第七砲兵団

09.第七砲兵団
 独立野戦重砲兵第十五聯隊は「十サンチ加農砲」と五㌧牽引車(キャタピラー)を主軸にした機械化の二箇大隊編成の戦闘部隊で、貨物自動車に一切の軍用資材及び、人員の輸送を委ね、最前線を自在に走行して、歩兵部隊の進撃を援護するのが目的である。…機敏性を重視した…当時の日本軍では未だ数少ない機動部隊で、乗用車、サイドカー等も各中隊に備えられており、…一九三七年(昭12)の上海戦線を初陣とし、かの南京攻城戦から徐州、武漢攻略戦、荊襄進撃、宜昌、江北、江南作戦、常徳殲滅作戦と続いて昭和十九年五月末からは、世紀の陽動作戦を展開した「長沙及び衡陽」の湖南攻略戦を主戦場に…「桂林、柳州」も占領した「湘桂作戦」を経て、昭和二十年五月から、上海西部地区に於いて、米軍機動部隊と対砲撃戦準備途上の八月半ば、終戦を迎えたのである。…昭和十二年七月、北支那の「蘆溝橋」事件後…の九月…。近衛師団管轄の野戦重砲兵第八聯隊(東京世田谷三宿)を原隊として…急遽戦時編成されて中支那方面に出征した…この新編「独立・野重十五」の通称は(トセ部隊)と呼ばれて終戦まで約八年、遂に既存の駐屯営舎に落ち着く余裕を得ることなく、実績の全部が血生臭い野戦を縦横に進撃し、機械の爆音を前線に轟かせた豪快な容姿は…徒歩部隊から「中支の殿様部隊」と羨ましがられていた誇り高い戦歴であった。…昭和二十年九月末、トセ部隊は武装解除され、全ての兵器は中国軍に接収された。…その当時、中国国民政府軍の総兵力は約三百箇師、約三百万と云われる中で、骨幹となるのは約二十箇師の優秀な「米軍式装備」軍団と見做されていたが、これに対抗する共産党軍「毛沢東」の率いる中共軍の基幹部隊は約五十万と称され、而も…その戦力は増大の傾向にあり…「蒋介石主席」には…今や過去の日本軍よりも脅威を抱く存在であった。国共両軍は既に中国北西部方面で衝突しており、その戦端を拡大しつつ「中国の運命」を左右に決すべき非常事態になっていた。…「中国上海方面軍管区」を統括する「湯恩伯大将」は…司令部の一室に於いて隷下の「新編第七砲兵団」司令の「林日藩少将」と、旧日本軍の岡村支那派遣軍総司令官及び…交誼を誓い合った旧友「佐々木孟久トセ部隊長」を加えての…、引き渡し完了済みの兵器活用に関する「技術指導」要領の細目協議は…連日続けられていた…。…十月末、江湾西営舎(特別収容所)のトセ部隊では、第七砲兵団に派遣する人員を発表したが、約六ヵ月間となる技術指導に指名された各隊の将兵は複雑な感懐であった…。第三中隊では…黒岩源治中尉が派遣隊長で、竹内少尉、北見軍曹の他兵二十一で、総勢二十四名が新規に編成されて…出発準備に忙しかった…。この時点で、私も…選出された派遣隊員の一人として一行の末尾に名を連ねてた。………………。…第七砲兵団の演習基地は、現在地より…西方約百二十kmの「蘇州地区」である…。「至急、入隊すべし…」とは至上命令に等しい厳しさだった。…永い年月…苦楽を共にしてきた戦友たちとも愈々…此処に訣別の時機が迫った…。待ちこがれた「復員」も恐らく別々になるだろうし…、部隊の解散式にも立会えなくなであろうことは必至である。数奇な運命の戦友同士は交々に再会を約すべく、その日は夜更けまで…時間を無視して…語り合っていた。「おいッ、保科ァー手紙書いてくれー…」浜野宗一上等兵が便箋を片手に高飛車な口調で私に迫ってきた。…彼は一年以上も先輩だったが、同じ東京出身者としての付き合いで…かれこれ三年越しになる。あの「太山廟」の警備隊では衛兵勤務も一緒だったし、営舎の失火事件や沮水河の氾濫処理とか、忘れられない経験や、終戦後の現在も、また共に中国第七砲兵団へ派遣される共同運命体の一員だから、古兵と云っても私の方はへり下ってなんかいない。「ラブレターならもう、ネタ切れですッ…」「いやッ、違うんだッ、お別れの手紙なんだからー頼むョ、なァー恩にきるからさァ」私は何かと「曰くつき」の浜野上等兵をよく知っているので、妙な事件に関与しそうな気配を感じた時は警戒し、口を利くのをためらった。千に三つと云われる彼の正面な話を選り分けて聞く気になれないのである。浜野の嘘と悪戯に…泣かされた多くの実例を見ているだけに油断はしない。…丁度その場へ…彼と気の合う半田恵一郎上等兵が近寄ってきたので、事情を説明すると 「自分が立合者になるから、話を聞いてみよう」…と云うことになった…。三人は戸外の洗濯場へ出たが…声を潜めて語る浜野の話芸に忽ち乗せられて了った。…原因は矢張り女で、野戦病院付の従軍看護婦だった。集中営内の「看護婦復員集団」に所属する一人で…「斉藤靖子」と云う名古屋出身の二十五才になる人だと云う。浜野が「美術商」の長男だと大嘘をついて、「東京へ帰ったら一ヵ月ぐらいは湯治に行って休養する…」など…出鱈目で固めた…騙しの手口を…見破る程、彼女は世馴れていないから、間もなく二十六才になると云う歳を考慮すると…無理もないのである。巧妙な口説き文句で…しっとりと濡れ場を構成していく…浜野の手練手管に操られたのでは可哀相だが…、子供同様にあしらわれてしまい、彼の戯言を真に受けて…軽く口車に乗せられた挙げ句の末…肌身を許したのは間違いないだろう…。…言葉巧みな物語りは、私達の好奇心をそそり、思わず引きずり込まれそうになったが、彼の嘘は定評付きだから、話の途中でも、次々と疑惑が浮かび上がってくる。「こんなに大勢兵隊が溢れているのに…何処で、どうやって…いたしたんだァ…」「復員したら結婚しよう」と根も葉もない出任せで彼女を信用させて…連込んだ所は…炊事場裏の石炭小屋だと言うのである…。寒い季節には未だ間があるので、石炭を盗みにくる者もいないし、戸締まりもずさんで、出入りには苦労する必要がない。よくも…そんな場所を見付けたものだと呆れたが、一切合財の狙うところは彼女との性交渉だけの嘘八百だったから、その出鱈目ぶりには…開いた口が塞がらなかった。騙されて慰み者にされた彼女が、この嘘に全く疑念を持っていないらしいのである。それでも…半田上等兵とは、顔を見合わせて…今回も浜野が白々しい作り話をしているんじゃぁないかと…どうしても疑ってしまう。「へんッ…また、いい加減なことを言ってッ…、ふざんけんなょッ…」 「おい、おいッ…ほんとなんだョ…小屋の中が汚いからッ…立って…おっぺすんだッ…そうすりゃぁッ、服が汚れねぇんだよッ…」私たちの反応が、自分の思う壷にはまらないと…どうだ、これでもかと云わんばかりの言葉は、聞くに耐えられないものだったが、得意げに…その夜の性戯場面を「春本」まがいの名文句を並べて、二人を煙に捲く図々しさは浜野の独壇場だった…。