復  員

01.復  員
 昭和二十一年四月八日…。江蘇省「蘇州」の中国軍第七砲兵団に約六ヵ月の抑留約定期間が終了し…拘束を解除された竹内幹太郎少尉、北見四郎軍曹、橋本三郎上等兵と、この私が、夢にまで見た日本帰還を正式に許可され、未だ後に残る黒岩中尉以下十六人に見送られて「蘇州」を離れ、上海・ウースン第二埠頭から待望の復員船に乗り込んだ。その「船」は「LST」と称する米軍の敵前上陸用舟艇の搭載艦であり、乗船人員は三百名程であるが…、一般在留邦人等は…一人も混乗が許されていなかった。復員兵の大部分は華中方面の西部地域か、湖南地区の「長沙」近辺から、最近「上海」に引き揚げてきた前線部隊の将兵である。元支那派遣軍総司令部の「復員推進事務局」が、国民党政府軍の「日軍送還事務機関」と連絡を執り、中国奥地に駐留していた日本軍部隊を「復員」の優先順位の筆頭にして開始したもので、その時は…負傷、疾病等で帰還が遅れていた者も相当数含まれていた。前線からの長距離を、どんな経由で…此処へ到着したものやら、兵士らの顔には疲労の影が色濃く残っており、その軍服にしても半数以上が洗い晒しだったが、中には今日までの「苦労」を一見して物語るような見窄らしい風体の兵隊も見受けられるので、新品の軍装をしている者は「気兼ね」しているのが傍目にも明らかであった。まして…私達のように極上の装備をして…乗船間際まで、中国兵と親しそうにしていた者は尚更に目立たぬようにしなければならなかった。十七時…。センチメンタルな出船の「どら」が合図となり、振り捨てるような汽笛が大空を震わせたが、もの寂しい余韻を残して、アメリカ軍からの貸与だと云う…大鉄塊さながらの「LST艦」は…大勢の、うちひしがれし日本兵を…船腹いっぱいに詰め込んで、それが何回目になるのか内地帰還を目指した出航だが…声一つ聞こえない静けさである。…岸壁には見送り人らしい姿も見えないので「出船」の場面は素っ気なく、地元の小帆船もまばらな海面には…巨大な航跡だけが白いそぼろ紋を鏤めた長い帯を曳きずっていた。薄暗い港湾の遠景は…砕け散る小波諸共に…霞に遮られ、やがて視界から消えた…。行き着く先も…私たちでは…所詮知るよしもないのだが、今となれば…必ず日本の港に 向っているのは間違いないのだと…貴方任せにひたすら祈る心境であった…。…船内はドラム缶を細長く半切にしたような曲線の船底に、重なるようにして押し込められ、立錐の余地もない程の混雑ぶりだったが、私たちの居る場所は殊更に窮屈だった。乗船日数が三日程度のことでもあり、「船」を操舵する日本人の船長が…全体を統括する全責任者だが、食事以外のことでは…航海法に基ずく規則違反でもない限り…、特別な指図をしなかったが、これは…関与する余裕がないと言った方が正確かも知れない。三日目の朝が来たとき…、遠い水平線の彼方に、待ち焦がれた祖国の山々が、波間に浮かんで見えたのを甲板に居た誰かが発見した。「おぉいッ、にっぽんだあぁッ、日本についたぞぅッ……」兵隊達は連日の運動不足の重い身体で…飛び上がって喜びを伝達し合っていた。船内の各所で日本人独特の「手締め」が鳴り響いた。その劇的な情景も何処へやら、船腹内の一隅に居た病弱兵らの一人が、嬉しさに興奮し過ぎたのか、或いは感極まったのか、突然…身体に変調を来して昏倒したようだった。こともあろうに、それが危篤状態にまで急変した挙げ句…、悲運にも絶命したらしく、その兵隊を囲む戦友らの叫び声が船内の騒めきを縫って…切れぎれ伝わってきた。「おぉいッ……なんで死ぬんだよぅ~……」亡骸にすがって男泣きする…悲痛な声に誘われて…もらい泣きの涙を拭う者達に…この世の無情を冷たく思い知らせていた。