終  戦

07.終  戦

 …一九四五年(昭20)八月十五日…。…正午の時報後『陛下』の特別放送があるので、全国民は整列してお待ち申し上げるようにと、ラジオアナウンサーの声が繰り返された。天皇陛下の詔勅を…一般人が直々に拝聴することは…いまだかつて例がなかったから、正確な情報と、的確な判断力を持たぬ国民は、心の片隅で、ポツダム宣言受諾〓降伏…かと…不吉な予感を抱きつつ、まさかそんなことはあるまい…、広島・長崎の原爆投下、ソ連参戦と相次ぐ危機が切迫し、陛下が最終の決戦を呼び掛けるのであろうと推察した。日本列島全体が、悲壮な静寂に支配されていた。 「玉音放送」が流れた……。 一瞬、全国民は…わが耳を疑った。…現人神として、且つ、凛凛しい大元帥陛下として崇め奉られてきた陛下のお声が…、意外にも女性的で優しく、しかも、文言の切れ目が少し尻上がりになるイントネーションと、やや間延びした朗読のテンポは、荘重さに欠け…いささか軽い感じがしたのである。放送は雑音に妨げられて聞きとり難かった……。…「戦局必ズシモ好転セズ……堪エ難キヲ堪エ忍ビ…………各員一層奮励努力セヨ………万世ノ為ニ太平ヲ開カント欲ス………、………、………」…難解な語意を、断片的に拾い聞ぎきする文言から、日本が戦争に敗れ、ポツダム宣言を受諾し、降伏したことを国民は…漸く知ったのである…。明治初期より…「国民皆兵」を国是に…「神州不滅」を謡い…「日清、日露」の国難も一致団結で…克服して以来、近代文明を築いた「日本」は…万世一系の天子を誇りつつ、紀元二千六百年の御代…、大東亜戦争の勝利を信じて、今日まで闘ってきた心算だった。…老若男女の全部が…茫然として為すことを忘れた…。時間を追う毎に「ポツダム宣言」の内容が、箇条書きで…発表されたのである。 軍国主義の除去、連合国による保障占領、領土の規定、軍隊の武装解除、復員、戦争犯罪人の処罰、賠償取り立てと再軍備阻止、平和で責任ある政府樹立後に…進駐軍は撤退、日本軍隊が、無条件降伏等の諸条件を前提にした迅速な受諾がなければ、日本国軍隊の徹底的な壊滅と、日本本土を完全に破壊すると云う…「予告の下」であった…。…第二次世界大戦は終了し…「独伊」と共に「日本帝国主義」は壊滅したのである。八月十六日…。大本営は全陸海軍部隊に対して、即時戦闘行為の停止を命じた。樺太の終戦は二十四日、千島列島最北端の占守島は十九日だったが、日ソ両軍ともに、命令の伝達が不十分だった為停戦が遅れ、多数の死傷者を出すに至った。満州の関東軍が停戦の命令を下したのは八月十八日である。この時既に「軍」は完全に崩壊し、一部の高級将校はいち早く逃亡した後であった。そのために満州は混乱に陥り、末端部隊への命令伝達が不十分となり、散発的に「中・ソ軍」の一部と抗戦し…戦闘は八月いっぱい続けられた…。…降伏した軍隊は武装解除され、シベリア各地に送られ、その後…強制収容所で、世界戦史上にも類まれな…苛酷な労働と、悲惨な生活を強いられたのである。…引き揚げは…一九四六年(昭21)十月以降となった。一般居留民の場合は更に悲惨であった。樺太、千島、満州の占領下、ソ連軍による金品略奪、暴行に怯え、婦人は顔に煤を塗り…男装して身を守るのに苦労したが、収入も途絶え、飢餓、病気に苦しめられ、引き揚げに際しては、子供を置き去りにしたり、売りつけたりする親も…現実に存在した…。戦後四十年経ってなお、中国東北部の日本人孤児が、親を探し求める原因である。…支那派遣軍・南方軍等各軍に対しても、大本営は八月十六日…、「大陸令一三八二号」を発し…「即時戦闘行為を停止スベシ、但シ停戦交渉成立ニ至ル間、敵ノ来攻ニ当タリテハ止ムヲ得ザル自衛ノ為ノ戦闘行為ハ是レヲ妨ゲズ…」としていた。然し、十八日…「一切ノ武力行使ヲ停止スベシ」(大陸令一三八五号)と命令した。二十二日付…。「大陸令一三八八号」では、それを二十五日零時としたが、支那派遣軍の場合は「重慶軍」と「延安軍」との戦闘が行なわれていた為、「万止ムヲ得ザルニ於イテハ、局地的自衛ノ措置ヲ実施スルコトヲ得」としていた…。…地域により、若干の日時の前後はあったが、ほぼ八月下旬までに、戦闘は終了した…。終結が漸く徹底した後の本土各地でも、次第に平穏、沈静化しつつあるなかで…、全国民は一抹の戸惑いを禁じ得なかった。