復員船

11.復員船
 暫らくすると、センチメンタルな「どら」の音が出船の合図となり…張り裂けんばかりの汽笛が薄暮の空を震わせたが、もの寂しい余韻が港の隅々にまで沁みつくようだった。アメリカ軍からの貸与だと云う…大鉄塊さながらの「LST船」は…大勢の、うちひしがれし…日本兵を…船腹いっぱいに詰め込んで、これが何回目になるのであろうか「内地帰還」を目指す…感激の出航となった。…岸壁には…見送り人の姿が殆ど見えないから…出船の光景が何となく素っ気ない…。…小帆船もまばらな夕刻の海面には航跡が…そぼろ紋を鏤めたような白い帯状になって、揺めいていたが、港湾の遠景は砕け散る小波諸共に薄暗い霞に煙り…視界から消えた…。行き着く先も…私たちでは…所詮知るよしもないのだが、今となれば…必ずや日本の港 に向うのは間違いないのだと…貴方任せにひたすら祈る心境だった…。…船内は楕円形の鉢に蓋をしたような駄々っ広く婉曲した船底に、重なるように押し込められ…立錐の余地もない程の混雑ぶりで、私たちが落ち着く暇もないうちに…早くも周囲では食物争奪を巡る醜悪な罵声が各所に沸き起こり、乱暴な靴音が飛び交っていた…。「米を持っている奴を見付けたら直ぐに捲き上げろぃッ、どうせ船から飯が出るんだろうから構うもんけぃッ…おぉぃッ、彼奴をッ、やっつけろいッ…」…一部の復員兵には、悲運の過去でもあったのか、余程の我慢を耐えてきた腹癒せに、逃げ場のない船内で…仕返しをする魂胆らしく、大胆にも徒党を組んで食料を強奪をしようと狙っているようだが…どうやら…その矛先は将校服の者だけに限られていた。…この日本兵の一団が復員船に乗り込むまでの過程には勿論…「敗戦」がある…。八ヵ月前の「終戦宣言」で、日本軍の命令系統の組織機関は事実上…瓦解したが、中国各地で我が軍が強制解体されたり、無統制に壊滅した混乱状態の記録はない。当時の…支那派遣軍の概略の態勢は以下の通りである…。
 第六方面軍(司令官岡部直三郎大将)は、第十一軍(軍司令官笠原幸雄中将)と…、第二十軍(軍司令官坂西一良中将)である。内訳は…、八箇師団と…その他独立聯隊があり、衡陽地区から武漢地区にて終戦。第十三軍(軍司令官松井太久郎中将)は、第六軍司令部(軍司令官十川次郎中将)他。
 内訳は…、七箇師団その他で…、揚子江の下流地帯、南部津甫線要域他にて終戦。北支方面軍(軍司令官下村定大将)は、第一軍(軍司令官澄田来四郎中将)…第三十九師団は(昭・20・5)に湖北省より山西省信陽へ転任。その他独立聯隊。軍司令部は太原。駐 蒙 軍(軍司令官根本博中将)は、一箇師団その他。軍司令部は張家口。第十二軍(軍司令官鷹森孝中将)は、三箇師団その他。軍司令部は 鄭州。
 第四十三軍(軍司令官細川忠康中将)は、一箇師団その他。 軍司令部は 済南。
 第二十三軍(軍司令官田中久一中将)は、三箇師団その他。 広東付近の要域。
 その他に支那派遣軍直轄兵団の四箇師団があり、支那派遣軍総兵力は約百五万だった。
 作家児島 襄 著(昭五九、七、一)の「日中戦争第三巻」の末尾に結んだ統計数字には交戦期間ー(昭十二、七、七)ー(昭二十、八、十五)までの、中国軍の損害は、戦死は約一三二万人、 戦傷 約一七六万人、 行方不明 約一三万人、計約三二一万人…。                             以上は国民政府…。 蒋介石主席側の…公表である。
 日本側の損害は…、戦死者 満州地区が約六万五千人。中国本土が約四十六万人。 負傷者の正確な記録はないが戦死者の二五%以下。起算方法はどうあれ、日中両軍の損害は甚大である。「日中戦争」は中国共産党の役割も含めて疑問点が多く、世界の戦争史の中でも複雑な 特質を持つ。その背景、誘因、経緯のいずれについても、単に乾いた断罪に止まることなく、相互の冷静で細密な実証的検証が必要になる。…それがなければ、日本も中国も、その体質内に潜む跪弱点を摘出することができず、反省と教訓を汲み取ることができない。     以上。
