帰還列車

12.帰還列車
 船が岸壁に横付けされると復員兵たちは…一様に緊張の表情を見せたが、船員の指示に促されて従順に列をつくり…急勾配の細長い仮設の桟橋を伝わり、次々と上陸した…。其処は北九州の「小倉港」で、新緑の匂いが漂う天空には鯉のぼりがはためいていた。『無法松の一生』として…映画・浪曲で…胸の漉くような「祇園太鼓」や…豪快な乱れ打ちと「富島松五郎」の悲恋物語りの感動は、颯爽とした男の気概を教えてくれた…。…その「小倉」は、この日…一九四六年四月二十五日…。 午後のことである…。小倉地区には、アメリカ第十軍麾下の第二海兵師団、第五分遣隊が駐留していた。…この部隊は…あの凄惨な沖縄戦で、日本軍第三十二軍(軍司令官・牛島満中将)と死闘を展開し、軍司令官シモンバックナー中将が戦死しており、復讐心に燃えた彼らが島民トを多数巻き込んだ無差別虐殺や国際法で禁じられていた「毒ガス」や黄燐弾を使用して後後まで物議を醸した蛮勇談が…報道を賑わした剛毅な部隊なのである…。…八月末に最後の戦闘が終了し、日本軍が降伏文書に調印した九月七日から、未だ半年余りだったので、壮絶果敢な硝煙を掻い潜った戦場での灼熱した興奮が覚めやらぬかのような兵士が多いのだと噂されていた。埠頭には…汐焼けして見るからに精悍そうな赤ら顔の兵士が桟橋の下で二手に別れて整列し…「素っ頓狂」な高っ調子の声を挙げながら、私たちに向かって何やら叫んでいるのだが…言葉が通じないから大部分の者は戸惑ってうろうろしていた。日本兵の上陸と同時に、所持品の全部を検閲して、不当な持ち込み品を排除するのが目的だろうが、彼らに課せられた警戒条項は細目にして、且つ厳格を極めた。検閲の名目で、不法に物品や紙幣を押収する米兵がいるので、彼らが興味を持ちそうな物を無警戒に並べないように注意する必要があるのだと、沖合で停泊中に船員から聞いていた私たちは…ある程度の対策を練ってはみたものの、内容が掴み切れなかった…。「しらみ」の伝染を防御する「DDT粉末殺虫剤」の使用時にも日本兵を侮蔑し容赦なく頭から白い粉末を噴射して、児戯にも等しき愚弄をすることは兼ねてより知っていた。然し、実際には…そのどちらも回避できそうもないだろうと…私たちは観念した。…終戦になってから、私たちがアメリカ兵と最初に遭遇したのは…昨年十月初旬の頃で…上海西兵舎に日本軍が集結を完了してから敗戦処理として「武器引渡し」後の草案条項に調印し、中国軍側に兵器輸送の協力をしていた時期があった。「上海軍管区司令部」にも何度か公用で連絡車を出して両者間を往復していた当時…。…途中の「虹口」(ホンキュウ)を通過の際にアメリカ軍のジープを追越し、得意になっていたら、彼らの逆燐に触れ、後方から拳銃で滅多撃ちされたことがある…。幸い、怪我人は出さなかったが、今回でも…彼らの自尊心を逆撫でするような無意味な挑発行為をすれば「ゲーム」を楽しむように面白半分で、撃ち殺され兼ねない危険性もあるから用心しなければならない…。「ここでッ、逆らっちゃあぁー損だからなッ、まぁ奴らの云うとおりにしようぜッ…」最古参の北見軍曹がしたり顔で素早く二人に注意をした…。「そうですねぇッ、こんな処でどえらい目にあっちゃぁ堪らねぇですからねッ…」「そうともッ…、なんて云ったって俺達は大事な…ご帰還なんだからなぁッ…」四人は…互いに戒め合いながら、神妙な態度で…彼らの指示に従った。…何食わぬ顔をして手順通りに要領よく動き、検閲は無事に終った…。