特別収容所

08.特別収容所

 日本軍は「武装解除」後も従来の兵舎が、その侭収容所として使用された。…変わったのは収容人員が以前の三倍にも膨れ騰ったことである…。窮屈な呻吟生活が…何よりも明確に…敗戦の惨めさを象徴していた………………。…当時、中国国民党主席の「蒋介石」は「日本の処遇」に関する「声明文」を発表した。
   一、  「徳を以て、怨みに報いる」べし。
   二、  日本軍を俘虜と呼称せず、徒手官兵の名称を用うるべし。
   三、  集中営舎の日本軍「衛兵」に限り、執銃・帯剣を許可すべし。
   四、  中国軍は日本本土に進駐するべからず。
   五、  中国政府は日本国に、賠償を要求するべからず。
…以上の五項目を国連に提出し、一方、日本本土を統治する「マッカーサー司令官」には「日本皇室の存続を認めるよう」等の…進言を惜しまなかった…。
 簡略な文章の奥に含まれる「人道主義」を貫いたこの報道は、一国の宰相の名声を弥が上にも高めて、日本軍の収容所では評判の話題になっていた。蒋介石主席の慧眼に感嘆の声を挙げ…過去を反省する者が多かったのである。「戦争」が十五年の歳月に渉り、中国全土を荒廃に追い込んだ日本軍に対し、蒋介石主席が「戦後」の処遇を巡り…仏陀の如き寛大な方針を示したのを知った私たちは、日本軍の戦争犯罪人に対し、報復裁判があるとばかり思いこんでいただけに、この「声明文」には頭を垂れて敬服し、未来永劫…忘れてはならぬことだ…と話し合っていた…日本の敗戦で、陸海軍統帥部は全ての命令・指揮権を喪失し、軍国主義も崩壊した。これからは民主主義を全面的に掲げて生活するのだと云われたが、私達は復員するまでの期間中を漫然と待機して…団体行動の規律を乱すような失態だけは避けたいものだと、…「復員推進自治会」を結成し、自粛自戒していた…。中支の全地域に名を馳せた…豪放磊落の「トセ部隊」の気風も一変したのである…。…その頃、中国本土では…国民政府軍と対立する共産党軍との勢力闘争が活発に展開されて不穏な情報が市井に流れ、様々な流言蜚語が飛び交っていた…。「日本人の戦犯者を摘発検挙しない代わりに、日本軍の機械化部隊を徴用し、国民政府軍と共産軍との一戦に協力させるかも知れない…」私たちはその噂の真意を測り兼ねて、毎日が不安であった。…或る日…。謹慎中の日本軍集中営舎の「正門衛兵所」前に国府軍正規兵十名が現われて、営舎内に侵入しようと強引に迫ってきたことがあった…。だが…この時の「衛兵司令」は豪気な男で、頑強に彼らの入場を拒絶し続けた…。声高の押し問答を繰り返す最中に、非常電話が営内本部を経由して「上海」へ飛んだ。中国軍の「第七砲兵団」司令の「林日藩少将」は、上官の「湯恩伯将軍」から『野重十五聯隊長の「佐々木孟久大佐」とは…その昔の日本陸軍士官学校以来の旧友なので、『宜しく頼む…』と紹介されており、既に…両者は…意気を通じ合う間柄であった…。「兵器引渡し式」の協定書にも『誰人と雖も日本軍集中営内には不法侵入するべからず…違反者は中国軍当局が厳罰に処すべし…』と…保障条項が記されていた。兵団司令部では報告を受けるや、直ちに将校等十数名が乗用車を列ねて救援に赴いた。…理不尽な侵入を試みた国府軍兵士も予想外の事態出現で、退散せざるを得なかった…。…だが、この騒動の根底には、それなりの原因があることを私たちは聞いたのである。過ぐる八月の「終戦宣言」の際に、わが聯隊では迅速に車両(トラック)を使って兵站倉庫から、食料を始め、生活の必要物資を大量に運び出し、部隊営舎の天井裏から、床下に至るまで、ありとあらゆる場所に隠匿した事実が隠されていた…。これは…聯隊本部の作戦指揮班が「終戦」の宣告を受ける寸前…軍司令部に搬出許可申請を出し…兵站部倉庫の物資移動を画策したものであるが、過去の戦歴から判断して食料難で戦闘能力が発揮出来ずに苦戦した経験を参考例にして…万一の場合「篭城戦術」を採る場合、絶対欠くべからざる耐久維持戦力を主張したのが認められたのである。その量は、凡そ一年間は持ち応えられるだろうと云われていたとか…。…上海進駐の国府軍兵士は、この情報をキャッチして真偽を確かめにきたものであろう。「敗残の日本軍」を軽侮して…、物資の不法押収を図った突発的な軽挙に違いないが、意外にも、収容所の衛兵が執銃、帯剣の姿勢で…入門を断乎と拒否し…手こずるばかりか…第七砲兵団の将校連までが駆け付けて来たのでは、強行突破も憚られ、無理な交渉を躊躇したのは、流石に上海軍管区を無視して…正面切っての騒擾事件を惹き引き起こせば…自分たちの立場が不利になることは免れない。国軍砲兵団の将校が出現したのは予想外だったらしく、地団駄踏んだが為す術もなく……「舌打ち…」もそこそこに…踵を翻して…姿を晦ましたのである…。彼らは一旦は引き下がったものの、事情を理解できない別派の下級兵士たちが、私欲に目が眩んで…その後も、何度か押し込みを図る悶着が発生したが、その都度「第七砲兵団に電話するッ…」と決まり文句を出すと彼らは尻尾を巻いて早々に引き上げて行った。