………………。形ばかりの検死が終わったが、規則通りの「検疫」が始まり、これが執拗に長引いた。そして「伝染病」の疑いが晴れるまで、二日間も沖合に碇泊させられたのである。「いつになったらッ、上陸許可になるんだろう…?……」…待ち侘びた下船は『今日の午後一番』だと発表されるや復員兵は一斉に喚声を挙げた。………………。船が岸壁に横付けされると、装具を背にした彼らは一様に緊張の面持ちで立ち上がったが…、やがて…船員の指示に従ってぞろぞろと歩きだし、細長い急勾配の仮設桟橋を恐々と伝わりながら…、漸次上陸を果たしたのである…。其処は北九州の「小倉港」で、新緑の匂いがたなびく天空には鯉のぼりが泳いでいた。………………。一九四六年四月十二日、この日の午後が…、私には記念すべき日となった。…小倉地区には、アメリカ第十軍の第二海兵師団、第五分遣隊が駐留していた。埠頭には汐焼けして、いかにも精悍そうな赤ら顔の兵士が整列しており、素っ頓狂な高っ調子の大声で何やら私達に叫んでいるのだが、意味が通じる筈もなかった。彼らは、日本兵が危険物を携帯していないかと、検閲するのが目的なのである。役目を利用して、物品や紙幣を不法に押収する者がいると云う噂話を…、沖合に停泊中に聞いていた私達は対策を練ってはみたものの、詳細の事情が掴み切れなかった。「此処でぇッ、下手に逆らってぇ…奴らを怒らしちゃぁ、危ねぇぞぉッ……」「そうですねぇッ、こんな所でとっつかれたんじゃあッ、たまらんしッ、云う通りにした方が無難かもしれんですッ……、」やっとの思いで…日本の土を踏んだばかりだし、私達は互いに戒め合いながら…、神妙な顔で…素直に彼らの指示に従い、手順通り要領よろしく動き回って、携帯品の検閲と、「しらみ」駆除の『D,D,T』の噴射も無事に終了した。…………………。青天白日を証明された身であれば…大手を振って本土を闊歩できるのだと、急ぎ足で…小倉の湊町に出てみると、其処には道路狭しとジープを疾駆させているアメリカ兵達の、屈強な体格と端正な顔立ちが街に溢れていた。…中国に居た過去の私達も、悠久の歴史を誇る各地の貴重な古跡も無視して、好まざるとは言いながら…「聖戦」の美名に踊らされた日本兵として、軍閥の片棒を担いだのも同様に行く先々の名所旧跡を蹂躙して、罪科のない住民を泣かせ、幾多の犠牲を強制した…あの進撃が、果たして…何処までが許される範囲内だったのであろうか…。今…自由を与えられたこの日になって、反省の想いを抱くとは皮肉なものである。…………………。かの…湖南戦線では、奇しくも命永らえたが…非道な所業の数々に裏打ちされた独善的な生存では…ひとくちに幸運だったと言い切れない陰影が瞼にこびり付いて離れない。現在こうして…無事に復員したことを無条件で喜んでもいい筈だと思う反面に…あの当時の盲目的な低級な服従心や、動物的な浅はかな欲望に引き摺られた悪辣な仕業も…復員と同時に時効となって消滅したのだと心得ていいのだろうか…。「生きる為には仕方がなかったんだッ…」と、責任の全部をかつての軍閥の権力者に転嫁するのは卑怯者かもしれないが、その軍隊も既に壊滅したのでは何の回答にも弁解にもならず…、折角…此処まで辿り着いたのだから、どうしても罪を逃れたい一心で、私は…自己弁護の方法ばかりあれこれ懐いを巡らして辺りを見ていると、見るものの全部が懐疑的になって、颯爽と歩いているアメリカ兵達の華やかな挙動の裏にも、その過去には窺い知れぬ黒い影が存在しているような気がしてならなかった…。…………………。