 …終戦までに至る日本陸軍の階級別の損害統計の平均的数字を調べてみると…。将校 三十%、准士官 二十%、下士官 六十%、兵 八十% ……。これは…明治初期の建軍以来、数々の戦争や事変でも立証済の事実であって…「命令一下」窮地を承知の上でも敢然と闘うように躾けられた旧来不変の日本軍の体質である。…第二次大戦全部を総合すると軍人軍属の戦傷病死は、約二百三十万人と数えられている。第一の問題点は、大量死のすべてが戦闘の必然的な結果ではないと云う事実である。バンザイ突撃を例にとっても分かるように、戦局が挽回不可能な絶望的状況に陥ってから行なわれており、捕虜になることを最大の恥辱とした無謀な戦術であった。第二の問題点は、補給を断たれて、餓死者や、病死者が戦死者を上回ったことである。…果たして全部の将校が無能だったのだろうか。終戦前後の逃亡者を見ても…将兵合わせても些細な数字であることが証明するように、大部分の部隊が復員し…九州に上陸した後までも整然とした行動をとり、最後まで事務処理を済ませた将校が多かったのである…。米軍側も、中国軍側も日本軍が「規律と責任」を失わなかったその行動には意外の面持ちで…感心したらしいが、戦後に詳しい統計資料が残されているのも…その為である…。上記の数字が示す階級差と、而もなお、部下の信頼と上官に対する献身的な態度を最後まで揺るがせなかった「統帥との矛盾」は一体どう考えたらよいのであろうか。…厳正なる軍紀とは…「服従を第二の天性」とする日本古来からの「知らしむべからず、依らしむべし」型の一方的な首長崇拝と、盲目的従属を強いる伝統的な実践方法が、鎌倉時代、戦国時代、江戸時代から…明治、大正、昭和と…その侭受け継がれたものである。…軍隊組織とは、規律と上下関係の絆を伴う連帯責任を基盤に、集団技能を短期間に育成する精強な戦闘部隊の創造を目的とし、これを代々引継いで実践することが…如何に強引であろうとも…日本陸海軍の統帥部にとっては、甚だ好都合な統御体制であった…。近年までに大部分の日本人が、社会生活を営む経営方針には共通した隷属思想が継承されてきた。戦後四十年で驚異的な伸び率を示した経済的発展の裏には、多少複雑な形式になってはいるものの、企業の大小に拘らず、最良の労働条件とは献身的な「奉仕と貢献」の観念で、会社(首長)に尽力する…その思想が矢張り根強く尾を曳いている…。…昭和二十年八月十五日…。敗戦の烙印を押されて大日本帝国は崩落した…。然し、軍隊組織が残る中では厳然たる階級差が存在し、軍紀を維持し続けた。戦闘機能を放棄した部隊が目標を「復員」に代えて、組織の運営を全うしたのである。…異質の状況による造反が若干あったが、例外と見做す程その件数は少ない…。この…復員船に収容された将兵達の縦横の系統、系列の関連性は多種多様であった。…乗船日数が三日程度のことでもあり、全体を統括する責任者は特定されていない。…LST船の船長が全責任者になるが、航海法に基づく規則違反以外の指図はしない。私達は乗船以前に、帰還途中の船内トラブルを予想して…竹内少尉に一般兵隊服を着用するように奨めたのが功を奏したとして…胸を撫で下ろしていたが、当の竹内少尉はそれでも怖じ気づいて、満足に食事も執らずに膝を抱えて縮こまっていた。日中戦争の末期、日本軍は膨大な部隊を制御しきれない程、物質的に疲弊しており、前線の一部では命令系統が弱体化し、集団規律も、服従精神も希薄になったが…「敗戦」から「復員」迄の経緯を見ても個人的な自由行動の方が有利だった事実はない。…無頼漢達は長年抑圧されてきた不平不満の捌け口として、復員船での造反劇により…溜飲を下げようとしたのだろうが…行為の善悪を判断もできぬ愚か者である。…持ち込み許可になった小量の「白米」を狙った悪党どもの魂胆は…大きな計画性はないが…日本に帰還しても、戦争に疲れた庶民の台所事情がどん底の食料不足で…「米」の価値はあらゆるものを上回っているだろうと計算した…程度の低い思考だった。