーッ…良かったッ、あぁーよかったなぁー…」彼は東京蒲田の出身で、同年兵の中では珍しい妻帯者だった…。…全滅部隊の噂で持ちきりだったから、私の生還を最初に喜んでくれた一人である。その二日後、本隊が漢口へ到着した。此処は中支日本軍「軍需物資」の集散地である。…直ちに疲労困憊の全陣容を一新すべく早速、新編成部隊の調整が始まった…。被服の洗浄及び補修や、軍装備品の修理と補充の為に三日間が忽ち過ぎたが、それは休養を兼ねた期間となり、部隊は五月十二日の夕方には「京漢本線」の列車に乗り込む慌ただしさで…駅構内の騒音と共に貨物車を列ねた機関車は「上海」を目指して出発した…。…「湘桂作戦」に参加した全べての「野戦重砲隊」が前線から転進して「上海」周辺の海岸部に集結し、米軍機動部隊の来襲防備の砦となる「砲塁」を構築せよ…との特別命令が全てを優先したので、該当部隊の輸送任務を担う鉄道兵は…重大使命に懸命であった。…当然、予想される昼間の「米軍機」の空襲を回避しなければならず、列車の夜間走行時間だけを計算すると悠長な時間はなかったのである…。………………。…漢口の兵站宿舎の一室では大蔵軍曹が…委託された残務整理要項の箇条書きを机上に並べ、七人の部下に細々と…、残存業務のまとめ方を説明していた…。大蔵軍曹の事務処理手腕は既に定評があるのだが、若年代の私たちは書類操作の経験もないし、世事にも疎いから、事務的内容の理解度が低級で中々納得できないのを大蔵軍曹は怒りもせずに何度も書類の説明をしてくれた…。漸く…業務を完了したのは明くる日の午後も遅くなった頃で、…高黍酒を一杯飲む時間の余裕も無く、大急ぎで…夜八時迄に「駅」に駆けつけて、指定の貨物列車に乗らなければ…次の「発車予定」日時は全く…未定なのだと云う…不定期操車だった…。私達は…不慣れな「書類整理」業務から開放されても一息する時間も与えられず、装備品を背にして駅に駆け込み、飛び乗った無蓋貨車の列には…移動命令の許に集合した歩兵部隊で沸き返っていたが、列車は夜陰に紛れて…出走した。河南省の「鄭州」まで約五百kmは夜間だけ走行をしたのだが、此処で一旦下車をして…「朧海線」に乗り換えるのに其処の兵站宿舎で三日間も待機させられた。…小人数の「大蔵班」は…他の大部隊の移動集団に圧倒されて隅の方で縮こまりながら山東省南部の「徐州」へ向かう次なる列車に乗り替えた。…丁度中間に在る「開封」の駅に着いた時間は午前十時に近かった…。昼日中の走行は禁止されているので、夕刻六時頃までは為すこともなく、ただ…漫然と空襲に備えるだけの退避時間を費やすしかないのである。大部隊は、統率上の制約が多いから自由行動ができないが、私たち八人は…誰にも束縛されないで済む。まして…死の淵を這い上がってきた私達の『絆』は堅い…。四人ひと組みの交替で、市街地へと繰り出す順番は籤引きで決まった。残る四人が装具監視をしながら、列車付近の駅構内で交替時間を待つことになる。…私は「一番手」の組だったから、前田兵長と連れ立って市街を物色しながら歩いた…。「開封」は古い時代から農産物の交易所として栄えている街だから、道端には其処かしこと雑多な穀物が山と積まれ、行き交う…大勢の中国人は、日本兵を見ても、ビクともしない顔付きで、群がる客に…商品の掛け値を問い掛けている奇声が騒々しかった…。私たちは卑しい習慣がついているから、食物の前を素通りが出来ない。物欲しそうな顔で一々立ち止まって手を触れたりして、彼らに迷惑がられるのが面白かった。街外れで…駐屯軍専用の「慰安所」を発見した二人は其処の扉を開けてみた。「兵隊さん、用は何かねェー…おんなァあそぶゥーまだ、時間早いねェー…」…寝乱れ姿の一人の娼婦が怪しげな手つきで…幻滅的なかなきり声を上げた。「今はー駄目なのかぃッ、…」 「兵隊さんッ、ケンペイー恐くないかねェー…」女は…二人の兵隊を鼻であしらいながら…無礼な仕草で追い払おうとする…。…前田兵長と私は…顔を見合わせてわざと舌打ちをした…。好奇心で覗いては見たものの、頭から馬鹿にされてしまい「士気阻喪」も甚だしい。然し、変に居座って騒ぎ立てられたら…それこそ一大事だし、そうかと云って尻尾を巻いて逃げ帰ったと見られるのもまた忌ま忌ましい…。「ははぁーん…漢口と此処じゃぁ、規則が違うんだなッ、まぁッ、出直そうかぃッ…」…二人が作り笑いで肩を振りながら…戸外に出た途端に物凄い爆音が空に響いた…。咄嗟に外壁の蔭に身を張りつけたが…低空で飛来してきた「P51型機」の小編隊は縦一列編成で斜面体制から…「駅」方向に銃撃を浴びせかけている。攻撃目標は云わずと知れた日本軍部隊の退避集団である…。「山田兵長殿たちは大丈夫だろうかッ…」私は…留守当番の古参兵の身を案じた…。…二分くらい反復攻撃を繰り返したが、通り雨が止むように編隊は飛び去って行った。「駅」の方向から黒煙が湧き上がっているのが見える…。二人が息を弾ませながら、駅構内付近まで駆け寄って見ると無蓋貨車の四両から濛々たる煙が噴き出ていて…その付近にも…燃え燻る小さな炎が見えた…。鉄道兵らしい連中の、小型消火ポンプが素早く作動して放水が開始された。