資材搬送船

05.資材搬送船

 七月に入ると、砲塁構築工事は愈々拍車が掛かって、凄まじい作業になった…。…然し、連日の労働は気温の上昇と共に疾病者が続出し…能率が低迷してきた…。トセ部隊では全員が、過ぎる…三月以降に続いた長ッ丁場の「転進」道中が強行軍だったにも拘らず「江湾営舎」に来てから一ヵ月余り、満足な休養も与えられず…疲労が蓄積された身体に重労働の無理が重なったことが…大きく影響している…。第三中隊でも約百八十名の過半数が、何日かの「作業休」を経験する事態となった…。…私は…永らく本隊を離れて気侭な旅を味わったせいか、疲労度も軽く、既に精神的な落ち込みも回復しており、目的の明確な作業に従事した充実感が、労働意欲を増進させ…自分自身でも吃驚する程丈夫で…、勤務成績も抜群だった…。…七月下旬…。…私は「土木資材集積」の特別任務を拝命した。来襲米軍の戦車上陸を阻止する防禦溝と「砲塁構築」の偽装用材料だと聞かされた。大隊本部の「庄司軍曹」が班長で…佐々木、三保両上等兵など各隊選抜の健康抜群な顔ぶれの七名からなる編成陣が決定したのである…。私はその朝…。黒岩中隊長に「派遣任務」の申告を済まして、早々と九時の集合時間前の「営庭」に飛び出した。軽装具の六人の兵隊は庄司軍曹を前にして整列した…。彼は「乙幹出身」で…痩身白晢の見るからにインテリの風貌だった…。「今回の任務は…水運利用の船便に依る資材輸送であるッ…。搬送の船をねぐらにする船上生活者の一族郎党と同居することになるが、間違っても女子供には乱暴な行為がないように注意しッ、言動は慎重にしてッ、任務達成に邁進して貰いたいッ…」毅然とした動作で「出発」を宣言する庄司軍曹には気品が漲っていた…。普段の静かな立ち居振る舞いからは窺い知れない凛凛しさなのである…。…船は十噸程度の帆付きの木造貨物船で、十一艘が「部隊」との搬送契約が出来ているらしく、兵営の裏手を流れる運河の岸辺に係留されていた。…私たちは指定された船に各々、分かれて乗り込んだ。行く先は約百十km西方の「無錫」地区である。全行程は、掘割り状の横幅二十mくらいの運河で連なっているのだと云う…。…積載する大型角材、栗石等は現地の民間業者が、舟付き場まで搬送する段取りだった。舟の推進は風力を利用する帆以外の方法として…舳先に結んだロープを長く伸ばして二・三人の舸子が、それを肩に担いで、陸地の岸辺を歩いて舟を曳航する人力式もあり、閑かな舟唄が似合いそうな…おおらかな風景だが、我々を退屈にさせる…。一日の就航距離は二十kmそこそこだから、実に悠然としたものだった。…五日目……。目的地に着いた船が…投錨するなり、早速資材の船積みが開始された。全員が一緒になっての集中方式を採っており…能率のよい作業ぶりだったが、資材の集積量が以外に少ないので空船が半数もあり、入荷待ちと云うことになった。 私たちは、為すこともなく手持ち無沙汰で…拍子抜けの状態であった。「中国人ッてなァー、何処へ来ても相変わらず…漫漫的なんだなァー……」 勝手気侭な雑談を交わしながら呑気に構えていたが、普段は寡黙の庄司軍曹だけは積極的に今回の船団ボスの「郭源栄」と、何やら打ち合せを続けていた。…貨物船への積込み監視役は一人で二艘を受け持つように分担されていた…。「江湾」から「無錫」へ来るまでの五日間に私たちは何回も舸子と一緒に船の曳航を手伝うなど…運動不足を補う意味もあって労働提供を惜しまなかった。私達が彼らに好感を持つようになった第一の理由は、水上生活族は明朗闊達な上、団結力が強固で、特に勤勉な態度が目を引き、その上…大変な清潔好きで、暇さえあれば船上の拭き掃除を励行し、舷側を水洗いするなど船を積極的に大切にしていることであった。一艘の船には平均二人の舸子(苦力)と、船主一家が暮らしているのである。…船着場に資材が搬送されてくる待時間は…思いの外に長引いた…。真夏の太陽の下で船上生活をしているのだから、当然水浴びがしたくなってくるが、今では…船の子供たちもすっかり兵隊に懐いてしまい、喜々として水遊びをしている…。