…死の恐怖や重苦しい圧迫感から開放されて、八月二十日からは、灯火管制も解け、明るい夜を久しぶりに楽しめることを喜びつつも、突然の「聖断」を青天の霹靂と受け止め、…簡単に割り切れないものが残ったのである…。「民衆の約七割は、陛下の重大放送は戦争遂行の最後の決意を御放送あるものと期待を持せる処、その結果は和平、戦争終結となりしを以て茫然自失、落胆悲憤慷慨する者等、各所に散見せられたり」と記録される程、市井の動揺は予想以上に大きかった…。一部には御聖断を批判し、或いは不敬流言を流布する者があり、かかる民心の底流には…『国民の総意を無視す』等、「御聖慮を歪曲批判し、甚だしきは至尊に対し、不敬言辞を弄し、或いは皇室に対する不穏な流言が拡がる等…、注意すべき動向に傾きつつあり、目下、厳重に指導取締中なり…」と…御聖断に反目する批判が広がっていた。一般人の大部分が、軍国主義思想に洗脳されているから…敗戦、即…降伏と云う急旋回の決定事項に…ついていけぬ心境であり…、従順になりきれないものが残った…。然し、天皇陛下の御命令には「絶対服従」とする永年の教育が浸透していることも事実で…お上の御威光には強いて逆らえず、全ての混乱は「権威」に制圧されたのである。…その反面、東久迩首相は八月二十八日の記者会見で「一億総懺悔」を説いている。敗戦の原因が、急速な戦力の崩壊、原子爆弾、ソ連参戦、戦時統制の厳しさと、国民道徳の低下にあり…『戦後の再建方法としては、軍、官、民の全体が徹底的に反省し、懺悔しなければならぬし、そうすることが、わが国再建の第一歩であり、わが「新興国々内」の団結力が、必須条件であると信ずる…』と彼は述べたのである。然し…。諸外国の記者は、天皇および内閣に厳しく、九月十八日の記者会見では、天皇の真珠湾攻撃に対する責任について、繰り返し質問したが、東久迩首相は……、『天皇に責任はない……。真珠湾攻撃は陸海軍統帥部が極秘に計画し、実行したのであって、おそらく天皇には奏上されていなかったであろう。したがって、事前に許可したことはないと思う……』と…答えて…、天皇の擁護に終始しているのである…。…占領軍の内面指導によって推進し始めた斬新な民主政策と「国体護持」を金科玉条にして降伏した日本の支配者層の意識とのズレが、次第に歴然としてくるのである…。この間、国内の経済的混乱は急速に進んでいた。…勿論、敗戦による生産機能の麻痺状態がその原因であるが、他方では…この時、軍保有物資が、米軍に接収されることを予想して、既に八月九日頃から繊維、鉄鋼、木材、油脂等の重要物資を民間工場へと移動が開始されたと云う説もある…。これらの物資が無計画、無秩序に流出し、軍倉庫からトラック等で食料や衣料品を勝手に持ち出す者まで続出し、軍人のみならず、一般国民も加わって、無軌道な状況が各地に現われてきた為、八月二十八日の閣議で「軍需物資の緊急処分の件は是れを停止すべし」と決定したが、この時は既に大量の物資が放出された後だった…。この八月十五日を起点として、日本国の内外は麻の乱れるが如く混沌と迷走した。…私たちは、中国大陸の各地に於いて「終戦」にまつわる幾多の悲劇を、順次知るにつけても、庄司軍曹以下七名が「無錫」の地で遭遇した脱出劇は、歴史のひとこまに隠れた一事例としては極めて幸運の体験だったと自覚していた。…「郭さん」と私たち日本兵が、偶然の巡り合わせから…恩讐を超えた人間愛と、非常な極限状態の中で結合し得たことは…人生希有な事件として真摯に受け止めたのである…。神秘に息づく呼吸を…今更のように喜悦しながら…「生命」の与奪権を、いとも簡単に弄ぶ「運命の女神」に…万福の流れがあるようにと、ひたすら祈るばかりだった。それが…こうして四十数年を経過して、老境の域に達すると感謝の懐いは尚更に増幅され…「生命」への確かな執着心が…現在の私を支えている…。…当時の、職業軍人や…一部の幹部候補生出身の将校にしてみれば、正当の予告もなく、突然、突き付けられた「日本無条件降伏」と…「軍隊組織の崩壊」の通告で、定めし多数者が、不本意な結果に泣いたことであろう…。昨日までの誇らしい経歴と、希望に満ちた将来への進路を、いきなり大鉄槌で破壊されたのも同然だから、明日の我が身を憂い、慌てて…延命の秘策を練り始めたとしても、他人の安全まで思い遣る心の余裕がある者は少数でしかなかった…。一般兵隊にしてみれば、「終戦」とは即、「復員」を意味するものだった。