出  撃

05.出  撃
…一九四四年(昭19)一月…。凄惨な「常徳作戦」が年末に終結してから、二週間程が経ち…再び警備体制を元に戻した「トセ部隊」の各隊は暫し…安堵の胸を撫で下ろしたが…寛げる筈の正月も…心身共に疲れ果てた兵士にはさしたる楽しみとはなり得なかった。…二月に入ると、この地区に大雪が降りだして、野山は一面の銀世界に覆われた。癇高い野狐の鳴声が時折聞こえたが、降り積もった雪に吸い込まれて消えていく…。…その年…湖北省の…沙荊地区には珍しい積雪である…。銃声一つ響かぬ静かな「太山廟」は平和の息吹を思わせたが、警備の歩哨は日頃の警戒を緩めることもなく、冷たい雪の上を巡回していた…。日々が経って…。雪が解け始めてくる頃、間近に近ずいた早春を報せるような濃霧が…粗末な営舎を隠してくれたが…「衛兵勤務」は、一層の体制強化を促されていた。三月になっても…敵軍は些細な挑発一つも仕掛けてこない。最前線の緊張感がほぐれたかと思える頃、誰しもが聞き捨て出来ない噂話が「太山廟」一帯に広まってきた…。それがトセ部隊の命運を賭すと云う「大作戦」参加への情報で、まことしやかに伝えられて、私たちは戦々兢々の思いだったが、それは…四月下旬に…事実となって公表され、正式な動員令が発動されたのである。…それが「日本軍戦史」に世紀の汚点を残した悲惨な「湘桂作戦」で…「トセ部隊」が「湖南会戦」に全面的な突入をする寸前の将兵全員は参戦準備に大汗をかいていた…。五月十五日の早朝…。トセ部隊では、各隊毎に厳粛な出陣式が挙行された。…予ねてから、満を持したる…わが隊の装備を見よとばかりに…将兵は「長征」の門出を豪語していたが、約二年間に渉る…血と汗の結晶とも云える「金沙舗」及び「太山廟」の両陣営を放棄して行く…決死の覚悟であった。…軍司令部から、荊襄地区警備の重責を厳命されて…唯一「当陽」に残留する第三十九師団の精鋭部隊に、全ての後顧を託したトセ部隊は、集合地を目指して東進を開始した。七年近く…「中支」に威信を漲らした…自慢の「十加砲車」を中心にキャタピラー車のエンジン音も豪快に…延々と隊列を進める「野重部隊」の主力は「長江」の水路を利用して「岳州」へ向う一団と、「武昌」まで陸上を疾走する貨物自動車群とに別れた。…「漢宜公路」の二百二十kmを行く…一団は、土埃を濛々と巻き上げて…疾駆したが、第二大隊段列四箇班の内、殿を守る…三六五号車の荷台幌張りの中には、やや緊張気味だが…上等兵の衿章も真新しい鳥居、槙島の両名と最古年次の高田上等兵で…その陰には二年兵の私が控えている。運転手は現役四年兵の八重島上等兵で「車長」は間中兵長だった…。…「武昌」地区に逐次集合してくる第十一軍の威勢を象徴する各部隊の鬨の声は「武漢」の天空に轟きわたり…盛大な熱気を孕みつつ…五月晴れを謳歌していたが…、まさかその後に迫りつつあった数々の危難と苦戦までは…神ならぬ身の知るよしもなかった。「湘桂作戦」の初戦に予定された作戦を根本から覆す凄絶な戦闘は「岳州」から展開されたのだが、それは筆舌に尽くし難い困難の連続で、公路上に犇く無慮数万の日本軍勢は息を休める暇もなく、寝食も自由ならぬ激烈な進撃となった。湖南省の「長沙」が第一目標なのだが、功名の競り合いも…凄まじい進攻だった…。この大袈裟な日本軍の進撃は忽ちアメリカ空軍に察知され、空襲の的にされた。…「長沙」を防衛する…中国軍第九戦区第十軍長、方先覚中将は名にし負う猛将で…而も、その情報分析は精細で…采配の緻密さから知性の人としても知られていた…。日本軍の南進を逸早く予想した彼には、既に十分な迎撃体勢の戦略が練られていた。…日本軍の主力部隊を間近に引き寄せてから…「衡陽飛行場」で予め待機している米空軍と相い呼応して迎撃する守備軍の要塞陣地は、万全の固めであった。…米軍機の空襲は時機を失せず…果敢にして妙を得、而も断続して実施された…。湘桂公路上の日本軍は大小…各兵科の部隊が犇いていたが…連絡情報網が整備されておらず、咄嗟の避難もその場限りの、個別的な判断で退避するしかなかった…。必然的に進撃行動は阻害され、作戦に重大な支障を来したのみならず…敵機撃墜の防御体勢は「少数」の我が空軍機に依存するだけで、地上の対空砲火網も途切れがちの劣性を暴露しており、全体的な防空作戦が不統一で弱体だったから…空襲による被害は甚大で、各部隊の将兵は右往左往して逃げ惑う醜態を曝すことになった。六月も中旬のことで、湖南は連日晴天が続き、木々の緑さえ焦熱に萎える猛暑の中で…立往生もしていられないから、私たちは避難方法を根本的に変えざるを得なかった。