「この野郎ッ、何てぇ態度していやがるんだッ、米ェー出しゃぁがれッ、…戦争に負けたってぇのにぃ~未だぁッ、将校づらしゃぁがってッ、とんでもねぇ野郎だッ…」太太しい形相で凄味を利かし…濁声で恐喝しても、誰一人として救ける者はいない…。…永く待ちわびた復員が漸く叶えられ…内地上陸を目前にした船中で、盗人猛々しい不届き者が現われても…その是非を正面に批判して、うっかり口を挟んでとばっちりを食ったのでは…今までの苦労が台無しになるからである。無法の要求でも、無下に断れば…数人で殴る蹴るの暴力沙汰の挙げ句に強奪し、大仰に胸を張って引き上げるのだが、この暴君の前に立ちはだかる者は現われなかった…。この「復員船」には一般在留邦人は乗船していない。…主として、華中方面の西部地域と湖南の長沙方面にいた部隊の残留者で…、最近上海に引き揚げてきた者が大部分を占めているのだと聞いていた…。元支那派遣軍総司令部の「復員事務局」は、国民政府軍の「日軍送還管理機関」と連絡を執り、中国奥地に駐在した部隊を優先順位の筆頭に「復員」を開始していたが、今回の帰還兵には…負傷、疾病等の治療の為、約半年間も復員の順番待ちをした者が多かった。「LST船」は米軍の敵前上陸用舟艇の搭載艦である。その内部は船腹が縦長に湾曲しており、底は扁平型になっているが元々小型舟艇の搭載用の構造だから、人員のみ乗船しても精々三百名程度であった。 復員兵の軍服も…、半数以上の者が洗い晒しの被服で、中には今日までの苦労を一見して物語るような見窄らしい格好の兵隊も含まれているので…服装が新品の者はどうしても気兼ねをしてしまう。まして…私たちのように乗船間際まで中国兵と親しそうにしていた者は、誤解され易いから…目立たぬように隅の方で…小さくなっていた…。逆上して猛り狂う奴に反抗すれば、騒ぎが拡大するだけで…簡単には埒があかない。…何をするか予測もつかない奴が相手では、碌な結果にしかならないのだから、おとなしくしていた方が、無難であろうと…誰しもが考えるので、当たらず触らずなのである。暴れ得が分かると…彼らは益々悪乗りして、傍若無人の限りを発揮する…。…復員兵の中には付和雷同する馬鹿者もあり、さながらこの場面は阿鼻叫喚に近い光景で…まさに奈落の底でもがき苦しむ地獄の坩堝を見るようだった…。…船員にご注進しても、彼らでさえ後難をおそれて「みなさん方で解決して下さい…」と口を濁らすだけで取り合ってくれず、大方の者は…その場を歯を食い縛って凌いでいた。 武器を持っていないから悲惨な刃傷沙汰にはならないが、些細な弾みで喧騒に巻き込まれ…思わぬ被害を蒙ることを恐れて、みんな身を寄せ合い…顔を引きつらせている。その時の険悪な騒乱状況は、私には…一生涯忘れらない印象を刻み込んだ…。…三日目の朝が来たとき…。長い間、待ち焦がれた「祖国」の山々が遠い波間の彼方に…ふわふわと浮かぶように見え隠れしているのを「誰か」が望見したのである…。「おぉいッ、にっぽんだぁッ、日本に着いたぞぉッ…」兵隊達は…窮屈な船内の疲れもどこへやら、跳び上がって喜び合い…報せ合った。「おぉッ、やっとッ、帰れたかぁッ…」狂乱に疲れ果てた…あの狼藉者たちまでが…「手締め」を打って燥いでいた…。…この賑々しい情景を余所に…船内の一隅に寝かしていた病弱者の一人が突然の興奮状態から…容体が急変してしまい、危篤状態になったのである…。それが悲運にも…手当てが間に合わず、やがて…こと切れたのであろうか、その兵隊を囲んだ泣き声が細く長く…切れぎれに流れてきた…。「おぉぃ~なんで死んじゃうんだよう~……」…堪えようのない悲痛な涙に誘われて、貰い泣きをする者には…予期しない時期に…この世の無常を思い知らされる辛い試練であった。形ばかりの検死の後に…「検疫」が始まり、これが執拗なまでに長引いた…。…「伝染病」の疑いが晴れるまで、沖合に二日間も碇泊させられたのである。「一体ッ、何時になったら下船出来るんだろう………?…」…待ち侘びた上陸が『今日の午後一番』だと発表されるや復員兵は一斉に喚声を挙げた。

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