…食事時間になると、炊事を担当する「媽々」が、それぞれに受け持ち担当の兵隊に親しみを込めて、愛想よく話し掛けてくるのだった。「一緒に食事をしよう」と云う「誘い」なのである…。庄司軍曹は「郭ボス」の船だったが、決して威圧的になったことはなく、常に柔和な眼差しで子供らに接し、作業者優先の協力的な態度は大勢の舸子たちにも理解されていた。そのうえ「郭ボス」の立場を優位に保てるように仕事の打ち合せでは同格の姿勢を崩さない彼のことを…みんなは「ボス」同様に尊敬し、信頼していた…。その行動は…私達が後日になってから…思い当たることなのだが…、この…「荷受け待ち」は、それから一週間も続いた…。 そして…。八月十四日の…昼頃になったのだが、付近の状況は未だ「平穏」だった。…其の日の午後。私と三保上等兵は庄司班長に公用外出許可証を貰って「街」へ出た…。…市内を歩くと日本兵の姿が視界に飛び込んで来たが、此処には「無錫駐屯部隊」があるのと、その外に運河を利用した搬送船は他部隊でも当然、実施していたからである。然し…この日は規定の休息日でもないし、なんとなく市街の様子が静かであった…。…「軍指定」の慰安所を捜して来てみると、あの…「江湾」地区の慰安所とは大違いで、綺麗に飾られた…落ち着いた雰囲気の「小部屋」に二人はすんなりと滑り込んだ…。私の「相方」はうら若い中国の女だったが、見慣れない顔にも、優しく微笑んでいた。「是可、進上…」(これを…あげるょ)……」私は上衣を脱ぐときに内ポケットから、ちり紙の小束を取り出して…押しつけるようにして彼女の手に握らせ…(たいしたことじゃぁないよッ…)と云うめくばせをした。「シャシャノン(有難う‥貴方)…」彼女は素直に受け取ると笑顔を見せながら…嬉しそうな表情をした。「…ライライ……、(此処へいらっしゃい)……」こんな環境で巡り会ったのだが、若い男女に難しい言葉はいらない……。インスピレーションに惹きずられる親密感に…二人の手と手が優しく結ばれた。…冷んやりとした女体を抱いた快感が、五体を揺るがす疼きとなって、早まる鼓動に…思考が希薄になっていく。男と女が互いにまさぐり合う愛撫の技巧は…抑えきれない高まりの呻き声を絡めて…この世の法悦を貪りつくす…恍惚のひとときとなった…。「ヤサシイ…上等兵…、………… 好好的…」女の目は、しっとり潤んだまま…情欲の深淵に溺れていたが…、…暫らくすると…汗の滲んだ私の首に絡みついたまま、身悶えしながら…何やら喚きだした…。「トンヤンピン(日本兵)…トントンディ、スラアー(みんな死ぬ)…ブシン、ブシン…(だめッ、だめょッ…)…スカイデ、ワンラァッ、(もう…世界の終わりだわ)…」……もどかしくても、私には…その程度しか聞き分けられなかった。三ヵ月前に華北河南省北部の「開封」駅付近で貨物列車に便乗中に…アメリカ「Pー51型機」が来襲した頃、必死の逃走を続ける中で…、徐州行きの列車を待機していた間、殆ど争乱状態の市街に在って空腹のあまり食物を漁り回っていたことが幾日もあった…。あの頃……、強かな露天商人から…遠慮会釈のない「日本人侮蔑」の言葉を投げ付けられたことが何度もあったのを忘れてはいない…。日本軍の壊滅を冷やかされ、新聞記事を突き付けられて嘲り笑われたこともある…。而も、それを反駁する論拠もなく、戦局の趨勢が何処に傾いているのか判断も出来ない環境に追い込まれている自分たちを苦々しく思ったことは再三再四であった…。そうした経緯があった故なのか、私は…安易な憤激をすることがない…。…この私を憐れんでいるのか…それとも乱世の現在が哀しいのだろうか…、両頬を濡らす涙が…そのどちらであろうとも、今は…私との果ない逢瀬で炎えた情念に、この世の無情を想い…愛別離苦を堪えようとした切ない涙なのだと…信じたかった。…久しく忘れていた滾るように脈打つ情感だったが…これを青春躍如と云えるだろうか。優美にしゃくり上げる柔らかな身体を抱きしめながら嘆息するのは未練であろうとも、言葉を変えれば…男冥利に尽きる満足感が…渾々と沸きこぼれる瞬間だった…。