社会復帰

02.社会復帰
 一人になると…名実共に娑婆に舞い戻ってきた実感がして、疲労なんか吹き飛んだ。…重い背中の荷物も気にしない足取りで…「五反田行き」のホームへ移るのも…まだるっこい思いと同時に…忽然と両親の顔が…クローズアップして…思い出が駆け回った…。…だが…。戻ってきた私を歓声あげて迎えて呉れる人は見当らず、家さえも失っていた。…出征以前の十六年間を、実子同様に慈愛の養育をしてくれた老いし養父母は、病没したらしいとのことで…、その生前の事情も詳細は不明であった…。「西大崎」の安養院裏の我が家は、二○年三月の大空襲で全焼し、一握りの灰だった。…付近を隈無く探し歩いて、焼けトタンのバラック小屋に居た義弟親子を探し当てたが…養父は二年前に亡くなり、養母は…私が帰還する二ヵ月前に息を引き取ったと云われた。無謀な戦争に狩り出だされた一市民が欝憤をぶつけようにも、その「対象」は戦犯として権力の座から引きずり降ろされて国際裁判の壇上に立たされているのだと教えられた。戦場で…生死の境界を彷徨している間に、自分の家族が、戦争の犠牲になっていた…。…救われない悲劇の全てが…「湘桂作戦」の前後の頃から起こっていたことになる…。その夜は実兄嫁の実家で…帰還の第一夜を微睡んだが…、暗い気分の朝を迎えた…。…上目黒の「実父」の家に当座の住まいを許されたものの、幼年時代の頼りない記憶だけの、長い十九年間のブランクが障壁となり、日常生活は…ぎごちなさが避けられない。…北品川の妙光寺の墓前に焼香した私は、茫然として身の振り方を考えあぐんでいた。社会復帰をするのにも私は自立心が薄く、何をしてよいやらとつおいつの毎日で、決断力もなく、生活費の工面をするでもない腑甲斐無い男であった…。…養母が苦心して残してくれた私名義の三千円程の貯金通帳を実父から受け取ったが、マラリア病が再発して苦しんだことが自暴自棄の始まりで、粕とり焼酎の「がぶ呑み」や…怠惰な放浪をした為、五ヵ月足らずで使い果たした後は無為に日を送るだけだった。…三人の実兄弟は、合い前後して戦地から復員したが、それぞれ敗戦の痛手にもめげず、荒廃した世相にも押し潰されず…、雄々しく立ち向かう…逞しい生活力を持っていた。…私は気力の萎えた脱け殻同然の疎ましい生き方で、幼な友達にたかって、相変わらず…粕とり焼酎などを食らい…遊び呆けていたが、その人たちは定めし迷惑であったろう…。一億の民が必死に生きるご時世に反逆する「ダニ」的な存在だから、何処へ行っても嫌われるのは当然だが、大勢の人たちを困惑させたことは現在でも悔恨の念が残っている。そんな阿呆暮らしが長続きする筈もないから、やがては実家にも居ずらくなり、私は追われるまでもなく…家を出る結末を…自ら招いたのである…。…この時期に…予ねてから連絡のあった、あのトセ部隊では因縁浅からぬ鳥居政夫氏との交流が、再燃する機会を与えられたことが私の…その後の人生を変えたのだった。世の中に頼る相手を他に持たない私が、鳥居氏に将来的な相談事を持ち込んだのは他力本願の…放埒的な思考からだったが、勿論それは…自覚していなかった。鳥居氏は当時、美術印刷会社の社長として工場経営をしていたが、駈け込んで行った私の一方的な自己本位のこぼし話など、笑いながら聞き流しているだけだった。「生まれ変わった積もりで働く気がありますかねぇッ……」くどくどと泣き言を並べる私を無下に見捨てることも出来ないと思ったのか……。「どうですかぁッ、住み込みで…私んところの仕事をしてみませんかねッ…」折角の鳥居氏の親切心なのだろうけれども、私は即答が出来なかった。…二十六才になると云う自分が、丁稚小僧扱いで働く姿を思い浮かべたからなのである。…「まあぁッ、とにかく細かい事は別にしてッ、取り敢えず引っ越して来なさいょッ…」私は…、古参兵の言葉に従う下年次兵の要領で「姿勢よろしく」聞いていた…。「はいッ、そうしますッ…」元気よく答えたものの、深い決意があった訳ではない…。………………。一九四七年(昭22)十月…。ふらふらっと住み込んだ私の徒弟修業が始まったが…その毎日は、復員以来初めての…厳しい重労働の連続だった。リヤカーで印刷用紙を大量に運搬したり、自転車で…二十km範囲内の配達や雑用で駆け回るなど、次から次へと用事が待っていると云う具合で、情け容赦もなかった。「こんなにこき使われたんじゃぁッ、磨り切れちゃうょッ…」…余りの激しさに堪りかねて、年若い同僚に愚痴っているのを鳥居社長に聞かれて了い、「保科君、厭ならぁッ、会社を辞めたっていいんですょッ…」ぴしゃりと云い渡されて吃驚した私は…そっと鳥居社長の顔色を窺った…。「軍隊時代の延長じゃぁないんですからねッ、君は何の経験もない、ズブの素人なんだからッ、印刷業の基礎を修業するのが厭ならば退社るしか…ないでしょうねッ…」私には…その一言がぐさりと胸に突き刺さった。修業なしでは…どんな技能も身に就かぬくらい、私でもよく分かる法則だった…。