浜野宗一上等兵は東京蒲田の出身で畳職人だが、尋常小学校も満足に卒業しておらず、本を読んだり文字を書くことを苦手とするような男であった。まだ…彼が少年の頃、徒弟制度の苦しい修業中では、兄弟子がやたらに肉体的な折檻をするのが普通だったから、宗一少年は…要領よく立ち回る姑息な生き方ばかりが身に着いいて、苦労を堪え忍ぶことが出来ず、抑制心のない意気地なしになって了った…。「いくら真面目に働いたってぇッ、大したことァねェやー…」大人の目を盗んで仕事を怠け、少年らしからぬ女遊びにのめり込み、歓楽街をふらついていたが、先天的に下戸の彼は、その行状に…酒が絡んだ事件だけは発生していない。唯一の趣味は浪花節だったが、薄幸な宗一少年は、この芸事に何故か夢中になった。虚構に象られた義理と人情の物語に溺れ…憧れて、寄席や定席回りに奔走した。浪花節は昭和の初期より全国的に流行し…「浪曲」と称せられた大衆芸能である。「ひょっとしてー俺はァ芸人が性に合ってるのかも知れねえー…」…場末の娼婦に見栄を切りながら…物覚えの良い彼は…器用に浪曲を唸ってみせた。…然し、夢の桃源郷に浸ってばかりいては当然、遊びの金銭は手元不如意となる。各所に始末しきれない不義理の借金が嵩んで…決着を迫られた彼は巧みに言い逃れたが…嘘の辻褄が合わなくなって…逃げ場所を考え付いたのが軍隊に入ることだった。満十九才で陸軍を現役志願し、合格した時の彼に…深い思案などあるべき筈がない。「借金取りもーまさか軍隊まではー追っ掛けてこねェだろう…」…日本が真珠湾奇襲攻撃を敢行し…鬼畜米英何するものぞと…国民は興奮に酔い痴れて…「万歳、万歳」の声が…街や村に…響き流れていた頃のことである。…昭和十七年二月一日…。東京世田谷の「野戦重砲兵第八聯隊」に入営した浜野宗一は、新兵生活一週間で…、其処が安住の場所ではないことを悟ったのである。…規律の厳しい営舎内で、伝統的な初年兵教育が始まった途端に彼は悲鳴を上げた。…袋小路に逃げ込んだことに気がついた彼は…再び抜け道を探すことばかりで明け暮れ、真面目に軍務を果たす考えなど爪の先程も持ち合わせていなかった…。…一九四二年(昭17)五月七日…。太平洋戦争の第一期フィリッピン作戦で、第二十五軍(司令官山下奉文中将)と共に進軍した第十四軍(司令官本間雅晴中将)のバタァン要塞の攻略戦は「コレヒドール」占領を以て…我が軍に凱歌が上がった…。この攻撃部隊の中に「野重八」から出征した将兵が含まれていたが、折しも…大本営の次期戦略構想に修正が行なわれ、一部の将兵に各原隊への帰還命令が発令された。同時期の、五月一日…。「野重八」の営舎では、三百名の新兵が誕生していた…。…その頃…。中国の湖北省襄西部の「宜昌」攻略戦で、中国軍第六戦区軍と…「長江」を境界にして相対峙していた独立野戦重砲兵第十五聯隊は…原隊「野重八」と同様に第11軍直轄の砲兵部隊として、支那事変当初に出征して以来、専ら中支方面で奮戦していた…。八月初旬…。「野重八」では…第一期の教練検閲を終了した初年兵と、この七月にフィリッピンの「バタァン」から帰還したばかりの戦場経験者等を加えた総勢約三百五十名が…この「野重十五」内で、宜昌戦以来の…満期兵の交替要員として…勇躍日本を出発した。彼らが到着した場所は…営舎も粗末なバラック建てで、而も…状況は激戦中だった。…東京の原隊に戻ってきた帰還兵から…現地の事情を聞くまで「砲兵なんだから最前線じゃァねえェんだろうー…」と惰弱な予想をしていた浜野宗一は…震え上がった。「中支なら、いくら最前線でも…危なくねぇんだと思ってたけど…そんな戦死するかもしれねぇような場所へ行くのは厭だなァ…、南方の島なら、バタァン帰還兵が天国だったって言ってたから、やっぱり南方がいいのかなァ…」彼は自分本位の思考で身の保全を予測していたけれど、その太平洋戦線は開戦以来十ヵ月の時期で…我が大本営作戦部の「意気込み」に反して、その情勢は悪化していた。…同年十月末に…。南方第十七軍の「第二師団」のガダルカナル島の攻撃が開始された。しかしながら…航空兵力、砲兵その他の火力に関する日米両軍の懸隔は大きかった。…第一、二、三次と攻撃は失敗し、補給輸送も全滅し、日本軍は多数の餓死者を出した。
◎ 作戦失敗の第一の原因は大本営の南方進攻の打切り線が不明確だったこと。
 
◎ 第二の原因は全ての補給が途絶したこと。
 …米軍の各師団は日々数百㌧ずつの補給が続いていたと云うから、「ガ島」の日本軍が戦闘を続けること自体が無理だったのである。昭和十八年一月頃…、東部ニューギニア方面の戦況は極悪で、全く絶望的となった。第十八軍司令部(安達二十三中将)と第五十一師団の主力が三月三日、ダンピール海峡で、米軍機百三十機の攻撃を受け、輸送船は全部沈没して了った…。大本営は、これらの状況をひた匿しにしたが、国民は動物的な嗅覚で…薄々想像をしていたが、防諜に厳しい憲兵隊の目を恐れて、誰もが口を噤んで知らぬ顔を装っていた。…三月二十日…。「野重十五」の補充交替要員として、十七年度最終回の召集新兵六十名が…「野重八」の雨天体操場に押し込められて、慣れない藁布団の寝台を並べていた。…そして、原隊残留兵に四月一日付で新たな「野重十五」行きの転属者が発表された…。…予てより、同聯隊の予備兵員として演習を重ねていた十六年度召集兵の内約三十名と…(昭17年の一月に入営した現役兵等若干名が緊張感を新たにしていたのである…。…総勢百十数人の出征兵士の中に、この人が…新兵の一人として、初めての軍服に身を包み、未だぎごちない挙動で、神妙な顔をして並んでいた…。…この時点で、浜野一等兵も「中国出征兵士」の一員として名を列ねていたのだが、今回の「野重十五」補充要員に指名された者の中には…「野重八留守隊」で…「箸にも棒にも使えない厄介者払いをする為に、体よく戦地に追い出された兵隊が数人いる…」と云う、実しやかな噂が広まり…私たち新兵にまで伝わってきた…。…然し、未だ…この時の私には…「浜野宗一」と顔を合わせる場は訪れてこない…。四月二日の未明…。藤井軍医(見習士官)を隊長とする…この一行は…「東部第七十二部隊」(野重八)の営門を貨物自動車に便乗して…品川駅に向かった…。