「おぉぃッ、前田ッ、保科ッ…此処だッ、此処だぞぉ~ぃッ…」佐々木上等兵が大声で呼んでいるのに気がついた二人は「あぁッ…」と駆け出した…。…大蔵軍曹始め六人がひと塊になっていて…心配そうな顔をしている。「お前たちの小銃だけは持ち出したが…、…装具は駄目だったよッ…」「はいッ、有難うございますッ、皆さん…ご無事で何よりでしたッ…」…重要な物品は携帯していないけれど、装具一式が官給品だから、焼失したならば…一応処罰の対象になるだろうが、私たちはその程度のことで周章狼狽するような柔な兵隊ではない。…「湘桂作戦」では車両が爆破され、或いは「砲」を湖水に沈められたり、小銃を紛失することも珍しくない…数多くの事例を見慣れていたのである。勿論、大蔵軍曹は顔色を変える処か…「命の方が大切だょッ…」と…笑っていた…。 ………………。…「開封」の民衆はこの…時折訪れる「米軍機」は日本軍だけを攻撃する為に飛来してくる中国の救世主だと信じているから、空爆の被害を見る度に気勢を上げるのだと云う。その夜七時頃…。そろりと現われた歩兵部隊の一行が、焼け焦げが残る貨車に乗り込んでくると、私達も…その片隅に肩を寄せ合って座った。東方向の「徐州」を目指す走行が再び続けられたが、さながら手負いの狼集団同様の鬼気迫る光景であった…。…私達にしても…空襲を平然と受け流す程、沈着冷静ではない。…街中の何処かに潜んで…「小人数」の日本兵だけを狙撃の対象に…一発必中の銃口を向けている「ゲリラ」の前に身を曝したのも同然の道中を平気でいられる筈はなかった。「徐州」付近は、あの頃流行った「麦と兵隊」の歌詞どおり…一望千里の麦畑である。此の地では、米の収穫はないけれど、それ以外の物資は豊富な街であり、主要道路の両側には蒸しパン屋等が並び、捻じりん棒の油揚げが私たちの食欲をそそった…。麦飴が甘い匂いを辺りに漂わせ、空腹の一行を誘惑したが、大蔵軍曹は「蒸かしぱん以外は食っちやぁいかんぞッ」と…この地域の食生活に不慣れな私達に注意を与えていた。露店では…盥に似た桶に山盛りの岩塩を看貫秤で売買しているのが印象的だった。…私たちは半円を描くように、津甫線の「甫口」行きの列車に…再び乗り換えた…。約三百km南下すると「長江」に達し、その対岸には旧都「南京」が控えている。…「米空軍」が鉄道を爆破せず、機関車や列車にも損害の出ないように手加減しているのは日本軍が余命幾許もないことを見越しているかのようだったが、道中で幾つか下車した市街でも、民衆の態度が、顔だけは笑みを湛えているものの、日本の兵隊を揶揄する素振りが次第に露骨となり、巧緻な対応が曰く有りげで、私たちを不安にした……。「漢口」を出発して以来、何処の「街」も治安は万全だと見ていたが、実態は日本軍の最大行動が空襲退避のみで、積極的な示威活動を放棄したのも同然だったのである。中国人は戦局の興廃を敏感に察知して毎日の生活に反応を示すと云われるだけに…彼らの商売に対する姿勢が…自信満々に見えるのは…何か不気味な感じであった…。私たちは、かつての広西省東部地区で、有頂天に暮らした頃とは大違いの現況を自覚し…、その惨めさに…思わず力が抜けてしまいそうになるのをぐっと堪えていた…。…『P51型機』の編隊が再々に亙って、我が軍の移動部隊を空襲し、損失を与え…作戦行動を大幅に妨害し、将兵の戦意を喪失させたのは否定し難い事実で…当時、中国全土の制空権は…完全に「米軍航空隊」が掌握し、日本軍を制圧していた…。 ………………。…「大蔵軍曹」の懐いには去る四月二十日、八人が「長沙」を出発した時「洞庭湖」西面に集結したと云う敵軍部隊の襲撃情報が伝えられる中を暗澹たる胸中で…敵中三百kmの行程を殆ど野宿同様の状態で…尖兵隊の任務を無事に達成した自負と誇りがあった…。七人の隊員が戦場慣れしていて…其々が独自の才能を発揮し、大蔵軍曹の期待に応えてくれた活躍にも大きな価値があり、何れも…論功行賞の対象になる功績であった…。…若し、任務途上で、例え一人の犠牲者でも発生していたならば、その動揺は如何ばかりかと思えば…今更ながらに、一行の強運を噛みしめていたのである…。…任務終了は目前に迫ったが、諸手を挙げて歓声を上げる心境には未だ程遠かった。「南京」…「無錫」…「蘇州」…「上海」と汽車を乗り継ぎ…漸く五月三十日に至り…「江湾地区」に設営中の「トセ部隊」の本拠地に念願の合流が叶えられたのである…。この期間の…四十日間は、劇的な行動と興味津々たる起伏で綴る内容であるが…、後半「漢口」を出発してから、鉄道行路とは云え…実に千四百kmに及ぶ中国大陸を流浪し、苦難の旅路で心身落魄した私達は…何年ぶりかの寝台で…戦場の夢を見ることになった。小人数で、規律に縛られずに敵地を潜行し、功績を挙げる組織体が「特別遊撃隊」と称して「陸軍作戦要務令」に追加編入され、正式に認知されていたことを知ったのは、それから四十年後…。私が「戦史」を調査中に偶然…発見したものであるが、往時の私達が、それ程の功績を挙げた訳ではなかったにせよ…、現在では甚だ感銘深いものがある…。

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