…復員から今日迄の…経緯一切を白紙に戻して、出直す覚悟で…鳥居社長に従ってきた筈だったのが、三ヵ月を経過した頃になって、頭ごなしに突き放された私は、この時…漸く自分の考え方が…杜撰だったことに気付いたのだが、然し…、一朝一夕で身に就く訳もなく…人生修業の…大切な「定石」を思い知らされたのである。…鳥居氏の…口喧しさは尋常ではなく、社会生活のルールも併せて、銀行法と金額計算法や、簿記の講義に実技等…多忙な業務の合間にも休むことなく、繰り返えされた。…この勉強は…それから三年程続いたのである…。………………。…一九五一年(昭26)…。私が、『株式会社鳥居大錦堂』を去って…、鳥居氏と別行動をとらざるを得なくなった寓発的な事件が起こった…。原因は、資金繰りに失敗した鳥居社長が「不渡り手形」を出したことから始まる。…その時の私は、既に妻帯していて二児の親になる直前だったが、せち辛い社会を生き抜いていくには未だ「ひ弱」な青瓢箪で…、世間に出てみると一人前では通用しなかった。何回も職場を変えたが、その都度放縦な性格が災いして何時もしっぺ返しの痛手を蒙り…自信喪失の嘆きを、女房子供に向ける影弁慶の戯言で…その場を誤魔化していた。焦れば焦る程、自縄自縛の状態で、コップ酒を呷って現実の苦しさを逃避していたが、…そんな…逃げ腰の処世術が通用しないのは当然だった…。然し…六年間の懊悩の果てに…家族を養う義務に目覚め…、時機を掴んだ私の根性は逞しく変貌したのである。一九五八年(昭33)…。日本経済の復興度は予想以上に進捗していた…。…国内全土は…さながら沸騰する火山の溶岩噴出のように…景気は上昇し、今だかつてない「高度経済成長」の時代が到来して…国民の生活指数は急速な伸び率を示した…。…怒涛のような足並みで、押し寄せる高級指向に反応し、貿易商社は全世界に飛躍し…家電機器メーカーは「新製品発表」で、人々の購買意欲を煽り立て消費数値を上げた。小規模の中小企業より、組織力に勝る「大手企業」の業績が、日本経済の「浮沈」を把握して…「巨大経営主義」の力量を発揮し、新時代を支配するようになった…。業界の好調に伴い、本社ビルの新築や工場の増設が主要都市の周辺に集中した。…必然的に建設総合請負業社の施工受注量は増大し、熾烈な競争となり、業者間の順位争いも激しくなり…人手不足に一層の拍車をかける状況が展開された…。私は復員以来、零細工場を渡り歩いて…苦労のどん底を知りぬいて来たので、日本経済の動脈を左右させるとも云うべき、有力な大会社の職場で、思う存分に働けたならば…、どれほど人生に張り合いがあることだろう…と常々考えていた。その願望が、偶然のことから叶えられるようになったのは…意外な一件からであった。…再就職運動中の昭和三十五年七月末、苦し紛れに選んで応募したのが建設業で、斯界の最先端を行く「清水建設株式会社」だったが…「臨時社員入社試験場」で…元「近衛野砲聯隊」の将校出身の「本城正八郎」氏に巡り合ったことが、私の後半の人生を再び変えた。「昔、世田谷三宿の隣合った聯隊で…、同じ駒沢練兵場で汗を流した間柄……」…受験した私に、そんな言葉を投げ掛けてくれた審査試問係の彼が…大勢の応募者の中から、若年者ばかりの合格者に混ぜて、何故か高年齢の私を採用してくれたのである。その日から…私は建設業務のノーハウ「研鑽」に没頭することになる…。…瞬く間に…数年が急流のように経過して…いつしか…私の社会観は大幅に変化した。…多くの傑出した人物と交遊を累ねられる幸運の業績に身を任せながら、主として地方都市の興隆と発展に尽力出来る自分に…誇りを持つようになった。建築建屋の着工から竣工までの煩雑の期間を…幾度も手懸けて…各地の建設現場を移動したが…、……気がついてみると…既に三十年近い歳月が過ぎ去って了った…。一九八五年(昭60)三月末…。「清水建設」を退職したのが六十三才の時である…。…出世の出来る境遇ではなかったが…、建設現場では…請負金十億円単位の「事務長」職を努めて、経営の「妙味と苦悩」を心ゆくまで満喫できる身分であった…。…三十九年前に「復員」した時は、兵士の経験以外には何も知らない半端な男だったが…二転、三転して…生きる道を知ってから、ブルドーザーのように労働したが、その道程には荒野や豪雨もあって…苦心惨憺しながらも、私はひたすらに驀進し続けた。振り返って見れば、いつしか…自分自身の過去を…納得するだけの鷹揚さが育っており…この人生に…それなりの自信を持つまでになっていた…。…江湾収容所や蘇州の中国軍兵舎で、共に日を送った戦友とは…その後再会する機会も訪れない四十年間だったが、あまりにも波乱が多過ぎて、追憶に耽る時間の余裕もなく、繁忙業務に…追い捲くられて年老いたが、漸く…現役時代に終止符を打ったのである。「よくも…勤まったもんだなぁッ…………」…私は、我武者羅に突進し続けた自分自身を自画自賛する小さな拍手をしていた…。

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