鳥居政夫氏

04.鳥居政夫氏
  その…五月九日…。「トセ三会」の当日は願ってもない五月晴れで、初夏の陽射しが心地よく、微風が青葉に注ぐ絶好の旅行日和りであった…。私は…朝も早々と旅装を整えて、「水戸」を出発した。…中央本線始発の新宿駅のホームに着いたのは午前十一時少し前で「松本行き」の普通列車は連休明けのことも幸いしたのか、土曜日だと云うのに車内はガラ空き状態だった。「こりゃあぁッ、今日はゆったりした気分で『石和温泉行き』が出来そうだなぁッ…」…そう思いながら、前の座席に両足を伸ばし、一息吸い込んで両腕を大きく広げた。私は冷房車の涼風を一人占めしているようで…得意になっていた…。…四十年の間を「血みどろ」の生存競争に夢中だった過去を振り返ると、このように気楽な一人旅をしたのは初めての体験なのである…。誰にも迷惑をかけないで、気ままに自由を満喫した歓びを噛みしめる充足感である…。…座席の下に揃えて脱いだ「靴」も、ニンマリと今日の同行を歓んでいるに相違ないと、身勝手な私は…一人合点でうなずいていた。昨年七月末に…。六十八才で惜しくも…病死なされた恩師…鳥居政夫氏の「百か日」の法要で「故人の供養になりますので…どうぞ、お受け取りください…」と御令閨から特別に『形見分け』として頂戴したその靴が、今にも語りかけてくるように思えてならない。彼の奔放な気性と、波乱に満ちた数奇な一生涯を、他の誰よりもよく知る私にとって、半世紀に及ぶ関わり合いの深さを偲ぶと、その時、その場の貴重な出来事が…そのまま、回想記の主要項目として綴られることを自慢したかった。私が…鳥居政夫氏氏と最初に出会ったのは「灰色の青春時代」とも云うべきあの「中支戦線」の後半期…。日本軍が大奮闘していた…一九四三年(昭一八)の四月末である…。…中国湖北省の襄西部『沙荊地区』には「三国志」以来の古都「当陽」の街がある。その近郊の「金沙舗」と云う村落に駐留していた「独立野戦重砲兵第十五聯隊」(トセ部隊)の初年兵として入隊した私は…第二大隊所属の戦時編成の段列隊であった。其処は…、隣接地区の「太山廟」のバラック建ての「自動車隊」兵舎で、新兵たちは…昼夜を分かたぬ激しい教練に汗を流し、歯を食い縛って…きつい毎日を堪えていた…。…その後に発生する幾多の事件や、様々な逸話も…総て此処が最初の発祥地であり、後年書いた…この回想録を何回読み返しても…どこの頁を捲っても鮮烈な思い出は尽きない。…「太平洋戦争」勃発後約一年半、政治経済は軍事色一筋に塗り潰されていた頃である。東北六県、関東一府六県に新潟、長野、山梨を加えた四箇師管区、八聯隊区の徴兵区域から編成されていた「トセ部隊」で、特に数少ない「東京出身者」の鳥居氏と私は、同じ第四分隊で藁布団の寝台を隣に並べ合った「戦友関係」と云う奇縁で…親密になるのだが…その頃の彼は…気難しい兵隊だったが、ざっくばらんな一面を秘めた人でもあった。…二人は同郷のよしみとばかりに早速互いの身の上話を語り合う間柄になった…。鳥居氏は前年の八月末…「トセ部隊」に入隊した転属兵で、その原隊は東京近衛師団管轄下の世田谷三宿の「野戦重砲兵第八聯隊」である。…一九四一年(昭一六)四月の応召兵で、日本の西太平洋方面奇襲作戦要員として三ヵ月の軍事訓練後、関東軍特別大演習と称した動員下令で部隊は北満に派遣され、その後…南満州を経て、台湾に集結、十二月八日の大東亜戦争(当初)開戦と同時にヒリッピン作戦の…第十四軍麾下の進攻部隊の一員として、マニラを攻略、第一、第二次バタァン攻撃戦で勲功を挙げた後、昭和十七年七月に復員し…原隊に帰還した誉れ高き勇士であった。…その当時の日本帝国は西太平洋方面の「米、英両国」の拠点に先制奇襲を敢行して、大本営の…「陸海軍報道部」は…連戦連勝の戦果を誇大発表をして気勢を上げ…、国民の抗戦意欲の高揚を図り、大それた戦争の拡大に躍起となっていたのである。