帰還兵達は小倉地区の「復員事務局」の港湾出張所で所定の除隊手続きを済ませると、この日限りで…晴れて民間人として自由行動が許されるのである。…………………。「鹿児島」出身者の竹内少尉を「別ホーム」まで同道して見送った私達三人は、馴れない土地の混雑で離れ放れにならぬように声を掛け合いながら「東京行き」の指定時間迄に列車に乗り込むべく、気もそぞろの思いで進行標識を睨んで歩いたが…大勢の「復員兵」を掻き分けつつ前に出ようとしても揉み合いが激しく…五里霧中の動きであった。一刻でも早く「故郷」へ帰りたいのは誰しもが同じ思いなのだから、この人生の新しい節目になる…今日からの旅路への第一歩は…期待と希望を膨らませたが、もう…どの団体にも拘束されない行動は久しぶりだったから、私達は奇妙な戸惑いを感じていた。………………。車内では…栄養失調気味の病弱者を座席の優先にするよう声を掛けると、異議を唱える者はなく、同調者に「礼」を言いながら彼らは洩れなく席に着いたが、一両だけの「復員兵」専用車では可成の人数が通路に尻を下ろさなければならなかった。「歩くよりはッ、まあぁーこれでも…楽なもんだよッ……」私達は身体も丈夫だし、特別に疲労している訳でもないので、乗ってさえいれば…東京へ運んで貰えるのだから、苦労の程も知れたもんだと思っていた。この…、各駅停車の列車は…次の駅に入ると、ごく当たり前のように民間人が若干乗り込んできたのだが、復員兵達はホームの物凄い人波を察して「しかたがなかろう……」と親切に「床」を詰めて場所を明け渡して、彼らの乗車を容認したのである。その次の駅に着くと…降りる人より、新たに乗る人の方が多いので、次第に身動きが不自由なまでに混雑してきた。…後から乗り込んできた民間人の「担ぎ屋」とか称する男達は、旅馴れしており、この連中は乱暴にも…通路に腰を下ろしている歳老いた人達を踏み付けて歩き出した…。「こいつらぁッ、座ったらァ場所ぉッ、取るから立ってろょッ、…」…我がもの顔で息巻く男の不精髭と、車内を牛耳っている自惚れた横柄さが憎々しい。食料の買い出し風景にも不文律の力関係が働いて、弱い者は常に虐げられているのだろうが…「敗戦」になっても…変わらぬのは日本人の悪習である。「おいッ、復員兵ッ、お前ぇたちゃ(ロハ)で乗ってんだろッ、敗残兵の分際で生意気 じゃあねぇかぃッ、俺たちはちゃんと切符買ってるんだッ、席を代わって貰おうぜッ」「おうッ、そうだともッ、おぃッ、おめぇたちゃどけぃッ、…」一目で病弱者と識別できる顔色を選んで、からかい半分に本音が交ざる雑言で、相手を罵倒して…無法な追い立てを迫ろうとしている…。浅ましい…その態度は、私達がかつての中国各地を蹂躙した地獄の戦闘で、背徳行為を繰り返していた当時とは全く別な意味合いの、卑劣な行為に他ならない…。「何だとぉッ、この野郎ッ、何が敗残兵だッ、…」そいつらの後から、いきなり北見軍曹が大喝一声…浴びせかけた。振り向いた男の目に映ったのは、日焼けした大男の復員兵三人が睨んでいる姿だった。 「おぉッ、敗残兵がどんなものだか見せてやろうかッ、なぁッ、返事をしろぃッ…」…血にまみれた野戦を…長年駈け回った経験が、物凄い威圧感となって相手を圧倒する。「てめいら木っ葉野郎にッ、なめられて黙っていられるかぃッ…」如何にも強そうな橋本上等兵が身を乗り出すと…他の復員兵たちも声を揚げた…。「そうだぁッ、やれっ、やれっ、とんでもねぇッー野郎だッ…」大勢の復員兵から反撃された男どもは、予想もしない事態に狼狽え出した…。「いやぁッ、冗談、冗談だょッ、本気じゃぁッ、ねぇったらッ…」流石に「担ぎ屋」連中は、乗客の手前もあり、素直には謝らなかったが、怖じ気づいた物腰で口ごもりながら、その場を離れて、車内の隅に小さくなった。