極秘の出発で見送り人もなく、列車の窓を塞いだ侭…横浜・静岡・を通過、大阪から山陽本線を経て、その夜の九時には「下関」に到着し、私達は港の埠頭に整列をしていた。待たされる間もなく…関釜連絡船に乗り込んだ隊列は…三等船室に納まった。…その時、エンジン音を伴奏にして流麗な『浪曲』が聞こえてきたが、それは歯切れの いい…関東節で…「明月松阪城」と云う外題の…このまくら節は通人好みだった…。『~月々に~月見る月は多けれど~~月見る月はこの月の月~~…、……』戦国時代の武将「蒲生氏郷」と忠臣「西村権四郎」との痛快な台詞に…思わず耳をそばだてた私は(古兵の中に浪曲師がいるんだな…)と…この時に初めて気がついた。…それが問題兵の「浜野宗一」を意識した…最初の出会いであった…。中国の湖北省・沙荊地域は…その頃、電気もひかれていない純農村地帯であった…。…揚子江の上流で「宜昌」に近い…この一帯も人々は大らかに「江北」と総称している。…藤井見習士官に引率された百十数名が、日本を出発して二週間後に漸く到着した所が…「金沙舗」と云う地名で、其処に「独立野戦重砲兵第十五聯隊」が暫定駐留をしていた。北部五kmに当陽があり、その西部約七十kmが宜昌で、東部三十kmには荊門、この南の約八十kmが「沙市」であり、何れも「三国志」の物語に登場する有名な市街である…。「当陽」近郊地区は「沙市・荊州」と並び称される豊かな穀倉地帯だけに、中国軍の正規軍四十箇師が三年越しの奪回作戦を仕掛けており、共産軍がその間隙を縫って蠢動し、交易所の周辺では…彼我の衝突が絶え間なく、目まぐるしい遭遇戦が勃発していた…。…浜野宗一は「第三中隊」に配属され、私は「第二大隊段列」で、自動車隊だった…。其処は「太山廟」と云う「前哨陣地」で、粗末なバラック建ての営舎が並んでいた…。…私の隊は「沮水河」の河っ縁だったが、彼の方は高台に構えた営舎で「砲手班」の新入り同然の扱いだったから、れっきとした二年兵にも拘らず、猛烈にしごかれたらしい。通常、現役志願兵で入ってきた者は大抵下士官候補生として下級指揮官を目指すものだったが、浜野宗一には…そのような人生の計画はなかった…。『如何したら、この環境から脱出できるか…』…それだけを思い詰めていたのである。…明日にも命を失うかも知れない物騒な最前線で…連日の討伐戦や歩哨勤務の恐怖に震えながらも「太山廟陣地を確守せよ…」との命令一下「浜野」達は「常徳殲滅作戦」の苛酷な戦闘を生き延びて新年を迎え、早春を過ごし…早くも此処の勤務が小一年になった。一九四四年(昭19)四月末、浜野宗一が無謀な傷害事件を企てた騒動が発生した…。…小銃で…自分自身の左腕を狙い撃ったのだが…「湘桂作戦」に出動直前の時期だけに、従軍を忌避しようとした彼の魂胆は見え透いていた。部隊の上層部でも、最初から死ぬ積もりがなかったと判断し…、他への影響を恐れて…単なる銃の暴発事件として、極秘のうちに…この一件を処理したのである…。太山廟地区では出動準備の多忙にも拘らず、誰一人としてこれを知らぬ者がなかった。地区警備の衛兵勤務で何度も顔を合わせていた者は、日頃から軽薄な「浜野」を見馴れていただけに、その行為を蔑みこそすれ、同情の余地なし…との声が圧倒的だった。「湘桂作戦」は残酷そのものだったが、一年後…「トセ部隊」は、満身創痍の各隊が、…上海地区へ転進して…新たなる「迎撃作戦」の準備中に…終戦を迎えた…。中国軍が機械化砲兵部隊の新設を発表し、協力を要請してきた時…トセ部隊の幹部が、「終戦後」の戦闘教練を憂慮して…派遣人員の選定に困窮した事実は想像に難くない。…復員を控えての中国軍出張が、国府軍と中共軍の険悪な武力衝突寸前の時機だけに、誰しもが派遣されるのをためらい、敬遠するのは当然のことだった。一年前、浜野宗一は暴発事件で現地野戦病院に入ったが…後に「漢口」に回され、傷が癒えてからは同地の「トセ部隊・残留備品保管所」に所属して…同所にて数か月待機し、昭和二十年五月初旬「広西省」の最前線から反転してきた「本隊」が「漢口」に到着した時点で帰参し、終戦に至るまで表面的には至極…神妙に勤務していたかのようだったが、集中営内で騙した女から逃亡を企てた…彼の「狙い」は、矢張り計算づくめだった。…浜野宗一に「第七砲兵団」行きを申し込まれた幹部は…「枯れ木も山の賑わい…」だと承諾したが、従来通りの素行を改めない彼との同行を嫌う者は多かったのである。十一月一日…朝。 トセ部隊の営庭では…五箇隊編成の派遣隊が出発する処だった。…編成単位は一箇隊二十余名で、隊列を整え…衛兵所前の正門を目指して行進したが、私たちは「浜野宗一」をとり囲むようにして故意に歩調を乱して歩いていた…。「身体に気をつけてなァ…頑張ってくれぇッ…早く帰ってこいょッー……」…両側に並んだ兵隊が手を差し伸べて激励してくれる気持ちが分かるだけに、お世辞にでも…その見送りに対して応答しなければいけないのだろうが、誰もが厭がる中国軍に派遣される私たちが嬉しそうな顔を見せる必要もないし、何と云っても…今は…この人垣に囲まれている状態から、少しでも早く逃れたい気持ちの方が先だった…。浜野宗一は、私たちとは…異なった心境だけに、今回の逃亡計画が成功することばかりを念じて、下俯いたままで…足早に歩いているようだったが…、従軍看護婦の居住棟が、人垣の後方に見えるから…、気が揉めているに違いない…。斉藤靖子には無断で…トセ部隊を出ることにした卑劣な計略が、若しも発覚したならば大騒動にも為り兼ねないので、一分一秒でも早く、この場を遠ざかりたい筈である。私たちは、悪辣な彼に加担し、逃亡の手助けをする積もりはなかったのだが、万一女性部隊に騒がれたのでは、何の事情も知らない、純真な年若な黒岩隊長の顔を潰すことになって了うから、悪い奴だと承知していたが、兎に角どさくさ紛れに…、この際…早く彼を場外に出した方が無難だろうと、出発事前に仕組んだものだったが、結果的には、またしても…悪どい浜野宗一の謀略の手先に利用されたような形なのである…。…私たちは、幾多の思い出を生んだ…栄光のトセ部隊と訣別し、「複雑」な個人的の確執を抑えつつ…結局は…彼の「逐電」を成功させてしまった…。…「蘇州」郊外の第七砲兵団の演習基地には、旧日本軍が設営した半永久的の…見るからに豪壮な…木構造の二階建て兵舎があった。