然し、それと同時に…中国大陸を数年に渉って、北から南に「トセ部隊」等が「砲車」や「キャタピラー」で、永い歴史を飾った多くの「市街」を惜し気もなく蹂躙し、貴重な史蹟を飽くなき暴走で侵攻した罪業は「誰」が何処まで追求、糾弾されるのであろうか、その危惧心が脳裏に交叉して…異常な恐怖心が沸き起こり、忽ち睡眠不足と焦燥感に苛まれて、中には中国軍の処罰を逃れようとする過剰な憶測から…営舎を脱走する者が現われるなど、神経衰弱に悩む者が…次から次へと、後を断たぬ有様であった。九月になっても、明確な命令や…適切な指示が与えられず、下級将校、下士官兵たちは柵内の孤立した営舎に閉じ込められた侭、不安な生活を強いられていた。…暫らくすると、軍上層部からの指令だと云う…愚策な作業が始まった…。「三八式歩兵銃」の交棹鉄部の遊底表面に刻まれている「菊花の御紋章」を削り落とすのが目的だが、昨日までは命より大切に扱ってきたのが嘘のようだった。それは…間もなく実施される「武装解除」に対応して発案されたのである……而も、そればかりか…出征以来寝た間も手放さなかった「父祖伝来」の名刀も、昭和の機械刀も見境のない、一把ひとからげに集めた軍刀の「刃潰し」作業などは、とても正視できない…姑息な手段で、全く気違い沙汰と云うべき愚行であった…。九月下旬になると…上海周辺地区に駐屯していた日本軍の各部隊が足元を追い立てられるようにして従来の兵舎を中国軍に明け渡し、江湾の西部営舎に集結したのである。市街に少し隔れた此処一郭は、広大な敷地に日本軍の既存営舎が数棟立ち並んでいたのだが、大世帯を収容する為の改築工事が一斉に始まり、俄に騒々しくなった…。部隊別に仕切られた各部屋では、寝台を三段重ねに改造した非常識なものだが、多数の下士官兵が無理遣り押し込められて…異状な生活環境を強いられたのである。…次第に暗雲が垂れ込む「戦争責任追求」の「裁決や如何に…」と、固唾を呑んで注目する中で、敗戦を観念した今となって…「戦勝国」の中国軍に、美辞麗句のお追従をあげつらい、媚びを売るような者など、流石に見受けられなかった。然し、不安を消しきれない将兵の憔悴の様相は日増しに色濃くなっていた。陰気な営舎に大勢が窮屈そうに重なり合って、僅かな配給食料に「餓鬼」と化して群がる浅ましい姿からは、かつての栄光は消え、栄誉の片鱗すらも窺えない惨めさだった。個々の将兵は…互いに相手を嫌悪して、憎み合う感情で自滅の道を辿っていたが、おびただしい兵士の中には、その混濁した状態に疲れ切って…病弱者が続出した…。貧弱な給与による栄養不足と、衛生設備の不備、不徹底の為に発生した伝染病の蔓延を阻止せんとした部隊合同会議でも打開策はなく…付属軍医は責任の所在に懊悩していた。…「上海」郊外の「旧陸軍病院」では…これらの患者を大量に収容したのだが………。終戦早々に、進駐してきた中国軍に医薬品の大部分を接収されており、残余の薬剤が極端に減量して施療にも不自由を来している状態であった。軍医が、如何に手を尽くそうにも、病気治療は至難の業で、次第に衰弱する患者を目前にして為す術もなく、只…隔離して見守るだけの…処置が最上の方法だったとは…その関係者たちの切歯扼腕の姿が目に浮かんでくる。重病者の気力は萎縮したが、その痩身を僅かに支えていたものは、彼らが唯一の希望としている「復員」なのだが、夢うつつの想いで…か細い、うわごとにまで唱えても…うらめしそうな声は次第にかすれ、やがては虫の息となり…、一人、二人と折り重なるように絶命していく有様は憐愍の極致であった。大勢の入院患者の中には、この内部事情を知って驚愕し、看護婦の制止の声を振り払い…脱走同然に病院から抜け出る者がいたが、無謀な行動であろうとも、それが命拾いになった「奇跡」のような幸運者が何人も数えられたのは、この世の「定義」の裏に…隠れた力を発揮する不可解な「自然治癒」を発見した無常感は…忘れ得ぬ感懐となった。その…乱暴な脱走者の中に…この私もいたのである。…糞便で汚れた軍衣袴を泣きながら運河で洗い、震えていたのだが、中秋の陽射しを浴びては凍え死ぬこともなく、五kmの道程を必死に歩いて…部隊に辿り着いた時は、涙も枯れ果ててしまったが、生きたいと思う執念で…ふらつく身体を支え直し、僅かに残っていた根性で、どうにか死神を追っ払った…死にぞこないだったのである…。

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