無錫脱出

06.無錫脱出

 紛れもなく「日本の敗戦」は事実だったのだなぁッ…と私たちは観念した…。それなのに…ボスの郭さんはどうして…我々に伍してくれるのだろうか。…庄司軍曹が泰然自若として頼もしげなのは、郭さんを信頼しているからなのだろうか。「班長殿ッ、自分たちはこれからどうなるんですか…」「うんッ、みんなが節度を守ってくれたからッ、命だけは保証されそうだなッ…」…それにしても、七月末に「江湾」を出航してから、昨今の不穏な情報が飛び交う中、今日まで半月余りの間を、十一艘の船を無難に掌握し、大勢の舸子を手足のように自在に使い切った…郭さんの見事な統率力があればこそ…こうして一致団結が保たれたのである。 …日本無条件降伏のニュースは二週間前から中国人同士では話題になっていたらしく、郭さんは…そのことを庄司軍曹に打ち明ける機会を延ばした理由も…、七人の兵隊を援護しようと決心した動機についても…、それなりの根拠があったらしい…。庄司軍曹が今回の任務拝命に当たり、最初に作成した「資材搬送実施計画案」の一項目に「作業の合理化」と「日常生活の融和化」…と云う条項を重視し、全員が心がけてきたのが、先ず第一に郭さんを始め、他の十人の船頭たちの「心」に響いたのだと云う。威圧的で横柄な日本兵ばかり見慣れていたので当初は吃驚したらしいが、やがて一同は揃いも揃った七人の平和的な行動に好感を持つようになり、それが尊敬にまで変わった。船の曳航に労力を提供された時、舸子たちは中国兵と一緒の仕事をしているような錯覚を抱いて、同一目的の労働行為が…楽しく感じられたそうだ…。自分らの子供たちを可愛がって貰って嬉しくない親がいるものか…とも云った。私たちは…彼らが指摘した、そんな行為が…つけ焼刃ではないことを自覚している…。…あの広西省「桂林」が陥落した後、その付近から街道沿いに「全県」辺りまでに…各隊が四ヵ月も、其々の集落で…村人と融合しながら暮らしていた経験が、無駄ではなかったことを知って、今更のように…あの頃を懐かしんだのである。米軍の中国上陸を阻止する…上海沿岸防備作戦に選抜された「トセ部隊」が、砲塁構築工事を完成したところで…空陸に大挙して来攻する米軍機動部隊を正面から迎撃すれば…九死に一生も覚束ないとは…とっくに覚悟を決めて…今日まで生きて来たのだった。この船団の連中が、昔気質の律儀な厚い「信義」を守り、七人の日本兵に返礼をするのだと云って「擁護」を申し出てくれた…その経過を知った私たちは、思い掛けないことが嬉しくて、口々に「シャシャァノン(どうも有難うございます)…」と礼を云い合った。庄司軍曹は「日本敗戦」の報告を受けた時に、疑う余地のないような「殺気」を汲み取り…「日本軍」の異変が既に接近し、到底…躱しきれないものだと推察していた…。…郭ボスの今日までの行動と睨み合わせても「流言蜚語」で自分らを脅すような軽薄な人柄ではないと信じていたから、熱心にその報道を聞き、詳細な経緯を知ったのである…。然し、十五年の長い間、日本の武力弾圧を受けて、止むなく屈伏させられてきた中国民衆の…わけても一般労働者階級は、理論抜きで日本無条件降伏に反応して喚声を挙げた。永い年月を虐げられてきた彼らの欝憤が…この時に憤激するのが当然なのであろう…。…日本兵が小人数で街を歩けば予期しない暴動に巻き込まれる怖れがあると云うのだ。殺戮をも辞さない襲撃があったとしても、悲壮な怨恨がらみであれば抑え切れない…。昭和初期に東亜細亜黎明の烽火を揚げた日本の軍国主義は…「中国」に欺瞞的外交政策を進め…全土に圧力を加え…大陸各地を跳梁した…その猛威は凄まじいものだった。
 日本軍部が、飽くなき前進を推奨した「東洋平和」の旗印は罪なき民に砲火を浴びせてそれを「聖戦」と呼び、勇敢な「皇軍」は…断固膺懲の矛を執ってこそ…最良とした。…日本国民の大部分が、幼児より…ファシズム思想を教育されて成人しているのだから、中国を侵攻する過ちを、指摘する批判力が育つ道理がない。「傀儡」の皇道思想は…中国侵略を礼賛し、言論の自由を弾圧し、ラジオの短波受信等も封鎖し「集会」を抑制して…只管「大亜細亜主義」の妄想を追い続けてきたのである。…「日本無条件降伏」は「青天の霹靂」であった……。中国在住の高級参謀陣も…咄嗟の判断がつかず、賢明な指導方針が提示できなかった。突然、大いなる指揮権を剥脱された岡本総司令官の失望落胆は覆うべくもない…。権威を失墜した支那派遣軍司令部が、中国軍の指示による…日本軍向けの命令は、既に絶対的な効力は希薄だったが、恥を忍び…血涙を拭いつつ…全軍に布告された。…各師団長は…出処進退に疑念を生じて行動に迷い、良策を模索し、苦悩していた…。…米軍上陸に対抗した要塞の陣地構築工事は頓挫し、従事していた各部隊の将兵は…天を仰いで号泣した…。情報連絡が行き届かない末端の出先機関や…、資材集積等の任務で遠隔地に派遣されていた少数の兵隊等は…通信が途絶え、その侭…放置された。而も…その状況で、善悪の識別判断ができない指揮官を頂いた兵隊は不幸だった。判断能力の程度が低い者は…臆病風に吹かれて徒に右往左往し、激昂する群衆に狼狽して発砲をすれば…事態の収拾に不利なのは当然のことであった…。