起伏の激しい丘を巡らした練兵場は一万坪はあろうかと思われるが、若い中国兵の集団が…執銃教練やら、部隊行進などを演習しているのが望見された。熱心に基本教練を反復している彼らには、中共軍との触発寸前の険悪な様子もなく…、至極平和な雰囲気が漂っており、一見、長閑とも…とれる光景であった…。…「湯恩伯将軍」が、第七砲兵団を設立し、機械化砲兵部隊を新規に発足させた目的は、最近、急激に増強した共産党軍の勢力に拮抗できるように強力な攻撃部隊を配備して、迅速果敢に敵陣を破壊し…徹底的な戦果を目指す為であり…、大々的な防共運動を号令する「蒋介石主席」の要望に即応したものであった…。訓練計画は組織的にして、且つ用意周到に編成され…第一段階の教練開始となった。…私たち「黒岩隊」は「新制第二大隊」の第三中隊に配属された…。此処の「何応舜大隊長」は四十才くらいの人だったが、日本兵に対する悪感情を捨て切れない…強烈な遺恨を抱いていると見え、黒岩中尉が着任の挨拶をしても、碌に答礼もしなかったり、何かと敵愾心が旺盛で、尊大な振る舞いが目立つ人だった。…こちらの…黒岩中尉の方は、未だ二十一才になったばかりの新鋭将校である。陸軍幼年学校から士官学校を卒業したが…、中国大陸で戦ってきた先輩の教官将校に少年時代から鍛えられてきた生え抜きの軍人だから…、これも中国兵に対する異常なまでの偏見差別感は、並大抵のものではなかった…。当然、この二人の睨み合いは火花が散るようで、先行きが案じられたのである…。…兵団司令部付の通訳「周賢亮中尉」は推定三十歳くらいの人で「上海大学」出身と聞いたが、もの静かな態度は彼の教養の深さを如実に物語っていた…。流暢な日本語を操るだけでなく、日本の国内事情にも詳しく、今回の機械教練協力隊の側面援助を公平に扱ってくれるのみか…「何応舜大隊長」を敬遠する日本兵の心情を推察し、…事有る毎に、穏やかな調整役を買って出て…、事態を拡大させぬように双方の立場も考慮して平和的な解決策の努力を惜しまなかった。…第七砲兵団の第二大隊から選抜された百名の優秀な若い兵士と、五名の将校で編成された五箇隊の内、機械整備隊の二十名だけが別途に、新設の整備工場で…機械技能講習をを受けるのだが、他の八十名は、各中隊毎に観測班、砲手班、自動車班、通信班と細分され、各隊別に区分けして…競争意識を煽る、技術訓練は真剣そのものであった。…実技や学科の指導も、最初は双方の言語や習慣の相違が障壁になったが、日を累ねる毎に日中混合の訓練状況に慣れて、円滑な理解度を示すようになり、懸念された意志の疎通も無難に交わし、彼ら全員が…初めての機械操作に特別な興味を持っていたのと予想以上の熱意と向学心が、好成績を生む結果となった…。…第一期の教練課程が終了する頃は、毎日…演習後の機械点検や、土に汚れた車輪周辺の水洗い等、彼らは積極的に働くようになり、指導をする日本兵を喜ばせていた…。「機械操作が面白くなってきた証拠だなぁー…」…「上海」の兵団司令部にいた頃、電熱器の使い過ぎでヒューズが飛んで停電した時、丁度居合わせた日本の下級兵士の一人が荷札の細い金属線を利用して配電盤に取り付け、簡単に修理し、点灯させた時、彼らは日本兵の電気知識に驚いたり感心したり…だったが…その程度の誤魔化し技法は日本人なら大して珍しくもないことなのだが、電灯の取り扱いに慣れない中国奥地から徴集されてきた者にとっては驚異的な事柄かもしれなかった。概して、当時の中国軍兵士は機械、電気の原理・知識が低級で、その経験も浅かった。…或る日、電気の学科講習時間の終了後…「周中尉」が常時…携帯している出席名簿等が入っている革カバンを持たされた従兵「王上等兵」が油断している隙に、仲間の山本上等兵が偶然の出来心から…はみ出していた書類の一部を、盗み見てしまったのである。私たちの員数表だったが、問題は其の表紙に「日軍俘虜名簿」と書かれてあったことから…忽ちこれは大騒ぎの原因となった。「なんだぃッ、技術指導だなんてッ、うまいことォー云やぁがってッ、結局ッ、俺たちゃァ、トセ部隊から突き出された人身御供じゃァーねぇのかぃッー…」…表紙の文字は、どう解釈しても…「俘虜」以外の意味には取れないのである。「中国軍じゃぁ、日本兵を俘虜ッて呼ばねぇッなんてッ、大嘘じゃぁねぇかッ、もうッ…、俺ァ~技術指導なんてー止めたぜッ…」「隊長殿ッ、何とかしてくださいょッ…」黒岩源治中尉こそ、これには「寝耳に水」の思いだったから、言葉の事実を確かめる余裕もない侭に…その顔は不用意にも気色ばんでいた…。彼は…陸軍幼年学校から士官学校へと進んで…「俘虜」の汚名が軍人にとって如何に恥ずべきことか、徹底的に教育されているだけに大きなショックだった。年若な彼は…その場合、部下の不満を抑えて、慎重な言動を選ぶまで…人間的に洗練されていないばかりか…、むしろ…彼らに扇動されたような具合であった…。…同行の竹内幹太郎少尉は…九州帝大卒の幹候出身だが、黒岩隊長よりは年長だったから…その程度のことで単純に激昂はしないし、多感な学生時代には…世情に反発して世界情勢などを議論したこともあるだろうし、結構…世俗の塵も浴びているだけに、こんな場合でも前後のなりゆきを確かめるように用心深く隊長の顔色を窺っているようだった。私たちは言葉を斟酌する知識を持たない粗雑者が多いから…荒々しい声で喚き立てた。「へんッ、何大隊長の態度でッ、もっと早く気が付くんだったなぁッ、……」「親切ごかしでッ、うまく騙されたもんだぁッ…」「この侭続けさせてッ、最後はッ、どうなるんだろうッ、…」…裏切られた欝憤も…悔しさと不安の為、若い連中は…肩を落として意気消沈した…。この騒ぎの内容に一早く気付いたのは「周中尉」の従兵「王上等兵」だった。「みんなッ、おこること、だめ、だめ、……」ことの流れを察した彼は未だ十七才だったが、健気にも真剣な顔で両手を広げ、泣き声を上げながら日本兵の怒りを宥めようとした…。普段から、私たちは頭脳明晰の王少年をみんなで可愛がっていたのだが、この時ばかりは一向に聞く耳持たぬ表情で、彼の心配顔も何処吹く風で、肯じる態度を見せなかった。「王上等兵」は自分独りでは対処しきれぬ事態を感じて…「周中尉」へ報告に走った。私たちは、この日ばかりは…流石に口数も途切れがちだったが、一応は無闇に騒ぐことを控え、規定どおりに夕食を済ませた処へ…見計らったように「周中尉」が出現した。