これで…青天白日の身を証明され、大手を振って日本本土を闊歩出来ることになる。…小倉の湊町を、これ見よがしにジープを疾駆させるアメリカ兵の…屈強な体格と端正な顔立を眺めていた私は…何故か俄に淋しさを感じて…悄然となった。過去を想えば…、歴史を誇る…あの中国の地で、好まざるとは云いながら、聖戦の呼び声に踊らされた日本兵として、軍閥権力の片棒を担ぎ、罪科のない住民を威圧し、幾多の悲劇を押し付けてきた所業が、果たして何処までが許される範囲内だったのだろうか。皮肉にも自由を与えられたこの日に…反省の懐いが湧いてくるとは因果なものである。…湖北、湖南の激戦で…奇しくも命永らえたとは云うものの、非道な行為で裏打ちされた独善的な生存には…幸運とは云い切れない…陰影がこびりついて離れない。現在…この街角に立っている身が「まぎれもない現実の自分なのだ」と意識すれば、矢張り無事に帰還したことを一途に喜ぶべきなのだろうが、あの当時の盲目的な従属心と、自分本位の欲望にき摺られていた悪辣な仕業は、今となれば…もう時効なんだろうか。「生きる為には仕方がなかったんだッ…、下手すりゃぁ、戦死か…戦病死していたかもしれねぇんだしッ、…食物がなけりゃぁ~戦争は出来ねぇんだよッ…」責任の全部を…あの軍閥権力に転嫁するのは身勝手過ぎるだろうが、今や…その軍隊も完全に崩壊し、生き残り兵の集団も解散直前なのである。…地区の「復員事務局出張所」で…所定の除隊手続きを完了した私達は…この日限りで…正式に「軍籍」が融解し…、民間人として「自由行動」が許されることになる。…「小倉駅」では…地方人達も混ざって、ごった返す雑踏に揉まれるうち…竹内少尉は気が動転したのか…顔を強ばらせて…「俺は鹿児島へ帰るから、此処で別れるよッ…」と、上擦った声を上げながら…、別のホームへ向かう人波にもぐり込んでしまった。それ以来、四十数年間、彼の連絡は途絶え、現在に至るも再会していない……。…関東者の三人は離れ放れにならぬよう、互いに声を掛け合いながら、指定された「東京行き」の列車に乗ったのだが、それはもう…五里霧中の歩みであった…。此処に到れば一刻でも早く、それぞれの故郷へ帰りたいと願うのは誰しも同じである。今から始まる旅路こそ、新しい人生の第一歩になるのだから、希望に夢を膨らませる復員兵たちは誰もが興奮気味で…、活気づいた顔には汗が滲んでいた…。…思えば…支那事変が勃発した昭和十二年前後の日本は…未だ国内の経済状態が貧弱で、一般下層階級の生活水準は低かったが、人々の人情は厚く、町内の有志や、職場の仲間同士は、ささやかな会費を積み立て、定期的に各地の名所古跡を訪ねる「友好会」を作り、…指折り数えて楽しい日々を待ち詫びる…暖かい友情に結ばれていたものだった…。…僅か数時間前に復員船から上陸したばかりの「小倉」は…その昔、私が読み耽った小説の中に登場していたような気もしたが…今は「物見遊山」の悠長な旅ではないのだから、詩情のかけらも湧いてこないし、のんびりと風景を眺める余裕など…ある訳がない。終戦から八ヵ月も経っている筈だったが、此処は…大勢のアメリカ兵や…旧日本軍の復員兵と、汚れた被服で食料買い出しに行く地元民の…背負い袋とモンペ姿が混濁しているだけで「平和」らしい風景は何処を見回しても見受けられない殺風景な「街」であった。
                              流浪奇談 敗戦篇  完

コメントは受け付けていません。