敗  戦

06.敗  戦
 一九四四年(昭19)十一月十日…。広西省東北部の桂林と柳州を占領したのだが、在華米空軍の「日本本土爆撃」を封殺する当初の作戦目的には程遠かった。「B-29型機」のように四千哩の航続距離を持つ大型重爆撃機の基地を地上作戦によって完封しょうとした企ては不可能に近いことだった。広大な中国大陸には未だ「四川省成都飛行場」が控えており、其処からの空襲可能範囲は九州、朝鮮、満州の各地に達していたのである。この他、戦爆兼用の「B-25型機」や「P-51型機」等が、在華日本軍を急襲し、多大の損害を与えていたから、将兵の頭痛の種は…常に空襲退避のことばかりであった…。一九四五年(昭20)三月中旬…。太平洋戦争は既に悲愴の頂点に達しており、中国戦線を統括する「支那派遣軍総司令部」は、揚子江下流方面の戦備強化の必要に迫られた。…遂に、幾多貴重な血を流した華南の要地も果断に放棄して…後転する事態となった。「転進」と呼称する撤退作戦が強行されたのである。在華日本軍の最精鋭たる…第三、十三、二十七、三十四の各師団等の大移動だった。…トセ部隊の「後退」が、自動車の燃料不足のため、車両関係は鉄道輸送となり、主流の部隊将兵は「徒歩隊」を編成し…「武漢」目指して、湘桂公路の全行程を反転した。…長旅は三十日に渉ったが、「漢口」に到着した各隊の全員は疲労困憊の極みであった。…私達は「翳り」が見える暗雲の戦況を警戒し…「尖兵」に指名されて本隊とは別行動をとったが…漢口出発後も、同一メンバーで、華北の地を周りながら…流浪の旅を続けた。その頃の私は物慣れた古参兵面で…図太く道中を過ごし、数度に渉る米空軍機の来攻も躱して、本隊が待つ「上海」へ辿り着いたのだが、奔走中は奇跡の繰り返しで…簡単には…死ななかった八人の風貌は、とても兵隊とは思えぬ…不敵な面魂しいになっていた。一九四五年五月下旬…。二ヵ月に跨がる長旅を不思議に命永らえた私達は、久しぶりに「本隊」に合流し、第三中隊に落ち着いてみると、顔馴染みの戦友達は皆健在だった。…それから暫らく「砲塁構築工事」に従事していたが、七月下旬…「建設資材輸送」の特別任務で出張中の「無錫」地区で八月十五日となり、日本の「敗戦」を知った。大勢の中国人労働者に囲まれて孤立したが、私達「七人」の兵隊は…百二十kmの距離を巧みに潜行して…幸運にも「江湾」の原隊に戻ることが出来た…。日本兵の殆どは「世界の動静」に疎遠した状態で「終戦」を迎えたものだから、特定の立場に居た者以外は…「敗戦」に動揺し、周章狼狽の有様であった…。…我が身だけの安全を図って策動する者も居たようだが、九月末に日本軍は…国民政府軍の「湯恩泊将軍」が統率する「上海軍管区」の中国軍により、正式に武装解除された。将兵は軍命に従い、定められた場所に集結し…「収容所生活」を送ることになる。それらの部隊は…続々と上海西部地区に移動したが…、受け入り先は…「江湾」の旧日本軍兵舎を大改造した「集中営」で…、部隊別に区分けしたものの、彼らは…数棟の旧兵営に三段重ねに詰め込まれて…、各部屋は兵士がはみ出す程の過密さであった。…数千人の将兵は…思いかけない敗戦国の悲哀を背負って狼狽えたが、互いに励まし合い…慰め合って…息苦しい雑居生活を堪えていた…。…収容所に居た約二ヵ月間に別棟の鳥居政夫氏と、復員後の連絡方法を打ち合せをしたのは確か…「蘇州行き」の挨拶に行った十月末の筈だが…、その一年半後に東京で再会するまで混沌とした世情に揉み苦茶にされて…月日の記憶が朦朧としているのである。十一月初旬……。第三中隊から二十四名が…「技術協力約定」に従って、中国軍第七砲兵団が駐留していた江蘇省の蘇州地区に派遣された…。約半年後に拘束解除されて、其処から直接「復員」したのだが、昭和二十一年四月頃より…相次ぐ事件や、奇抜な出会いなどが連続的に発生し、私は無我夢中の毎日だった。…復員以後の、想像を絶する混乱状態の中で、私は事態の収拾能力もなく、将来も予測出来ず、職業の選択さえ適当な判断で、行き当たり、場当たり的に生きるしかなかった…。…一九四七年(昭22)四月頃、東京で鳥居氏と再会したのだが、どのような連絡方法を取り合ったものなのか、彼の生存中に確認しないまま今日に至った。復員直後の頃を回想すると私は…滑稽なくらい…いい加減で、低俗な生活だった…。…兵役期間中に統制体系が崩壊したことも手伝い、一貫した思考が維持できず、集中力も弛緩して、自堕落な放漫生活を過した所為もあり、精神的に落ち込んでいた…。社会人に戻ってからも反省する処か、自分勝手の言動にも自覚がなかった。…肉親にも疎んぜられて、家を出る羽目になったが…相手ばかりを恨んで…呪った…そんな時、酒に溺れる私を…見兼ねた鳥居氏が手を差し伸べてくれたのである。当時の…「鳥居大錦堂」と云う…美術印刷所の住込み社員として私を手元に引き取り…「営業の初歩から、勉強しろよ…」と言ってくれたのは、その年の八月頃である…。