危うく大乱闘になる場面を無事に躱したことで、辺り一面には安堵の吐息が流れた。…食料不足で苛立つ民衆は法治国家の統制に正面から反抗し、鎬を削って生きる手管が、弱肉強食思想となり、食物を実力で調達するのは当然の権利のように動いたのも、敗戦日本の疲弊した経済行政の実態を暴露する…悲惨な「社会」を象徴する縮図であった…。「関門トンネル」を過ぎると、列車は超満員で…もう「床」にも座れず、身体を揉み合い、肩を摺りつけて…立ち通している乗客は…苦痛に顔を歪めていた…。喘ぐように走る列車は…山陽本線を東へ向かったが、小倉を発ってから、既に半日近くも経っており…「大竹駅」に停車すると、大勢の乗客が下車し、車内に余裕が生じた。復員事務局で支給された五百円の「新円」を懐中にして……、食物を探していると…。…「饅頭ッ、まんじゅうーはいらんかねぇー…」私は「紙幣」を握りしめ、窓から物売りの女を呼んだ…。…「おぉぃッ、まんじゅう幾らだぃッ」 「一個五円ッ……」貨幣価値の判断力が乏しい私は、どうにも他に例える例を知らない…。…僅かに、あの「上海」の市街で…終戦間際の「儲備券」(軍発行円)の価値が暴落した出鱈目経済の、インフレ状態を経験した程度だし、該当知識が貧弱すぎるのである。私は…黙って…その饅頭を十個買った。だが…折角の「まんじゅう」を頬張っても口の中がざらつくだけで、なんの味もなく、とても真ともに咽喉を通っていきそうもない。 いくら腹が減ったとて、到底、普通の人間が食べる代物とは思われないのである。「うへぇッ、こりゃぁなんだいッ、……」周りの者に聞いてみると「麦のふすま」を加工したものだと教えられて、三人は大笑いしながらも、他に食う物がないので…仕方なく、目を白黒しながら腹に収めた…。「江湾地区」の特別収容所時代でも、これ程粗末な食物を口にしたことは無い。…あの湖南の「衡陽」攻略戦の頃でさえ経験しなかった粗食の最たる「ふすままんじゅう」に仰天するのは、私たちがやっぱり「殿様部隊」の一員だったからなのか…。「敗戦国ってぇのはッ、えれぇぃッ、惨めなもんだなぁッー…」乱世日本の…食料不足のとばっちりを浴びて驚嘆しても、四人は未だ他人事のような気がしていたのだが…、それも次第に口数が減り、やがて…黙りこくってしまった…。…随分と…時間が経って「大阪駅」に列車が入った。此処で二時間程度の停車だと告げられた私たちは、腹ごしらえを思い立ったが、混雑状態が異常なので、車内泥棒を警戒して二人一組で装具監視をし…「一人が食事をしたら交替しよう、油断は禁物だッ…」と意見が一致した。…順番が巡ってきた私は、一目散に歩いて駅前の青空市場を物色した。…初めて見る「大阪」の街は人の波が騒めいて…なんとなく慌ただしい動きであった。二重に並んだ雑多な露店の列が…客を集め、逞しい賑わいで沸きかえっている…。私は雑炊売りの店で…丼にかぶりついた…。…薄い塩味だったが腹に沁み徹る。忽ち食い終えたが、一杯しか売ってくれない。別の店で雑炊の「はしご喰い」をしたが、私は…は満腹になれなくとも…堪えていた。…我慢をした理由は…懐中の現金と、明日からの生活を考えたからなのである。大阪は勿論だが、此処まで来る途中の「広島」にしろ、主要駅前の街並みの殆どが「焼け野が原」だったのを見た私は、暗澹とした気持ちになっていた…。「東京は(アメ公)の猛爆撃で、全滅になった……」「昨日…東京から戻ってきたんだけれど、そりゃぁ凄い被害だったょッ…」「終戦から十ヵ月近いんだが、復興の見込みは未だ先の話だなぁッ…」乗客の世間話から察すると東京の荒廃は大分ひどいようなのである。