…戦略最大の要旨は…部隊の進攻目的地を隠蔽し、戦闘間に生じた非人道的な暴虐事件等の事実をも「聖戦」の美名で統括し、銃後国民の「必至の覚悟」を揺るがせまいとする…「謀略と諜報」で…機密情報取り締りを重点にした作為の報道が内外に流されていた…。作戦途上の部隊は一時帰国の帰還兵にも厳重な「箝口令」を強いて外出禁止を通達し、満足な休養も与えず、家族の面会も制限するなど…徹底的な統制を加えた…。大本営…作戦参謀班の首魁は…功名心に逸る戦争遂行を一気に煽り立てていた。…冷徹な「戦略棋譜」は、国家存亡の危機を宣伝し、忠誠を誓う従順な将兵たちを無謀な戦争に引き摺り込み、臆面もなく超時代遅れの劣悪な兵器装備で、部隊編成を組んだ。厚顔無恥な非情の戦略構想は「死を鴻毛の軽き」に例え、精神主義的戦術を推奨する愚劣な作戦に大部隊を捲き込み、手際の悪さを悟られぬよう…常に焦点を曖昧にして真実の情報を湮滅し、歴史の証人たるべき将兵を分散させることを憚らなかったのである……「バタァン半島」で戦功のあった「独立野戦重砲兵第八聯隊」の帰還兵の中には発病したマラリア病の治療で内地に送還された鳥居氏を始め若干の兵士たちは病状が静まっても召集解除になるどころか、半病人も含めた全員が「野重八」の「関連部隊」に急遽転属させられると云う噂が兵営中に広まった…。一九四二年(昭一七)八月下旬…中国湖北省の襄西部、沙荊地区「当陽」近郊に駐留中の「トセ部隊」へ、新たに約三百名が入隊したが、これは…「野重八」の三ヵ月教育終了後の初年兵と若干名の「バタァン帰還兵」等で…砲煙くすぶる…この最前線で、大陸式実戦を織り混ぜた「野戦教育」を再び受けることになった。折しも、「宜昌」周辺には国府軍第六戦区の「孫蓮仲司令」が率いる四十箇師が集結しており、荊襄地域一帯は容易ならざる戦乱の機運が昂まりつつあった…。第十一軍(横山勇中将・軍司令部・漢口)麾下の第三十九師団(澄田来四郎中将〓司令部・当陽)は隣接の第十三師団(内山中将〓司令部・沙洋鎮)と呼応して「宜昌奪回」の使命に狂奔する国府軍と…長江を挟んでの対決は将に一触即発の危機を胎んでいた。昭和十五年七月の第一次「宜昌」攻略戦以来の「トセ部隊古年兵」連中は、新たに編入された三百名が、自分たちの交替要員だと思い込んでいた。然し、一日千秋の思いで待ちこがれた召集解除は「僅かな人員」に限られたのである。…内地帰還の目論みが狂った彼らの焦燥感は激化した…。その当時…。南方戦線の拡大に伴う派兵軍団を新編成する必要から、第十一軍から二箇師団が抜かれて「南方」方面に移動した結果、隷下の独立混成旅団を母体にして軍下の各兵団から将兵を抜粋し、新たに急拵えの二箇師団を新設すると云う事実があって、湖北省の「呂集団」が大揺れしていた時期で、除隊や帰還等が必然的に先送りにされていた…。…上層部の、戦略的用兵案も末端の兵士が知る処ではないから、「帰還命令」を真面目に待つだけの彼らは…太平洋戦線が主軸となる全体的な危機感など想像もしていなかった。…単純に…恨みの矛先は新参者の入隊兵に向けられた。「えぇいッ、この野郎たちめッ…」…それに、トセ部隊生え抜きの現役二年兵たちまでが歩調を合わせて張り切り出した。八月末に関東者の初年兵を迎えたが、起居動作の歯車が全く調和しない東北育ちの現役兵たちは「期待外れ」の不満感が爆発寸前であった…。そればかりか、何となく胡散臭い「バタァン還り」の連中が気に食わないのである。「貴様らにッ、舐められてたまるかッ…」「俺たちだってッ、実戦は何度もやっているぞッ…」…この現地では実績が物を云うのだと…対抗意識を露骨に表わして、偏狭な「余所者」扱いで迫害するなど、何かにつけて新規入隊兵を排斥する風潮だった…。