…彼は…日本兵の居室を目指して、落ち着いた足どりで階段を昇ってきたが、従兵の「王上等兵」の姿はなく、何時もと同じように穏やかな顔であった…。…旧日本軍の内務班を改造した二室が廊下を中にして、向かい合っており、将校室だけが別に仕切られていたが、冬の季節でもあり、各部屋の窓もドアーも…閉まっていた…。「黒岩さん、周ですッ、お話がありますッ、…」その声には…力が篭もっていたから、隣室の私たちに…筒抜けで聞こえた。「そうーらッ、周中尉がやって来たぞー…」どんな話し合いになるのだろうかと、みんな緊張して聞耳を立てた…。 …冒頭の、「日軍俘虜名簿」が、中国軍の現行書類形式として…止むを得ない書き方なのであることを…簡潔な口調で説明を続ける周中尉は普段と変わらぬ静かな物腰のようで…私達は息を殺して聞いていたが、一人として私語を交わす者はいなかった…。悪怯れる様子もなく、理路整然と語る内容は悪意がないことが強調されている。…私たちは、さっき迄は狂ったような気分で、動転していたが…「周中尉」の誠意溢れる言葉に…お互いの顔を見回しながら、密やかに話し出した…。「無条件降伏」の日本軍将兵を…「教官」と記入する訳がないし、もっと客観的になって考えれば、むしろ「俘虜」と記入した方が妥当なのかも知れない…。「教練」の教官とか指導員とか自己満足していたが、敗戦を宣告された日本軍らしく…謙虚な態度で中国軍に接することこそ身分相応なのではないか。「気分が悪いでしょうが、目を瞑っていてください…」「周中尉」は…そう云いながらも、私達が何時の間にか廊下へ並んで…神妙に聞いている方を振り向いて…理解を求める顔には「戦勝国」の将校としての威厳があった。私達は依怙地に拗ねているのが「愚の骨頂」だと悟ったのである…。「周中尉」は日本兵達が…文字の解釈から「反発」したのを、考え直して…了承したものと読んだらしく…「訓練再開の、ご返答を期待しています…」と引き上げていったが、それは…日本兵の面子を重んじ、自分の要求だけを強引に押しつけることを避け…思考時間に一呼吸を与えようとする…寛大な扱いだったのである。この演習場に来てから二ヵ月近くの間、衣食住全ての面に見せてくれた好待遇を思えば自分たちが暗い罪業のイメージを背負った「俘虜」だとは到底考えられず、周中尉が云うように、早とちりの誤解だったことを納得しなければ、それこそ今度は軽蔑されて、本当の罰則を与えられるかも知れない…と、私たちの気持ちも少しは余裕が生じてきた。然し、黒岩隊長だけは未だ疑問符を捨て切れないらしく、不承不承の顔で…憮然としていたが…終戦から三ヵ月が経過して、日本陸軍の鉄則とされた「上下関係の絆」も既に…崩壊しており、その頃では単に表面上の体裁を取り繕うだけの状態だった。環境の変化に伴って、実際では…平等生活にも等しいのだから、一同が声を揃えて、黒岩隊長に「訓練再開の宣言」を要求する民主的採択を迫ったのは当然の成り行きだった。結局…日本兵の「訓練ボイコット」宣言は…僅か一日で撤回され、周中尉の「口添え」で、事は穏便に済まされ、私たちの行為が、不問に付されたのは云うまでもない…。第七砲兵団に充溢している「機械化装備必須論」と、中国兵全般の「信義」の厚さが、危うく脱線しそうになった日本兵の心を支えてくれたのみか、以前にも増した「礼節」を弁えた処遇を見ても、流石に大陸的で…、重厚な国民性を明瞭に物語っていた…。「複雑な国際間のいきさつを覚えただけでも勉強になったなぁッ…」…「不平不満どころか、連中に感謝しなくちゃぁッ…まずかんべぇッ…」…その後の訓練状況には「返礼」の意味も含まれて…更に熱意が篭められた…。技能実技練習生も、従来より…一生懸命に難解な機械講義や、実技に励んでいた…。…黒岩隊長だけが…「切羽詰まった」…この事態を…未だに即応できず…煩悶する様子が推察されたが、私たち兵隊連中では…それに迎合する者は現われなかった…。…「折角、穏便な説得役を努めてくれた「周さん」を裏切れないょッ…」「そうだともッ、あの説得がなかったら…大変な事件になっていたろうなぁッ…」「くわばら、くわばら……」…私たちは全員、中国軍の軍服を着用して、両衿に砲兵曹長の階級章を付けていたのだが…顔つきだけは中国人に似ているから、傍目には日本兵だとは判からないようだった。…そのうち、日曜日には「練習生」の下士官の引率があれば外出が許可されることになったが…「蘇州」の繁華街を見物するのは誰も初めてだったから、これは嬉しかった。…「蘇州公司ビル」は、総合娯楽センターで、中国人たちにも憩いの場所だった…。「京劇」を見て驚いたり、感心したり、珍しい本格的な曲芸に唸ったりで、座席に取り付けられた幅の狭い卓台に乗せた食物を頬張りながら見物している格好は、誉められた図ではないが、プロの演芸に飢えていた私たちは、日がな一日遊んで…ご満悦だった…。「こんな凄い芸当は日本じゃぁッ、とても見られねぇなッ……」日本兵時代には入場禁止だった…中国人専用の豪華な「菜饗館」(料理店)へ誘われて…丸テーブルを囲んで、何種類かの料理を食べた味は…忘れられない思い出である。然し、遊興費には限りがあるので毎度…豪勢に遊んでいる訳にはいかず、別の「慰安・遊戯」を探すことになったのだが、それは…次の事件を引き起こす誘因となった…。…此処でまた…、あの「浜野宗一」が再び登場することになる…。彼は…上海西部地区の「特別収容所」で、従軍看護婦の斉藤靖子を巧言で垂らし込んだ挙げ句の果て、計画的な手段を弄して集団生活から、逐電同様に脱出し、中国軍に籍を委譲し、何食わぬ顔で教官擬いの生活を送っていたのだが…「集中営舎」を出る時、庇ってくれた戦友の手前…「蘇州」に来てから暫らくの間は「猫」をかぶっていたのだが、いつまでも大人しくしているような男ではない…。「日軍俘虜名簿」事件でも、真っ先に喚き散らしたのは…この浜野だった。…若し、中国軍に入った侭、共産党軍を相手にする戦争に駆り出されては大変だと…臆病風に吹かれて、震え上がった彼が…得意の弁舌で、戦友を扇動したことが…「騒ぎ」を大きくした原因の一つだったのは間違いないのである。口から出任せの嘘であろうと何であろうとも、人の気持ちをたなごころで転がすのを無上の喜びとして恥じない彼の玄人芸にかかっては、いくら用心していても乗せられてし了うのだから、悔しいけれど素人と専門家では、事に対処する着眼点に大きな差異があるのだから…簡単に防ぎきれるものではない。