…私は自分の目で確認するまでは、現金の消費を控えたほうがよさそうだと思った。「おいッ、保科じゃぁーないかッ?…」ぼんやりしていた処を背後から軽く肩を叩かれて私が振り向くと…。…其処に立っていたいた男は「トセ部隊」の第二大隊本部にいた服部上等兵だった。部隊の縫工班が製作した、私たちと同型のリュック(背負い袋)を、今だに身につけた彼は、私とは同年兵だが、既に…復員していたのである…。「やぁッ、服部かぁッ、久しぶりだったなぁー、大阪の景気はどうなんだぃッ…」「お前こそッ、こんな所で何してるんだぁッ……」「俺たちゃぁッ、四人だけで…昨日ッ、九州の小倉に復員したばかりなんだょッ…」…彼とはかれこれ八ヵ月ぶりの再会だから…、懐かしさ一入の思いであった。「…もう軍隊とはおさらばだなぁッ…でぇッ…服部わァ~いま…どうなんだァッ…」「……」彼は何かに怯えているみたいで、絶えず周囲を気にしていて…落ち着かない。「なぁッ~保科ッ、俺…急ぎの用事があってぇ~ゆっくりしている暇がないんだょッ、それにさッ、また会う日もあるんだからぁッ、元気で暮らしてくれよなぁッ…」そう言いながらも彼は歩き始め「えぇッ…」と声を出す間もなく雑踏に潜り込んだ。…私には全くの意味不明の瞬間的なことで、ただ呆気にとられて後ろ姿を見送っていた。彼が…大阪の文芸劇団の俳優だったと知ったのは広西地区の、例の「赤蘭村」だった。「桂林」から後退してきた彼が一週間程「荒張班」に泊まったときの思い出である。「保科の同年兵なら同室がいいだろう……」と班長に指名されて…引き受けた給与一式だったけれど、彼はひどく身体が衰弱しており、二三日は声もやっとで…私が特別に算段した食物を食べさせたのが功を奏してか次第に元気を取り戻した。彼が「全県」の本隊に帰る前夜、いつものように布団を並べて横になった時に……。…「保科は~演劇に興味なんかぁッ、あるかいッ…」真っ暗闇の部屋の中で…彼が突然、話し掛けてきた。「あぁ~大好きなんだょッ…たしか入隊の少し前に「明治座」の新派公演で「滝の白糸」を見たのが最後だったかなぁッ~」「あれは水谷八重子だからぁ~よかったろうなぁ~」暗闇の語らいだから顔は見えないが、彼の生き生きとした声音に私は不振を抱いた。「もしかしてぇッ、服部は演劇関係の人だったのかいッ…」「うんッ、恥ずかしいんだが…三流の役者だったょッ…」…その時初めて彼が「大阪」の文芸劇団に所属していたことを打ち明けられたのである。お世話になったお礼代わりだと言いながら…「ラジオ小説」風に菊地寛原作の戯曲「藤十郎の恋」の(お梶と坂田藤十郎)の愛欲場面の台詞を情感こめて語り始めた。「………………………」彼の声は低かったけれど、発声法は素人では及びもつかない抑揚で、巧みなその調子は…際どい場面が忽然と浮かび出てきたような錯覚をする程上手なものであった。同室にいる者が誰も苦情を言わなかったのは…うっとり聞き惚れていたからで、芝居の所作をしらなくても、真に迫る男女の「濡れ場」を…恐らく想像していたに違いない。遣る瀬ない情景を茶化さずに語る口調には沁々とした浮き世の機微が滲んでいた。…翌朝…。彼は、ぼろぼろになった分厚い「菊地寛戯曲集」を見せて、昨夜の真実実を私に強調したが、無言で油紙に包み直すと雑のうへ大事そうにしまい込んだ。服部は…。兵隊には不向きな男だったが、芸一筋に情熱を注ぎ尽くすタイプで、寸暇を惜しまずに読み耽ったらしい彼の「戯曲集」が私の脳裏にこびり付いている。…この大阪で…偶然の再会にも拘らず、ろくに話もしないとは…よほど混み入った事情があって姿を隠したものだろうが、不可解な別れ方が私にはどうしても理解できなかった。