捨身で立ち向かう勇気もないのに、軽率な衝突事件を引き起こしたりすれば、多勢に無勢だから…袋叩きにされるのが落ちであり、重傷を負う者や…不幸な落命者が出た場合は…悲惨な残骸に執り縋って涙しても…命は元に戻らないのである。…その時点で…庄司軍曹は、分別を無くして…暴徒化した盲従の群衆が、猪突猛進してくる前に在って、全員の身を護衛する方策を懸命に思案していたのである。「ボス」の郭さんとは口約束だったが、その意見を尊重することを彼は決断した。…暴走する群衆には…日本兵の好悪・是非を選択する余裕がないのだから、七人の存在を発見すれば無事に見過ごす筈がない…。 郭さんの「力」をもってしても防ぎ切れないのは明白である。彼の好意に応えるためにも…愚かな行動は避けるべきことであった…。…有り難いことに、この船団の大勢の舸子や家族たちも「ボス」とは「仁義」で結ばれているし、水上生活族特有の団結力のお蔭で、私たちの「安全」は確保されていた。…その夜……。十一艘だった船団を…一旦解散したと…、郭さんに知らされた私達は…一瞬、不安が過ったけれど、明くる日になっても事態の変化は見られなかった…。異状な状況の中に息を潜め、恐れ慄いた…長い一日である…。…八月十八日午後…。…興奮の度合いが一段落し…騒擾の気配が鎮まった…。船団解散後に残った五艘は、その日の夜陰に紛れて無錫を離れ…東へ向かっていた。運河の流域周辺は何の異変もなく、平素同様に…静まり返っていた…。…船は…音もなく、西南の風を帆に孕んで…「江湾」に向かって進んだ…。私たちは交替で、舟べりに顔だけ出して両岸の警戒を怠らなかった。中国軍の進駐が遅れているらしく、治安の程度が不明だから…油断できないのである。三日経っても…「郭船団」に官憲からの停止命令はなく、航行は順調に進んだ。…その夜の水路は、月明かりに浮かんで…さながら薄暮を思わせる見晴らしであった…。途中に船着場が数箇所見えたが、その時…目の前に現われたのは日本軍部隊専用で、岸壁に大量の角材が野積みされているのが鮮明に捉えることができた…。その後方には、営舎の裏門があり、長い囲い塀をめぐらした広い営庭の真向い正面は…二階建の兵舎だったが、消灯後でもあり、建物全体が静かに眠っている…。「停止ッ、…」…間髪を挟まぬ庄司軍曹の低い声が鋭く響いた。次々と四艘に伝達する手並みは洗練されているから少しの躊躇もない。辺りを押し殺すような声が流れていくと、鮮やかな操舵技術で五艘は並び、ロープで連繋された。「ボス」が「何事か……」と訝る隙も与えぬように…次ぎの声がした…。「あの材木を全部積み込めッ…」 「えぇッ、…」庄司軍曹が指差す先に山と積まれた角材を見た私達は…想いもよらぬ意表を突く命令に「度胆」を潰したが、一瞬…その意図が理解できた。「それぇッ、…」…手真似と身振りは…舸子の連中が言葉より迅速に意味を覚る…。度胸のいい、班長の大英断に即応した私たちは…小銃を手にして岸辺に飛び降りた。舸子連中が角材を船積みする間、私たちは反射的に兵営方向に銃口を向けて…攻撃姿勢を執って日本軍を牽制し、積込み作業を庇護したのである。…実戦で鍛え抜いた気迫と動作には自信があり、まだ衰えていない…。…舸子たちは「あぁッ…」と云う間に積込みを完了し、早くも出航準備の態勢である…。日本軍の駐屯部隊では、この有様を裏門警備の巡回動哨が気付かぬ筈はない…。然し、如何なる訳か、鳴りを潜めて物音一つ聞こえてこなかった。…材木の剽窃は露見したのだろうが、報告を受けた週番士官は相手が中国兵だと思ったのか、迂闊に…この掠奪を阻止して銃撃戦にでもなれば…大事件の当事者として責任問題を追求されるのを慮かったのか、既に不要と見做す…たかが材木程度で騒動を誘発させては「千慮の逸失」になると判断し、苦肉の防御策をとったとしか思えないのである…。確かに…その「賢明」な処置のお蔭で…こちらは一人の怪我人も出すこともなく…奇襲戦法は、功を奏したのだが、庄司軍曹が万が一の衝突事件を覚悟の上で、その身を擲って実行した…違法の「無断積込み」は無事に終了したのである。「ボスの郭さん」は庄司軍曹の手を取って何度も感謝の仕草で…相好を崩した…。…無錫での積み荷は別れた六艘に労働報酬として全部渡したので、残る船に支払う賃金は今となっては…日本軍からは貰えないだろうし、諦めていた労働手当を上回る報酬として…奇抜な方法で大量の「材木」が、手中に納まった感激を隠そうともしなかった。 庄司軍曹にしても思いは同様なのである…。…搬送船は何事もなかったかの如く…静かに東へ流れていた…。八月二十三日…。その夜の深更を狙って船は「江湾」の集中営舎裏の岸壁に接近した。…下船間際になると郭さんは「形ばかりの送別会で済まないが…」と「高黍酒」の小瓶をかざし…乾杯の祝宴を開催してくれたが、僅かに茶わん一杯ずつの小量でも、舌にころがる味のよさ加減は、その後…何時までも忘れられない貴重な思い出となった…。

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