…………………。…一足早く戸外に出ていた三保上等兵は…手持ち無沙汰の表情で私を待っていた……。「…お前のPも、いいみたいだったらしいなァ…、…さぁッ、早く帰ろうぜッ…」戦友を促す彼の態度には、三年兵らしい落ち着きと分別が忍ばれる…。…一九三七年(昭12)十一月に名を覇せた当時の「上海派遣軍」…第十六師団が「無錫地区」を占領して以来、この七年間は…現在の中支派遣軍が引き継いで、揚子江の南岸地域を確保して治安の安定を図り、統治下の秩序を擁護するため、この地に派遣された部隊が…半永久的な兵舎を構え…駐屯軍として…現在に至っている…。その当初、わが大本営では「対ソ戦」準備のための陸軍軍備充実計画と、対米戦を準備する海軍第二次補充計画とが同時に進行している頃で、中支派遣軍としては…その後の首都「南京」攻略によっても、中国の抗戦意志を挫くことができない中国戦線に、今まで以上の兵力・資材を注ぎ込む余力がなかった。 止むを得ず…参謀本部は、次期作戦について検討を進めた上で、当分これ以上戦線を拡大しないと云う方針を固めたのである…。然るに、この戦面不拡大方針を中国側が日本軍衰微の徴候だとして宣伝し、世界各国にも報道された為、参謀本部では…これを放置させぬ…意見が大勢を占めた…。結果は、「徐州作戦」の実施となり、「武漢攻略作戦」に転移したのである。…それが西方の「宜昌作戦」に進み、また南東方面の「広東作戦」をも併発した…。…数次の…「長沙作戦」を経て、遂に一九四四年(昭19)五月から大陸打通作戦(一号作戦)を展開するに至った…。支那派遣軍麾下の「第十一軍」が、三十二万余の大軍を…行程千五百km、七か月間を決死の覚悟で進軍し…「長沙・衡陽・桂林・柳州」を占領した「湘桂作戦」だったが…、五ヵ月後には前線部隊の全てが「衡陽」まで撤退せざるを得ない情勢が生じた…。釣瓶落としの秋の陽は斯くの如しかと思わせる急激な日本軍の凋落ぶりは止まることを知らず、今や…中国大陸に在る全軍の気運は衰微の傾向に流された。…私達が土木資材の輸送作業のゆきずりに…荷受け待ちの時間潰しで…登楼した娼婦に恋情を抱いても、所詮は一人よがりの感傷に過ぎず…それは泡沫の夢に過ぎなかった…。…二人が船着場に戻ったのは十六時頃である…。庄司班長に帰船を報告しようと顔を出すと…何故か全員が集まっていた。「おぅッ、…街にッ、変わったことは無かったかッ…」「いぇッ、無錫は静かな…いい処でしたッ…」…みんなが一斉に注目している微妙な気配を感じた私は…ふっと…「さては何事かが起きたんだなッ…」と、神妙な顔で班長の次の言葉に聞耳を立てながら身を乗り出した…。「保科たちが来るのを待っていたんだょッ…まぁッ、こっちへ寄って座れょッ…」…船倉にはアンペラが敷いてあり、全員が車座になっている中で、班長の脇に「ボス」の「郭さん」が生真面目な姿勢で…目をしばたたせながら、控えていた……。「……実は…日本がッ、重大な事態になったんだッ……、よく聞いてくれッ…」庄司班長が事の次第を…冷静な口調で…その経緯を語り出した……。「…………、…………、……………」…まさかと思う…「日本の無条件降伏」は…驚くべき内容であった…。…それは…ラジオニュースで世界各国に電波が流れて、報道は仔細に渉り、決定的な事実として、明…八月十五日には日本政府が正式の発表を行なうことになった…と云う…。…七月十七日から、トルーマン(アメリカ)、チャーチル(イギリス)、スターリン(ソ連)三国首脳 はベルリン郊外の「ポツダム」で会談を開き…、二十六日…米、英、中三国の名で『ポツダム宣言』を発表し、日本に…即時「無条件降伏」を要求した…。降伏条件は…、軍国主義の除去…、領土の制限…、軍隊の武装解除…、戦争犯罪人の処罰…、民主主義復活強化…、経済の非軍事化…、及び以上の目的が達成されるまで「日本領土」は「占領」されると云うのである…。八月六日。広島に原爆が投下され…、次いで九日には長崎にも原爆は投下された。…二つの都市は一瞬にして壊滅し、広島の死者は二四万人以上、長崎は十二万人だとか。