…それっきり、服部とは…その後、再会の機会は訪れていない。…………………。私は駅に戻り、車内の二人に装具監視を労いながら…先程の出来事を告げた。「地元者だろうッ、何か振る舞わなけりゃぁ不味いんでッ、とんずらしたのさッ…」「日本が敗けてぇー、世の中がひっくり返りゃぁッ、戦友だからって…そっぽを向く奴がいても…不思議じゃぁないさッ…」「どう変わるんだか分からない日本だものッ、みんな不安で、何もかも信用出来ないのが本当かもしれねぇしッ、どっち道、古い道義は通用しなくなったのさッ…」…極端な食料不足が人の心を刺々しくし…潤いを忘れさせてしまったのだと言う…。これは…短兵急に解決出来ない問題で、アメリカ軍政下にある日本の行政機関が一人歩きが出来るまでには、屈折が多過ぎて難しい。日本中の主要都市が殆ど壊滅同様の状態では、自立能力を回復するまでに相当な年月が必要であろうことは私にも頷けた…。…「命」は自分自身で守らなければならない。…他人に依存しても飢えの苦しみから脱却する道に到達するのは容易ではない…。混沌とした世相を生きぬいていくからには確固たる信念を持ち、臨機応変の世渡り法を会得しなければ…とても生存競争に打ち勝つことなど不可能なのである。然し、その頃の私が、戦後の経済状態を的確に掴み、的を得た思考能力を備えていたと仮定しても、その後の人生が…一挙に好転するほど単純な時世ではなかったろう…。何せ、私の稚拙な人間関係や社会を見る既成概念は相当に低級だったのは事実である。…若い私の願望は短絡的であり、停車中の列車が直ぐにも発車して…早く「東京」へ到着することだけで、深い思索を搾り出す下地が皆無に近かったのである…。…やがて……悲鳴のような汽笛が響き、列車は走り出した。…足の踏み場も自由にならない混雑状態の列車は、鈍重な連続音を軋ませて東へと進む。ゆっくりしたリズミカルな車輪の回転音が単調だから…私たちの緊張感は和らいだ。…疲労が睡魔を誘い、夢遊病者さながらに朦朧として刻を忘れさせた…。気を執り直して車外の景色を見ると、既に「名古屋駅」も通過したようだった。…左手の窓枠の中に小さく見えてきた富士山に気がついた私は、無言で凝視していたが、紛れもなく…祖国日本の地を疾駆している満足感が瞼を潤ませ…滴り落ちた。午後…。漸く「横浜駅」に入ると三人は、空元気を出して励まし合った。「よくも此処まで頑張ったもんだなぁッ…辛抱もッ、そろそろ終わりだぜぇッ…」…「六郷」の鉄橋を渡れば、もう其処は東京である…。小倉駅を出てから二日余り、満員列車で立ち尽くめの道中を、堪え通したのである…。そして…。…私には幾多の思い出がある「品川駅」に到着した。丁度三年一ヵ月ぶりの品川駅は、噂に聞いたほど破壊の痕跡は見当たらず、歩道橋も昔の侭で、私に執っては無性に懐かしい郷愁を蘇らせる風景だった。…三人は、此処で一旦列車を下りることにした…。「千葉方面」へ向かう北見軍曹と「板橋方向」へ行く橋本上等兵に…「五反田」出身の私は…別れを告げる堅い握手を交わしたのだが、三人共…感無量の興奮状態だった…。「お互いに落ち着いたらぁッ、連絡をしようッ……」「…はいッ、きっとですよッ……、……」…だが…それから四十数年の現在に至っても何故か再会する舞台がない……。その訣別の場面は恐らく劇的だったのだろうが、その後の私の人生には常識を逸脱するような事柄が連続したものだから、…その記憶も次第に曖昧となり、遠退いた…。

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