戦友・久保田朝久氏を偲ぶ

14.戦友・久保田朝久氏を偲ぶ
          一九九二年・八・一五  保科 博

 昭和十八年四月末頃…。中支・湖北省の沙荊地区に駐留していた「野戦重砲兵第十五聯隊・第二大隊」の警備地…「太山廟」に在って「二段・石渡隊」の…初年兵だった私は…始まったばかりの戦闘教練で汗を流していた…。…久保田朝久氏は第三中隊の所属で…私よりも十ヵ月先輩の兵士である。九月一日に私が一等兵に進級して…太山廟哨戒地の衛兵勤務に就くようになってから、久保田氏と「衛兵所」で顔を合わす間柄になったのだが、控え衛兵の待機中には…いつも小声で…東京の盛場で遊んだ話ばかりしていた。…「生きて帰れたら必ず連絡し合って…うまい酒を呑みにいこうぜッ…」と…東京出身の二人は…、自由のない軍隊を憾みつつ、いつ終わるのか見極めがつかない戦争を諦観しながらも見果てぬ夢を抱いていた。その十月になると「常徳作戦」の波紋が大きく広がり…、部隊根拠地の近辺に肉薄してくる…共産新四軍との小競り合いが絶え間なく発生し、掃討戦が繰り広げられた…。我が軍の損害も相当にあった筈だが、詳細は公表されないまま…紛争は十二月を頂点にやや平穏を取り戻し、迎えたのは昭和十九年の正月だったが…私達は疲れ切っていた…。五月まではさしたる事件も起こらず…「衛兵勤務」だけが私の楽しみであった。…第十一軍が全戦力を賭けて発動した「湘桂作戦」は古今未曽有の大動員と云われ…トセ部隊も五月半ばに全警備地を放棄して出動し…、凄絶な湖南戦線を進撃したのである…。血みどろな死線を掻い潜った十一月十日に「桂林」が陥落し…、五ヵ月後の…昭和二十年四月…。私が第三中隊に編入されたことで、二人は以前より緊密な関係となった。湘桂街道を徒歩行軍で転進…「漢口」から列車便乗…上海へ…。終戦後の「集中営舎」を経て四年越しの軍隊におさらばし、復員後にさ迷った東京・渋谷で、偶然久保田氏と再会したのだが、その頃私は厭世的な自暴自棄となり…安酒に溺れて…アル中同然だった。「変などぶろくなんか飲んでると目が潰れちゃうぞッ…」と彼が商売用の「純アルコール」を四合ビンに入れて私の手に渡し「無くなったらすぐに連絡してくれょッ、戦地で約束したのを忘れちゃぁ駄目だょッ…」と心配顔で、私に意見してくれた物語りも、戦後の物騒な世情を伝える貴重な想い出である。…音信不通の約四十年間があったが、それは…私が、貧困の喘ぎを堪えつつ…足掻き続けた腑甲斐な生活が長かったからで…。『あッ』と云う間に俗社会の年月が経過して…、六十歳を過ぎてしまった…。昭和六十三年九月四日…。箱根の水明荘で…トセ連合会総会が開催された時、幸運にも久保田氏と四十年振りの再会をしたのだが、老齢期に入った二人は…それから、年に一度の「トセ会」で旧交を暖め合うのを「楽しみ」に…文通などして…懐かしんでいた…。
 彼が身体の異状を訴えだしたのは昨年の秋も深まった頃だったらしいのだが…精密検査の結果、今年の春早々に溝の口の帝京病院に入院したが、すでに病状は重くなっていて、回復の見込みは望み薄だったのである。四月末の頃…『だいぶ良くなってきたから、五月の連休には「自宅療養」の許可がでる予定だから、安心してくれ…』と本人直々の電話が入った時は突然のことで、私はびっくりしてしまい、今までの「情報」とは全然違なる言葉だっただけに…怪訝な思いがして返答に困ったのは…未だ鮮明な記憶である…。平成四年六月十四日…。久保田朝久氏は…「肺癌」にて…永眠…。
                                 享年七十二歳

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