「軍隊」とは…如何なる理由であろうとも「兵士」は…如何に優秀な前歴があるにせよ一度原隊を離れ…別部隊へ転属した場合、何れも悲惨な待遇であった。それまでの帝国陸軍の歴史にはない集団的兵士の「転属事例」を有効に対処しきれなかった現地部隊の責任者が…指導要領を把握しきれず、この悪弊は前線部隊の連帯感を著しく阻害し、軍紀の弛緩を誘発して…日本陸軍の末期的な症状を重くしたのである。 …………………。…一九四三年(昭一八)四月上旬…。東京の「野重八」に未だ残留していた三年兵等約四十名と、その三月…新たに召集された私たち初年兵六十名が「トセ部隊」要員として…品川駅から一路、山口県西端の「下関」港に至り、「関釜連絡船」で釜山港に渡り…朝鮮半島を鉄道で縦断、南満州の「台虎山」から「山海関」経由で天津、済南、徐州…甫口にと急行し、対岸の「南京」より船舶に乗り換え「長江」を遡航して「漢口」に到った…。「独立野戦重砲兵第十五聯隊」(トセ部隊)から差し向けられたトラック五台に乗った一行は…初めて眺める荊襄の地を土煙りにむせながら緊張の面持ちで揺られた小一日の距離だったが…漸く「金沙舗」の部隊営舎に到着したのだが、朝鮮の釜山港を出発してから大陸を、約半月間もかけて迂回した長旅であった…。…トセ部隊の主力は丁度この時「江北殲滅作戦」で「宜昌」方面に出動していた。…三日後の未明、留守隊の弱体性を察知した「共産新四軍」に攻撃され…、銃弾を浴びて震え上がった未教育の初年兵六十名は、これが「非常呼集」第一号の体験となった。五月からは…実戦を併合した現地教育が…各中隊の競い合いで開始されたのだが…。…八月半ば頃から「太山廟」地区の営舎増築工事が始まり、終了したのが十月末で…、頃合いを見計らったように「内地帰還命令」が発令され、各中隊の最古参兵の残存者は…大はしゃぎの浮かれ調子で勢揃いし…、百名程が…トセ部隊を去って行った…。後に居残った古株の四年兵たちは惜別の情に萎れたが、次期命令を気長に待つより仕方がなかったのだが、彼らが落ち込む理由のひとつには…新入補充兵の中に高年齢者が増えつつある現状に日本の暗い戦況が窺われて暗澹たる気分になったことは避けられない…。最古年次兵になって威張ってはいられるものの、丸三年を超える兵役には不満感を抑え切れず…焦燥する彼らが不真面目な勤務になったのは無理からぬことであった。軍紀が弛緩して歯止めが利かなくなれば自制心が薄れ…、内務班も乱脈になってくる。…営舎内の「私的制裁」が日常茶飯事になった。怠惰が、他の兵士の勤務を妨害するようになると、不穏な事件が発生し易くなる…。…喧嘩口論の多発は軍務の進行を阻害するばかりか、命令系統まで破壊して了う…。この時代…。何処の部隊も大同小異で…、こうした揉め事があったと云う…。…南方戦線の苦況が伝えられ、先行きの運命を悲観して…交戦意欲は低下する一方で、軍の上層部が…腐敗した軟弱な風潮を一掃すべく打開策を講じたが…既に手遅れだった。「皇軍」の呼び声も何処へやら、正統性を失った軍隊組織を軌道修正する名分も生まれず、指導力も薄れたその当時…、最早…前途に光明はなかったのである。…初年兵教育の名を借りる私的制裁は、私たちの内務班生活を不安定にするばかりか、転属してきた三年兵までも、異端視して迫害する有様を目撃した新兵たちには…複雑な事情が簡単に呑み込めず…「何故そんなことをするのか…」と素直に疑義を糾せない軍律を憾みながら…社会的倫理に離反するような軍務に猜疑心を抱く者が多かった。鳥居政夫氏は…軍隊に召集される以前は…東京の本所で…美術印刷所の長男として何不自由なく青年期を気楽に生きてきた男である。