…八月八日…。ソ連は日本に宣戦布告し、ソ連軍は南樺太(カラフト)、 満州、朝鮮へ…怒涛の如くに進撃し、各地を蹂躙していると云う…。…原爆投下と、ソ連参戦が「日本」の息の根を止めたのである…。十日…。「日本政府・軍部」の最高戦争指導者会議が開かれ「天皇の聖断」による…「ポツダム宣言」受諾の詔勅が厳かに発布されて、大東亜戦争(太平洋戦争)は、三年八ヵ月を以て…「大日本帝国」が「敗北」したことが明白となった…。…庄司班長は、船団ボスの「郭さん」に…「日本」の第二次世界大戦中の主要項目だった「東洋平和」の提唱が…現実には…「侵略」と判定される一方、莫大な戦費の浪費から、国内経済が破綻し、軍官民全部が…力量の限界に達した為に、連合国の提示した「終戦」勧告に同意せざるを得なかった今日までの経緯を聞かされたのだと云う。…郭さんは…現在の船に乗る以前の少年時代、前船主の父親から学問の必要を教えられ、中等学校を卒業した秀才だとか…。「上海」と云う土地柄から英語の読み書きも達者で、…その知識抜群の有様は仲間内では評判だったらしく、今回の資材輸送の一件でも日本軍と労働報酬の交渉に関しては…一切の権限を委任された船団の代表者なのである…。庄司伍長が、郭さんを自分と同格に処遇する理由も、その辺にあったのだろう…。…こうして…私たちだけが、部隊からの正式発表も命令もこない事前に、日本の敗戦を知り得たと云うことは、今後に「有利」を齎らすのであろうか…。話の途中で、何度も英語の会話や筆談を使って綿密な打ち合わせをする二人は、互いに信頼し合う間柄だが…交わす言葉や…その顔は、真剣そのものであった…。「この船倉に全員が退避した侭でッ、外部民衆の動静に一応警戒する必要があると云うんだッ、今日から明日にかけて…民衆の暴動が発生するかも知れないからだッ、俺たちの「身の安全」は、この郭さんが保障すると、約束してくれたょッ…」…郭さんは…凛とした顔で、私たちを見回しながら無言だったが…一人で頷いていた…。今までにも度々日本の敗戦を風刺する中国人に出会って来たが、果たして本当に祖国は「前代未聞」の結果で、終止符が打たれたのだろうか……と私たちは…庄司班長の説得にも拘らず…古今未曽有の一大事を、未だに信じ難い思いを抱いていた…。「今から…大声を出さないで、夜になるまでは陸の民衆に絶対ッ、顔を見られないように注意することが肝心なんだッ、万が一ッて云うこともあるからなぁッ……」六人の兵隊は神妙に聞いていたが一人として班長に反論する者はいない……。…其の夜は…複雑な想いが交錯してまんじりともしないうち…翌未明の刻…。突然…。至近距離から数発の銃声が鳴り響いて、群衆の騒めきがどっと挙がった…。…「うッ…、来たなッ、…」 私たちは睡眠不足の目を剥いて小銃を持ち替えると班長の指示を待った…。 「メイユウカンシィ(心配無用)…」間髪を入れずに飛び込んで来た…ボスの郭さんが両手を広げて七人を抑えた…。自信に満ちた顔は…「騒がないでッ…、我慢してッ…」と云う意味である…。…郭さんが一人で船外へ出て様子を見てくることになった…。しばらくして戻って来た郭さんが、庄司班長に英語で何やら説明をしている。…運河の掘割りは縦横にあって、他にも日本の部隊が編成した輸送船団があるのだが、五百mくらい先で暴徒の襲撃があったらしく双方の小競り合いが始まったのだと云う。…日本の兵隊が威嚇射撃をした為に…激昂した群衆の中から少数の者が発砲したらしいのだが「日本兵が応戦さえしなければこれ以上の騒動にはならない筈なんだ…」と聞いて、私たちは…郭さんが全ての状況を冷静に、而も的確に捉えている、その「読み」の深さを感心すると同時に、彼の言葉を信頼するしかないと云う気になっていた…。日本の無条件降伏は日本軍より民衆の方が先に知っているのだから、戦争の終結を撹乱するような行為を民衆のリーダーが許す訳がない…と云うのが郭さんの意見である…。

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