…兵団司令部の好意で、中国兵と同行すれば外出も許可されることになった途端に、彼の頭に閃いたのは「蘇州美人」を賞味して、「復員土産」にする魂胆なのだが、最初に…その巧妙な口車に乗せられたのは、中国練習班付の「劉曹長」だった…。四川省の「重慶」出身の彼が…少年時代から抗日思想に燃えて軍隊入りしてから、約十年、大陸各地を転戦し、戦火に明け暮れた苦労の末、二十六才にして捷ち得た戦勝国の上級下士官としての現在の身分は…彼の生涯でも恐らく最高の地位であろうが、国共両軍の一指触発の折からも、鼻息荒い職業軍人であった…。然し、残念ながら…それほどの学もなく、軍隊以外の知識に疎く、社会、経済方面には未成熟な生一本な青年に過ぎなかった。…抗日戦争中、日本軍の壊滅だけをが…遂に中国軍は戦勝国となった。永年、戦いを交えた日本軍の武器を接収した中国軍は…今回、初の機械化機動部隊を創設したが、技術の講習を続ける段階で、劉曹長が感じたのは…機械的な好奇心もさることながら、少年時代から憎しみの対象にしてきた日本兵が、想像以上に優秀な頭脳で、中国兵とは比較もできない格差があることだった。中国人と同等以上に礼儀を守り、それに文盲者もおらず、敗戦国の兵隊にも拘らず、卑屈な態度を見せる者もなく、現在、第七砲兵団に移籍しても、常に全員が威儀を正して実務に励む様子は誠に立派で、彼の日本人観を根底から覆したのである…。…浜野宗一が、蘇州に派遣された日本兵の中で…最低下劣な男だと云われても、一応は機械化砲兵の教育課程を終了して…四年間を過ごしてきただけに、実績は積んでいるし…、頭脳は人並み以上に優れている。…但し、律儀に生きる術を知らぬだけなのである。…「劉曹長」が、真面目一筋で…日本兵を尊敬しているらしいと見抜いた「浜野」は…狡猾な下心を隠して…接近したが、相手の歓心を買うのは容易いことだった…。『…恋し~なつかし~三年ぶゥりに~会いたかったとォ~目に涙ァ~~……』休憩時間を利用して得意の浪花節を…『一節』唸っただけで…浜野は注目された…。…劉曹長には(浪曲)の「文句」は分からないだろうが、この独特な発声法で謡う…奇妙な日本の「詩曲」に異常な関心を寄せたのは…、珍しさが七分で…興味が三分だったが、自国の「京劇」にも登場する巧妙な「節回し」が魅力だったらしいのである。浪曲で気を引き…話し合うきっかけを作った彼が、次に仕掛けたのは猥褻画だった。…双方共に片言の言葉だから、思うように意思を伝えられないけれど、絵ならば…同じ東洋人同士のことで、これは直ぐに理解されたのである。劉曹長も木石ではないから、思いもよらない場所で、いきなり尊敬していた日本兵の一人に、意表を突いた男女の交合図を示された時は仰天したが、その絵を描いたのが当の浜野だと知って、彼は更に吃驚したのである。浜野宗一は文字は不得手だが…即興の絵を描く能力が…もう一つの隠し芸だった。…言葉より微細に好奇心をくすぐる、この戦法は、武骨な劉曹長には…猥褻どころか…滅多に見られぬ古典的な「春画」として、浜野を玄人の「絵描き」だと錯覚して了った。我々は誰しもが、自分にない才能を発揮する相手を見ると「警戒」か、或いは「尊敬」か…何れかの概念に捉われるものである。…「劉さんだけに見せるんですッ、他人には絶対…内密にしてくださいッ…」特別扱いを装って自分を印象づける騙しの手口は、彼が最も得意とするところだった。「東京の実家は美術商で、少年時代から美術学校に通っていた…」…(中国女性の下絵(デッサン)を描きたいが、いい方法はないものか…)…浜野宗一が秘術を尽くして…篭絡するのだから、世俗に汚れた詐欺的技法など思いも浮かばない劉曹長は全然疑いもしないで、浜野の云うことを素直に信じてしまった…。「次の日曜日に外出したら、若い女性の居る処へ…ご案内致しましょう…」「そうして呉れれば有り難い。何枚か画く積もりですから、その内の一枚は記念に劉曹長に進呈しようと思いますが…それで、よろしいでしょうか…」…いつもながらの、とんとん拍子の嘘八百を並べて、自分勝手に都合のいい約束を取り交わした浜野は…さも嬉しそうに小躍りして見せた。この密談があったことを私たちは…誰も気が付いていなかった…。…休日の外出は…史蹟名所で知られた「蘇州」だけに…結構人気がある。私たちは為るべく金銭のかからない古跡巡りを付き添いの中国兵に申し入れた…。…然し、あの「寒山寺」一ヶ所を見るだけでも外出時間が過ぎて了うほど遠いのである。兵舎からは南と北に離れている…その場所まで、徒歩で往復すれば…ゆっくり見学していると帰営時間に遅れるから、忙しい一日であった…。…当日の休みが終わった夕刻……。何時ものように食事は兵舎内で済ませた…。その後は…消灯時間まで自由に使えることになっているが、絶対に許可にならなかったのは…外部の日本軍部隊や、日本内地への通信であった。…これと云って…することもないから、兵隊たちは休憩時間を持て余していた。浜野宗一に浪曲をやらせようとしても、足元を見透かすように…「元手がかかっている『芸』なんだから、無料では厭だ」とか云って…滅多に皆の前では演じょうとしない…。…『…赤城の山の吹き颪ィ~坂東太郎利根川のォッ~流れでェ産湯を使いしィわァ~…』その…小狡い彼が、その夜に限って頼みもしないのに「国定忠治」のさわりを朗々と唸りだすものだから、一同は最初こそ…喜んでいたものの、普段から「金銭」には異常なまでに執着する彼に似合わない…不思議な…この現象に疑問を抱いた…。「浜野のやつ、何か嬉しいことでもあったんじゃァないかッ…?…」私達は…この日、浜野宗一が同道した相手が…まさか…剛勇で鳴らしている劉曹長だったことや…二人が示し合わせて…歓楽街の妖しげなる一室にしけ込んで…艶かしい娼婦を抱いたりして…抜け駆けの痴態に耽っていたなどとは…想像もしなかった…。「おぃッ、昼間ぁー何があったんだぃッ、教えろょッ…」問い詰められると、浜野は得意満面の体で、これを隠しているのが…さも辛かったかのように…「蘇州美人」抱擁の一番乗りを果たした自慢噺を得々と語り出した…。彼の物語りは…自分に都合の悪い部分は省き…虚飾、粉飾が多いから何処から、何処までが事実なのか見当もつかないが、それらしいことを楽しんだのは本当らしいのである。