歓呼の声に送られて入隊した彼は、下町のいなせなしきたりに浸った暮らしとは大違いの規則と時間づくめの軍隊生活に中々馴染めず、そのうち…反感を持つようになった。特に中国へ来てからの古参兵が威張り散らす振る舞いには…我慢ができなかった。…昔…「深川」や「浅草」の粋筋で遊んだ頃…身にしみ着いた洒落言葉がついつい出るような「伊達者」だから…どうしても…不粋な田舎育ちの古参兵に背を向けて了う。地方出身者は…「東京育ち」にコンプレックスを持っているので…中々噛み合わない。「へへぇッ、まったく始末がわるいやぁッ…」…彼は自棄糞で「高黍酒」をがぶ飲みして…へべれけに酔い、雑言を吐き捲くる…。潤いの少ない単調な閉鎖社会の軍隊に有りがちな棘々しい雰囲気が充満していた…。長期の野戦勤務に疲れた古参兵の中には…倒錯して狂うサディズトも多かった。「この野郎ッ、ちょぼくれぇやがってぇッ、ぶち上げろぉッ…」「態度がでけぇんだょッ、そこぃらぁッ、まだッ、はやぇぃッ…」「やれぇッ、やれぇーいッ、ふざけぇやがってッ、ふてぇい野郎だッ…」…一方的に責め立てる暴行沙汰は退屈凌ぎの弑逆的な面白半分だから執拗である…。暴虐のかぎりを続けられても…鳥居政夫は反抗するそぶりも見せない。…地面に倒された彼の顔は目の周りが腫れ上がり、鼻血が上衣を染めて泥に塗れている。…誰一人として止めに入ろうとする者は出てこない。狼藉者が大勢だから、変にからまれては後が面倒になるし、関わり合いを避けている。…黙っていても、こう云う事態に慣れた連中だから、大怪我にならない程度に結構手加減をしているし、適当な頃合を見て引き上げることを知っているからなのだ。鳥居政夫が、苦し紛れに転がり回りながら立ち上がろうとするが、足腰の痛みと酒酔いが重なって…身体が思うように動かない。同分隊の槙島 茂新は…「バタァン還り」の同年兵で、普段は炊事班要員だから、この日も別棟で働いていたのだが、鳥居政夫の危難を知って直ぐ駆け付けてきた。…殴り疲れた古参兵たちが要領よく引き上げるのを見ると素早く近寄り、倒れていた鳥居を抱き起こすと…無言のまま彼を背負って歩き出した。彼は東京早稲田牛込の人で、米屋の主人公として学力もあり、温厚で飄逸な人だった。…鳥居政夫を内務班に運んでから…寝台に横たえさせると…また炊事場に戻っていった。その夜になって…鳥居政夫は高熱を出して苦しみ出した。「保科ッ、鳥居の看病をしてやれょッ…」…宮川上等兵は最古参兵だが、普段から病弱だったので、他人にも思いやりが深く、同分隊の鳥居一等兵が折檻されて苦しむ様子に堪り兼ねて…声を挟んでくれたからよかったものの、消灯後に自己判断で、勝手な行為は出来ないから…隣に寝ている私は困っていた処だったのだが、早速…床下に隠しておいたバケツの水に手拭いを湿らせた。その夜は熱にうなされる彼を、一生懸命…明け方近くまで…看病を続けた。…明くる朝の点呼では…「熱発のため休養中」の一語で簡単に処理されたのである…。…何処の班でも同じように陰惨な空気が色濃く…隊内には厭世的な空気が漂っていた。…。私たち初年兵は…未だ最終の教練課程が残っており、技能習得に専念する毎日だった。…自動車隊には徴兵以前の職業が「バス」(乗合自動車)や「トラック」(運送業務)等に従事した労働者が多かったが…その頃…日本国内で自動車を運転する人と云えば、限られた「職業」の者がその大部分を占めていた。当然、「運転免許証」所持者は希有の存在で、貴重な技術者同然の待遇であった。この年代「沙荊地区」全般に空襲の脅威はなく…「日本軍優勢」の頃である。…重砲隊の「段列」隊は、物資搬送を目的として構成された戦時編成の特別組織で、五㌧積みの貨物自動車を、各班で三車両ずつを管理し、四箇分隊編成であり、段列長専用の乗用車一台、他に連絡用の「側車」(脇乗り舟つき自動二輪車)も備えていた。