「岳麓山」及び「長沙城」攻撃と、相次ぐ熾烈な戦闘で疲れ切った日本軍に、追い打ちを駆ける米軍機の大空襲により、輸送中の軍需物資は悉く破砕され、補給路は爆破された。その頃は既に…昼間の行軍は不可能で、休息場所も当然…限られてくると、飲料水も得られぬ始末で、こうした体験を持たない部隊は…将棋倒し同様で、進退極まっていた…。然るに…第十一軍司令部の高級参謀陣は…進撃一辺倒の采配を変えようとしなかった。…各部隊は戦闘の優劣を支配する携行弾薬さえも不足し、車両用燃料の受給も出来ぬばかりか、携帯食料も食い尽くして了い、全ての行動が悶絶寸前の事態となった。…延命を図るためには手段を選べず、前後の見境いもない鬼畜同然に狂い出した。…「長沙」は六月十八日に陥落したものの、わが方の損害ばかりが目立つ、名目だけの占領だから糧抹を得ることもできず、苛酷な悪条件のもとに、疫病で悶死した数千人の兵士を想うとき、派遣軍、高級参謀陣の功名心をくすぐるだけの身勝手な作戦が齎らしたこの悲劇の戦場に悲憤慷慨する私たちは、現在も…その悲惨な状況を涙なくしては語れない。僅かな時間でも戦闘が一段落の兆候が見えると、兵隊たちは一斉に手分けして…食料の調達に奔走しなければならなかった。後方からの支援物資が来ないので、現地で探すより他に方法はなく、それが後世に悪名を残した「徴発」と称する掠奪行為だった…。綺麗ごとを並べる現役将校と謂えども、これを阻止する理由は見当らないし…、それどころか…将校が「襲撃」の指揮を執っていたのである。湖南省は古来より豊穣の地として全中国屈指の収穫があり、山紫水明の景観で知られた富裕の地域だが、三年越しに渉る日本軍の「長沙進攻」に経済状態は悉く疲弊していた。一様に貧困な農村は相次ぐ戦火を被り、塗炭の苦しみで悶えている処を、畜生同様に野蛮化した日本兵が、押し込んでくるのだから…、その惨状は目を覆う有様だった…。隠し持った僅かな食料も根こそぎ掠奪され、あまつさえ…女房、娘を凌辱されるなど…彼らは逃げ隠れた挙げ句の果てには殺戮される者もあり…この世の地獄であった。何処の集落にも目ぼしい食料は見当らず、農民、日本兵、それに中国兵が入り乱れて食料争奪に命を賭ける死闘の繰り返しで…憤激した農民たちが、奇計を編み出し…「徴発」の兵隊を狙って仕掛ける罠にはまり、殺される者も少なくない。食料調達も出来ない病弱兵も多く、飢餓のあまり闇雲の悪食をする者が後を断たないので…次第に伝染病が蔓延し、部隊は戦闘能力を失い、憔悴してとり残される…風来坊のような病兵たちは、指揮官に見放されてしまい…歩くことさえ出来ぬ身を悲嘆し、やがては…哀れな形相で、次々と異郷の辺地に息を引き取る有様だった。野戦の救護所では…医療設備も医薬品も貧弱で…到底大量の患者は扱いきれない。何千人と数える兵士たちは救済されぬ侭、野原に…道端に朽ち果てたのである。…辛うじて動ける惰弱な部隊は…屠所に曳かれる羊同然で、この状態を中国軍に見抜かれて襲撃を食らい、反撃の気力も無く…全滅の憂き目を見ることになった…。或いはまた…米軍機の低空銃撃の的となって無残にも死に絶えた…。…身の毛もよだつ惨状の「湘桂公路」を…機械化部隊の私たちは、鈍重の夜間走行を続けたのだが、これがまた前照灯を点けないので、のろのろと牛歩同様の速度であった。…到底…「生命」は保障されない運命だから、万が一にも生還は叶うまいと、私たちはそれぞれが覚悟の臍を噛みしめていた……。今日あって、明日の分からぬ日々を生きぬくために、兵隊たちは貪欲な眼光で食い物を漁り回ったが、凶暴性が慣らい性となり、人間性の欠けらも見えなかった…。而も、一定の場所で休息する余裕も与えられず…「食うや食わず」の状況下でも…次なる「衡陽」攻略命令のもとに、飽くなき進攻を続けなければならなかった。地獄絵の「餓鬼」にも等しい脆弱な日本軍の進撃は…炎熱の中を「食物」を求めてさ迷うだけで…最早「聖戦」を忘れた軍団であり…反省の余地などある訳もない…。その当時の状況を克明に見て来た…私たちは、その後誰かがどのように弁解しようとも「日本皇軍」の趨勢が既に挽回不可能な「敗色」に傾いた坂道を急速に転落していった歴史的事実を…おこがましくも後世のために…確たる証言を惜しむものではない…。…誰もが生きるがために、手段を選べない原始的な闘争だったのだと論議の焦点をすり変えようにも、理屈の通らない状況だったのである……。