遂に記録に残るような衝突事件の発生もなく、その一件は尻窄みとなった…。…わが第十五聯隊と第七砲兵団との良好な親交関係は「正門衛兵所」が誇りとする申し送り事項で、その後も最大に重要視する痛快な項目だったのである。…………………。…「敗戦」の烙印を押されたとは云え「八月十五日」前後に直接的な痛手を負わされなかったトセ部隊では…比較的に立直りが早く、明朗な秩序を創ろうとしていた…。当時、旧日本軍の糧抹倉庫は中国軍に接収されて、その倉庫内部の整理や、米の積出作業等は各部隊から、当番制の使役を提供するように決められていた…。以上は、元支那派遣軍総司令部系統の「戦後処理対策協定案」に遵守するものだが、実際に労働作業をするのは…下士官以下の兵隊ばかりであった…。倉庫の使役は、各隊の兵隊が順番で行なうのだが、日によっては重労働の時もあり…、作業状況は必ずしも楽なものばかりではなく、終戦後になっても相変わらず歩の悪い役割は下級兵士の担当が続いたが、日本人独特の不平等思想が…未だ罷り通っていた頃だから…特に不平不満の騒動等は起こらなかったものの…中国軍の支配下では…真面目に働かぬ者がおり、使役作業の際どい要領を飲み込んだ悪賢い兵隊たちは…次第に図々しくなり、…監視兵の目を掠めて…素早く砂糖等を盗み…小量ながらも場外持ち出しに成功した最初の「奴」は大威張りだったが…忽ち、これを真似る者が次々と現われた。久しぶりに溜飲の下がる悪戯だから、彼らは得意満面で、これ見よがしに見せびらかして喜んでいたが……、段々とその方法が巧妙化し、大胆になって…その量が増大した。純朴な中国兵は窃盗の手口などに疎く、日本兵使役を信用しているので…狡賢い動作も見逃してしまうような緩慢な監視だから、便々と悠長に巡回しているだけで、そんな悪事が発生していることを気付く様子もなかった。監視兵の無能ぶりを嘲笑するかのように、益々増長した彼らは…盗品の自慢話をすることで…遣り切れない不平不満の欝憤を消化し…盗み技を刺激剤にする自虐的な自己顕示欲を満たすことに依って…しがない存在感を訴えていたのである。……………。…十月になっても「復員」は許可されなかった…。自由行動を束縛された生活は、ともすれば緊張を欠いた安易な悦楽に走り易く、軽薄な思想は弊害を引き起こすばかりなので……何とか「希望の火」を掲げて復員までの活力を維持しようと考える進歩的な発案が自然発生してきたのは当然のことであった…。…収容所の大勢の中には演劇関係者も何人か居たので…、この時期に適切な人情劇等を上演すれば健全な娯楽になるだろうと…衆議一決し、本格的な実施運営が開始された…。…配役人事の選定やら、演技指導、大道具、小道具の制作材料の調達に奔走したり…で…関係者は場所柄に似合わない多忙な毎日となった。苦心の結果、絶妙な工夫を懲らした舞台装置を完成させ、到頭…上演の日も決定し…、大々的な宣伝ビラを、場内の各所に貼りだす処まで進展したのである。現在、それを想起すれば、さぞかし陳腐な芝居だったのだろうが、それでも万雷の拍手と大喝采を浴びた。…予想以上の好評を受けた関係者の得意や思うべしである…。…この成功は一郭内で、各部隊の興奮と感動を促し、意外な反響を齎らすことになる…。競うように…「喜劇」や…「時代劇」の素人劇団が旗揚げし、場内は活況で沸いた…。…徴兵以前の職業が仕立屋とか看板屋、造花屋、大工等は引っ張り凧の大騒ぎである。旅芸人は格別のスターと…もて囃されて有頂天になっていた…。…歌舞伎役者や、新派舞台俳優とか邦楽、洋楽等の演奏者、舞踊家等の本格派の芸術家は破格の師匠待遇で崇められたが、彼らの自尊心と…プロ意識から、対等に共演可能な相手以外…素人との共演は承知せず、それ以外の「独演会」ならば喜んで舞台に立つと云う本職のプライドを崩そうとはしなかった…。終戦によって…新しい平和と、自由な息吹の片鱗が、もう…既に、この辺りの時期に於いて…その力量を貯えつつあったのが窺われるのである…。急場仕込みの俄芸人たちはどれほど真面目に演技指導を受けたとしても、所詮は素人芸の枠域だったが、華麗な風情と、情愛に渇いていた将兵は歓喜してこれを迎えた…。その他に…「大相撲大会」の旗揚げも、硬派連中が喝采を贈る快挙であった…。櫓太鼓を打ち鳴らし、大きな「力士のぼり」をはためかせて、奇抜な「しこ名」を書き出した番付け表や、取り組み力士を美声で唄う「呼び出し」さんと共に…目の醒めるような派手な衣装で身を飾り立てた行司が、軽妙な軍配裁きで勝負を告げる滑稽な仕草など…大圧巻の光景は永い間、娯楽から遠去かっていた人々に新しく生きる勇気を与えて…傷心した兵隊たちを堕落から救い上げる光明となった…。…トセ部隊には、終戦後の人員統廃合による他部隊からの転属兵が多かったけれど…「食料統制担当者」が、糧抹を数量計算し、最終復員に至る日まで規則通りに食事制限をし、食配分量を厳守した為、飢餓による騒動等が勃発しなかった手腕は実に見事であった…。

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