兵技機器の実技指導の目的で蘇州くんだりまで派遣されてきたが、演習の約定期限が終了もしないうちに女遊びをする者が出現するとは…指導班長の北見軍曹も、流石に呆れてものが云えず…、(やっぱり浜野を連れて来たのが、間違いだったのかなぁ……)真面目に実技演習をしている連中のやる気を削ぐような、浜野の出鱈目は許し難い行為だが、日本軍隊が崩壊した現在…此処で同胞の一人を懲戒することは避けたい。何とか我慢をしよう…と堪えてはみたものの、さりとて中国軍の組織内で、日本兵の沽券に関わる詐欺事件にも等しい風紀を乱した非常識な浜野を…その侭野放しにして置けず…如何に処分すべきかと迷う…北見指導班長が…この場を何とか無難に収拾して、今回の任務を全うしようとする為には…辛い忍耐が必要だった…。浜野宗一は一旦喋りだしたら歯止めがきかず、聞かれもしない性行為の場面を、鄙猥に誇張して面白可笑しく、しかも抑揚をつけた漫談調で…一人得意げな顔つきなのである。「遊んだ金銭わぁー結局ッ、劉曹長が全部持ったのかぃッ…」「そうだょッ、俺ァー劉さんのッ、お気に入りだからなぁッ…」破廉恥な彼に毒気を抜かれた同僚も…この「一件」には開いた口が塞がらなかった。…「おいッ、浜野ッ、黙って聞いてりゃぁ、調子込みゃぁがってッ、いい加減にしねぇと此処から追い出すぞッ、蘇州女がそんなにいいんなら一人で蘇州へ残るかいッ…」遂に堪りかねた北見軍曹が、爆弾宣言を放って浜野の口を封じたのである…。驚いた浜野宗一は…、近ごろ…日本人が全く見えない…この蘇州に(おっぽり出されたんじゃぁ…)まともに生きて帰れなくなるかも知れず、この場は「機を見るに先なれ」と「勘」を働かせ、首を竦めて鳴りを潜め…そのまま…小さく縮み込んでしまった…。私たちも…矢鱈に羽目を外して、日中両国人の笑いの種にされてまで無理に邪な欲望を満足させようと思う者はいないから、浜野の事件が警鐘となり、その後の一同が品行には特に注意を払うようになったので…技術指導班全員の品位失墜を、免れる一因となったのは…「人間万事塞翁が馬…」の喩を地でいく挿話として全てを締め括ったのである…。…………………。一九四六年……。私が…、中国大陸へ渡って来てから三度目の新暦正月が訪れた…。最初の正月は…あの太山廟地区で…「常徳作戦」終了直後の暗い気分だったし、二回目は「広西省」の「赤蘭村」を牛耳って殿様気分に溺れていた「湘桂作戦」の末期だった。…中国軍は…新年も旧暦で祝うので、平時と変わらぬ教練の号令が「三ヵ日」でも聞こえるのかと思っていたら、夕餉の食卓に並べられた「特別料理」を見て…一同は驚いた。「周中尉」が気を遣ったらしい心尽くしの、豚肉料理で…珍しく砂糖を使って煮込んであり、恐れ入ったのは…小量ながらも五加琲酒まで添えられていたのである…。私達が…第七砲兵団に派遣されて…何よりも閉口したのは毎日の単調な食事である。中国軍の給食が、日常…貧しいのは、雇兵時代から糧食給付金を、上位者が削り採る伝統的な悪弊が続いている為で、兵隊食は殆ど一汁一菜の粗末な献立だった…。この日、分厚い肉塊を長時間とろ火で煮込み、風味のある野菜炒めを盛り合わせた「上海料理」風の「特注」は、云うまでもなく日本兵用に別途調理したものに違いない。それに…酒まで付いたことは、丁度此処へ来て二ヵ月目で迎えた正月に相応しい暖かい「周中尉」の思い遣りが伝わるだけに、時と場所柄を思えば…嬉しさは上々であった…。その「周さん」は…何気ないような顔をして…食事直前の時間に現われた……。「時節柄を考慮しますと、どうしても十分と云う訳にはいきません。ほんのお印し程度なんですが…、細やかに…この新暦正月をお祝いしてください…」彼が、砲兵団の通訳将校として活躍する以前の経歴は知る由もないが、相当な高級生活だった様子が窺われる。それも…日本人との交流が深かったことが推察される…。日本人の生活に詳しいような話ぶりから想像すると、可成複雑な事情がありそうだが、それを敢えて質問するのは…失礼の上塗りになるので、控えなければなるまいと思った。…二十四人は…其々に相好を崩して…その食事に舌鼓を打っていた…。「俺たちが…こんな身分だから、込み入った話は避けるべきだろうなァ…」…年嵩の北見軍曹は若い隊長が口に出さない「感謝と遠慮」の気持ちをさらりと覗かせて短絡的な思考に走り易い連中に「信義」の大切さを何気ない風に示唆しているのだった。「これでぇッ、鮪の刺身でもありゃぁッ、申し分ないんだけどなぁッ」…大きな声で突拍子もない皮肉まがいの悪たれ言を云い出したのは浜野宗一である。…度重なる軽挙妄動を叱られてきた浜野だが、またも口を滑らしたのだった。「おいッ、浜野ッ、正月早々だから、我慢するがぁッ、程々にしろょッ…」…浜野宗一ばかりか、私たちにも潜在している増長慢心の芽が…見る見る凋んだ…。「技能実技練習生」たちが、五ヵ月前に終止符を打った日中戦争の意義を正しく把握していればこそ、こうした環境の中にあっても慢らずに、元日本兵に対しても「三顧の礼」を尽くして…技術修練に励んでいるのは…日本との戦争が終決し、「新中国」の担い手になった自覚に燃えているからであろう…。周中尉が的確な判断力で、日中両国の相関性を調整しつつ、自軍の隆盛に尽力する紳士的な行為を見ていると…私達の過去に強制されてきた軍国主義の野蛮な行動は、取り返しのつかない大失態だったことを、今更ながらに…痛感せざるを得なかった……。「一九四六年の新年を迎えましたが、大きな視野で世界を展望すると、この東アジアで将来…リーダーシップを把るのは…今後、必ずや起死回生の超能力を発揮すると思われる日本国を差しおいて…他にはあり得ないことです……」…淡々と語る「周中尉」の深い識見と洞察力も、その当時の私たちでは世界情勢にも暗く…意見の内容が正確に解釈できず、一人として時宜に適う受け答えが出来なかった…。…砲兵隊の「観測、砲手、通信、自動車」は…どれを採っても技術は難しい筈なのに、機械知識に疎い中国兵達が、言葉の障壁をものともせずに励む姿は驚異であった。…二月も過ぎ、三月の訓練課程を消化する頃になると、練習生の号令等も火砲全般の攻撃体勢は…実戦さながらの「呼吸」を会得し、一応…戦闘教練をマスターしたのである…。…新暦の四月二日は…厳寒の長い冬を耐えた莟が花と咲く…旧暦の三月一日であるが、中国では古来より…「尚技節」として全国的な祭事が催される日になっていた…。中国軍が戦勝デモンストレーションを挙行するには最も相応しい日である。世紀の「大閲兵式」は、南上海郊外の広大な原野に於いて…蒋介石主席の臨席も決定しており、中国軍の精鋭を網羅した大ページエントを繰り広げる準備がなされていた…。