俗世間に鈍い私が、社会人として通用する事務的技法や話術の修業に三年も関係ったのだが、これが…後年になってから…私の人生を大きく変身させる原動力となった…。その上…孤独感で傷心し…沈みがちの私には…「家庭愛による発奮法が何よりの妙薬」だと云って、所帯を構えることを積極的に勧めてくれた…。そして…。紹介してくれたのが、同業者の縁戚関係に居た水戸の娘「美登里」だった。…昭和二十四年四月…。 鳥居夫妻の媒酌で…、結婚式を挙げた私たちは…二人三脚で苦心惨憺して暮らした数年後、…漸く強気の人生観を持つようになった。然し、臥薪嘗胆…。二十年間の貧乏所帯を切り盛りした糟糠の妻は…二児を育て上げた時…、不覚にも不治の病…「胃癌」に斃れた。…四十二才の果ない終焉であった。その頃…。建設会社に勤務して居た私には、入社十年目の大きな躓きとなった…。苦労ばかりで、笑いが少なかった妻の生涯を追想し、愛惜の念は現在に続いている…。……あの…戦後から…の一般社会的風潮として……。「忠君愛国」と「徒弟制度」は前時代の遺物となり、世間中にはびこっている「民主主義」の掛け声は「情誼関係」を軽蔑し、「軽薄な人間模様」が、生活の常識となった。現世のご利益を重視する新興宗教が栄えた戦後の世相は、鳥居政夫氏の心情をどのように刺激したものか知るべくもないが、ある日…彼は、私に向かって…言った。「私は女きょうだいが三人だから、以前から君のことを弟同然と思って付き合ってきたんですが、…女には相談ごとが出来にくい場合でも、男同士ならば話し合えることがあると思うんです。…厳しい時代だから、将来の為にも頑張ってくださいッ…」鳥居氏は常に上下関係のけじめには必ず一線を劃し、安易に流れがちな会話にも程よく敬語を取り入れて…軽率な妥協をしないように…、紳士的な節度を保持していた。兵隊時代とは打って変わった百八十度の転回で、社会人の自責と自信に満ち溢れた彼の言動は、業界にも…巾広く知られ、人望厚かったのである…。…「一生懸命、商売に励めば報いられる時代になったんですょッ…」………………。…「新時代」の駆け引きを会得して「商法」を応用することは私の未知の世界だったが、…早く一人前の「社会人」になるべく、骨身を惜しまずに働く…日課が始まった。日本橋界隈の問屋街の老舗は「先代」が戦前に築いた得意先だったが、私も一人で「注文取り」や「ご機嫌伺い」の営業活動を許されるまでになった。同業者や職方関係の微妙な話し合いとか、金融関係の複雑な仕組みも微細に教育され、復興途上の複雑な東京全土を、当時流行のスクーターを駆使して飛び回った。かつては…想像もしない…「生き甲斐」を覚えた私は…「何とか此処で立直ろう…」と将来の希望に燃え、鳥居社長に従って修業を続けた…。戦後…新生日本の商取引は約三年ほどの間、需要と供給のバランスが単純で、物資さえ手に入れば、何とか商売が成立するなど…操作の方法が幼稚だった。然し、原材料の生産増加と共に、制作技術が向上し、商品が潤沢となり、次第に高度の商業経営が要求される本格的な流通経済機構が発達してきたのである。つい昨日までの「ぬるま湯」に漬かったような安直な商売から脱皮出来ずに、目先の利益を追うだけで、得々としていた旧態依然の粗雑な商取引では、急速に変化し…、進歩する社会構造の足並みに付いていくことが難しくなっていた…。…戦後経済を論ずる前に想起するのは…。昭和初期の不景気対策が原因で…国民の怨嗟の矛先をすり替えた大陸侵攻政策が、遂に十五年戦争となり、社会の発展を低迷させたが…「敗戦」の結果、国内経済が破綻し、困窮時代の社会混乱を招いた過去の歴史である。…軍国主義で…「自由経済を封鎖」されていた一般社会の商取引は終戦後にも総じて稚拙な操作と粗暴思想等が残存し、低水準の技法が続いたのは止むを得ない仕儀であった…。鳥居社長は…旧来の得意先以外に、戦後に台頭した新興の「ロイドインキ会社」や「プラスチック加工」の幼児玩具の外箱を、オフセット印刷と一括併合した紙器製造まで受注するなど八面六臂の活躍だったが、如何んせん得意先の新興会社が、製品販売ルートを時流に逆らう無理な営業をした為に経営が悪化し「長期日」の「約手」を掴まされた余波を受けて、連鎖的に苦況となり資金繰りが困難になった。その挙げ句、狡猾な金融機関の罠にはまり、高利率の返済金の「自転車操業」を続け、焦る結果、朝鮮戦争に便乗したドライな悪徳業者の口舌に引っ掛かって…空手形の割引金融で…当然のように不渡手形を発行する不運が重なったのである。予想以上の高額負債に首を絞められて資金の回転が停止して…「会社」は倒産した。嘘も誠も、駆け引きの術策として使い分けるような悪辣な操業法が不得手だった鳥居社長は…業績の傾いた家業を挽回しきれず、世間に媚びを売るまで卑屈にもなれず、頑固なまでに借入金の返済を主張したが…、終局は…「破産宣告」を受けるに至った…。

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