南海の島々の狭隘な場所で、枯渇に斃れた数万の日本軍を想えば…中国大陸は比べるまでもなく茫洋たる豊沃の地であろうが、「衡陽」攻防戦に彼我の軍勢が周辺地域に三十余万と群がって、掠奪を繰り返したのだから食料難になったのも不思議ではない。湖南省は広大な農業地域で、温暖な気候と水運に恵まれ、雨量も豊富な地である。然し、農民の生活は最低で…その日暮らしの者が多かったのはその殆どが小作農のためであって、集落毎に農作物を管理する首長も穀物収集の単なる責任者に過ぎなかった。末端の農民者には、労働代償として年間給与分を現物支給し、それ以外は…利権を把握している大地主の命令によって、村々に集まる収穫物は遠隔地の都会に搬送され、大規模の交易に回される仕組みになっているのである。「地頭」の富裕ぶりは歴代変わらぬ「分限者」の条件で、それが常識なのだと云う。…各集落の首長は、単なる代理人とは云え、土煉瓦を高く積み重ねて堅牢な柱、梁材で組み立てられた大きな家屋に暮らして、年間消費量の穀物を倉庫に収納保管していた…。然し…、相次ぐ日本兵の群盗に踏み荒らされて穀物倉庫には一粒の米も残っていない。…だが…、その時点でも兵隊たちは生きるためには…食い物を探し回る…。…めくら滅法に、掻回して…雀の涙ほどの物でも見つけ次第、喰い漁る…餓鬼であった。…徒歩部隊は長征の疲労と矢継ぎ早の戦闘で体力を消耗しており、しかも栄養失調も同然だから、遠走りしてまでの食料調達は不可能なことだった…。トセ部隊は鈍重な走行ながら、機械化自動車隊として、空襲を退避する潜伏時間の合間にも食料を物色して、歩き回るだけ…未だ体力に余裕がある。…その頃…第四分隊の鳥居上等兵は…「徴発」の達人だと噂されていた…。人並勝れた視覚は天性の「感」とともに彼の真価を発揮し、出掛ける毎に収穫が多くて…手下分の私に「ぶん盗り品」を担がせては意気揚揚と引き上げて来るのである。「徴発」には数々の経験が必要とされ、機転を働かすのも…重要だった。中国の歴史に繰り返された「戦乱」の知識から、必然的に私有財産を護る「口伝」があるらしく…現代の技術を上乗せした…秘策を看破しなければ獲物は得られない…。豪勢な骨組み造りの農家では、それなりに苦心の物資隠匿の工夫が必ず施されていた。…それが…天井裏が登り梯子のない「小二階」の物置部屋であったり、また…二人掛かりで厚みを測量をすると、巧妙な方法で造った「収納用」の二重壁構造であり、或いは降り階段の入り口を隠蔽してある地下室の場合もあった…。…鳥居上等兵は明治時代から厳格な規律と規則で固められ…受け継がれてきた無味乾燥の「軍隊内務令」の綱領では訓えられない「臨機応変」の閃きが天才的な人であった。…苛酷な進撃の合間にも、時間に余裕があれば担当者は食料を探し回るのだが、彼は…その天分が水を得た魚のように、縦横無尽の活躍を発揮した。…私たちの貨物車三六五号には常時食料が積み込まれ、時には女物のきやびらかな衣裳等を発見してくるし、他車の羨望を一身に浴びる程だったが、その破天荒な行動の裏側に隠された彼の…「救け合い精神」を知る者は少なかった…。土壇場になっても…各々が自己本位の延命を願い、他人の困窮を見ても横を向く…身勝手な独占欲だけが罷り通る乱戦模様の最中に…、鳥居上等兵は疲労した身体を厭いもせずに…「役割」以外の行動で…休養を犠牲にして…危険が伴う「徴発」に出掛け、捜し出した食料も、決して「独り占め」などしたことがない。獲物は自分で調理して…戦友たちと一緒に食べながら、滑稽な自慢話で…一同を笑わせる彼は、最早第四分隊の英雄だった…。だが…その頼もしい行為を知る者は限られた身内の私たちだけなのである。…かつて…中隊の鼻ッつまみの「役たたず」の兵隊だった彼が、この時点では、鼻下にたくわえた立派なカイゼル髭などを、器用にしごいて胸を張る立て役者であった…。私は鳥居上等兵の腰巾着として幾度も…凄絶な食料争奪戦の狭間を潜り抜けて生き延びたが…何時の間にか誰が見ても「果敢」な兵隊に変わっていく自分に気が付いていた。…後日…、中隊の編成替えにより、彼とは別行動の「尖兵」の一員に選抜され、命を忘れて前進したが、薄氷を踏むような奇跡の連続であり…「本隊」の残務整理とは云いながら…思いもかけない「文書的」任務に追われたり…華北の地を二千kmも流浪する旅鴉になった時…、意外に逞しくなった自分を思い知らされたのである……。

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