「隊」事務室には…各種命令受領の記録保存と、人事の異動関係、昇進、賞罰等の事務事項を実施す人事係曹長の下に事務係下士官と兵五名、他に衛生兵一名が勤務している。…初年兵達は…、必須科目の「自動車操縦教練」が辛い時間として…嫌悪していた…。…青年学校出身の私は…科学的知識が薄く…電気、機械の原理が難解過ぎるのである。この実技教練の指導班長だった羽石兵長は…元栃木県日光市の職業運転手で…、気性が激しく、一見…端正な容姿だけに、ニヒルな風貌が…不気味な威圧感を伴う男だった。訓練中の僅かなミスも絶対見逃さず、容赦なく顔面を殴打し、舌舐めずりをしながら制裁を加える変質者タイプの「叱咤督励法」は異質な存在として知られていた。緩慢な動作を極端に嫌い、徹底的に責め上げる凄まじさは…尋常一様ではない……。…三時間程度の教程が終了する頃には私たちの「全身」に青痣が滲んでくるのである。その苦痛を堪えながら、怯えてばかりいる私たちの技量が上達する訳がない…。…疲労を痛嘆するだけでなく、その後の「内務班」に待ち受けているのは、初年兵いびりも軍隊の教育法の「一つ」だと盲信している暗愚な古参兵連中なのである。…遊び半分の「慰み」として用事を言いつけられたり、訳もなく整頓棚に重ねてある軍衣袴を突き崩して笑い合い…「飼い犬」にも劣る低級な扱いにも耐えなければならぬのだから、如何に年若い私でも、流石に足元がふらつき加減になってくる。屈辱的なしごきにも音を上げず、歯を食い縛って我慢する連日だったのだが…悔し涙がこぼれても…他人には覚られぬように…何気ない素振りで動き回っていたが、憔悴した身でも日課をこなし…その夜の消灯時間になると、この世の因果を呪っていたのである…。…隣り寝床の…鳥居一等兵は、一件以来…泥酔こそ…しないが、場数を踏んでいるだけに相変わらず図太く構えて、いつも不貞腐れの態度を続けていた…。彼は、時々…饅頭の入った紙袋を私の毛布の蔭に忍ばせてくれたりして…悪辣なしごきに曝されている年下の戦友を密かに労い、反骨の気概を示してくれたのである。「はやぃとこッ、食っちゃえょッ…」…てれ隠しにそっぽを向きながら…小声でそう云う彼は何時も多くはものを語らない。…滅多に食べられない甘味品にありつき、有り難いけれど…うっかり声も出せない私は、黙って…うなずき返し、饅頭を口一ぱいに…ほうばって…嬉しさを表現していた…。………………。…湖北省襄西部の「沙荊地区」に霜が降り始める十月の末頃…、長江対岸に国府軍主流の大軍が江南地区の「常徳」付近で、気勢を上げて集結した…との情報が流れてきた。第十一軍ではすかさず、隷下の八箇師団を動員し、各兵科共同作戦を活発に展開した。…江北地区では「八路軍」と連携作戦をとる「新四軍」の徹底的な撲滅を図る包囲殲滅作戦に「トセ部隊」も巻き込まれて……数回に渉って出撃体勢がとられた…。営舎内に非常呼集の「忍び声」が素早く流れる「太山廟」は…肉薄してきた敵軍の奇襲攻撃で、一時は陣地存亡の危難が迫ったが、残留隊は小人数ながらも必死の防禦作戦で…「重要拠点」の危機を排除すべく…積極的な徒歩編成の突撃隊を繰りだして戦闘ったのだが、その都度…指名されて出動した私たちは生きた心地がしなかった。「…この頃の中国兵は強いから…油断ができねぇなぁッ…」…初冬の闇夜に索敵を続ける掃討戦では、何度も命を脅かされたが、激しい実包射撃を度重ねるうち、初年兵も戦闘の呼吸を会得して、逞しく成長していた…。…短期間だったが「常徳作戦」は一応、年末に平静を取り戻したが…、現在になって想えば…曖昧な交戦理由で、双方共に夥しい戦死者を出した…悲痛な戦闘であった…。

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