第七砲兵団では、この日に備えて十日も前から分列行進の訓練を重ねてきたが、その隊列の中に我々「技能指導班」も『全員参加すべし』と…出場命令が届いていた。愈々…その「尚技節」当日の朝が来た……。…「…俺は出場しないぞッ…」土壇場になって…「出場拒否」を宣言したのは…黒岩源治隊長だった。国際都市「上海」で、国民党主席の「蒋介石」が臨席するともなれば、各国の駐在武官も列席するだろうから、その眼前で俘虜の元日本軍将校が、中国軍服を着用し、晒し者同然にされるのは(堪えられない…)と云うのが…彼のわだかまりらしかった…。「隊長」が参加しなければ、直ちに詰問され、責められるのは必定である。いくら執り繕っても…言い訳が通らないのは火を見るより明らかなことだった…。「何処にッ、顔見知りが居るんですかねッ…そんなことは問題外でしょうッ…」 「なんと云われても出場しないぞッ…」隊長本人だけが司令部の反感を買うのならまだしも、責任の追及が技術派遣隊の全員に波及する重大問題になった場合は「上海」で待機している「佐々木聯隊長」が、その立場を失うばかりか、約定違反は「蒋介石主席」への造反を疑われるのは確実である…。「聯隊長殿の顔に泥を塗る積もりですかぁッ…」「…‥…‥…‥…‥…」駄々っ子のような黒岩隊長は日本の「無条件降伏」の意味がわかっているのだろうか。現役将校のプライドを保持しようにも既に日本軍は壊滅しており、再起不能にされているのだから、この期に及んで我意を張るのは…どう云う了見なのだろうか…。元将軍と雖も血涙を服む非常事態が各地で発生していることを知らぬ筈があるまい。北見軍曹はもう一人の将校竹内少尉が今日までの経緯を知りながらも終始無言を守っている心境を推察出来るだけに、同室で寝起きする「窮屈さ」を気の毒に思っていたので…自分達一同の意見を…この場を捉えて明確にした方が良いと思った。「隊長殿が、自分で周さんを通して出場拒否の理由を説明してくださいッ‥…但しッ、俺たちに迷惑が被らないよう先様にはっきり念を押して貰いたいですねッ…」…北見軍曹は笑い顔だったが、その言葉は…決して生易しい意味ではなかった。世間知らずの黒岩隊長も旧軍隊でこそ一箇中隊の指揮官であったのだろうが、現在では単なる便宜上の隊長職に過ぎないことを「強硬」に警告されたようなものである…。此処で、同胞一同から見離されたのでは…矢張り心細いのが普通の心情である…。黒岩隊長が渋々ながら出場を同意して身仕度を整え始めると、一同はすかさず…一斉に拍手をしたが、純真な隊長は「バツ」の悪そうな苦笑いを浮かべていた……。社会に措ける人為的葛藤の経験や…駆け引きの技巧にかけては…どうしても、年長者の北見軍曹の方に一日の長があったのは仕方がないことである…。一同が演習場へ姿を現わすと…既に中国兵たちは…車両の前で整列をしていた。『閲兵式』の査閲席には新品の幕舎が数張り並んで…開催の時刻を待っていた…。…中央壇上には国民政府軍最高位の蒋介石主席が全体を睥睨し、両脇には華中方面軍最高司令の湯恩伯大将や、第五戦区司令の李宗仁中将が控え、更に華中砲兵軍団司令の林日藩少将以下…米式装備歩兵部隊を統率する上位将軍が居並び、貴賓席にはアメリカ極東軍副司令官マーシャル大将の顔も見え、他の特別席には各国の駐在武官や、文官が招待され、各報道関係者も…今や遅しと…カメラを構えていた…。戦勝デモンストレーションを彩る…お膳立が豪華なプログラムで…息を弾ませている。軍楽隊が奏でる分列行進曲が、スピーカーを通して式場に木霊して鳴り響いた。最初に登場したのは…自動小銃装備の近代式歩兵軍団だったが、数箇の中隊別に縦隊編成で潮のように前進する華麗な分列行進に続いて…重厚な戦車隊が…轟音と共に土煙を上げ…その後から現われた十五榴曲射砲の挽馬部隊は、六頭仕立ての悍馬を操る手綱捌きも鮮やかに、並み足行進する勇姿こそ…、過ぎし湖南の戦場で…トセ部隊と先陣を競い合った懐かしい…‥あの野戦重砲兵第十四聯隊の再来そのものであった…。次に…軽快な野砲隊の挽馬行進が疾駆していくと最後尾は愈々…機械化野戦重砲部隊の十加・十五加砲の数箇大隊が、巨大な砲車を牽引するキャタピラーの無限軌道車が四列縦隊に並走し、後に続く貨物自動車数十台は一指乱れぬ走行だったから…その堂々とした威容は…並み居る列国参観者の目を見張らせたのである…。この晴舞台で主役を務めた挽馬部隊の御者や、機械化部隊の見事な行進演技を披露した操縦兵の全てが、中国軍に兵技指導をした旧日本兵の代役操作だったことは…一部の関連高官だけが知る極秘事項であった。機械技術習得に日の浅い中国兵が主役を担っても、万一の操作ミスで…中国軍の威信失墜を恐れた兵団司令部が密かに打ち合せした緊急命令だった…。臨席の蒋介石主席や…各将軍及び、列席の各国参観者も…看破していない筈である。…圧巻の分列行進を称賛する声が漂う中で…閲兵式は滞りもなく終幕した…。…その頃「国府軍」を統率する…この「蒋介石」を不服とする中国共産党の最高指導者…「毛沢東」の指令下にいた…旧第十八集団軍長「朱徳」が号令する「共産八路軍」数十箇師と‥「百団大戦」の「新四軍」等…数十箇の軍団が…思想的に対立する抗争は激昂し、中国東北部や…湖北省襄西部に於いて、両者の機運は最高潮に達していた…。既に…国共両軍は激戦との情報も伝わって、私たちの…また新しい心痛事であった。…閲兵式も無事に終了したことでもあり、今更「中国」の内戦に巻き込まれたくない。兵団司令部から通達があった「中国軍入隊希望者」の優遇条件には魅力的な項目が並んでおり…、盛んに日本兵を揺さ振る移籍勧誘運動は決して生ぬるいものではなかった…。然し、「上海」では…日本軍将兵の「復員」が開始されたことも耳に入っているから、私達は「帰心、矢の如し」で…、脇目も振らずに、全く迷いのない心境だった…。隊長職の黒岩中尉に「復員」の交渉を催促しながら、もう一方では直接、「周中尉」の情誼に縋ることも怠らなかった……。「どうしても……早く復員したいんですょッ、お願いしますッ……」周中尉は、兵団司令部から…日本兵の移籍勧誘を早急に進めるよう内命を受けているので、双方の板挟みにあって…ジレンマの重圧に懊悩していた…。

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