葛  藤

07.葛  藤
鳥居夫婦は身の回り品だけを持って亀沢町の工場を去り、千葉の茂原に身を隠した…。…だが、転居先の番地は…何処へも連絡されなかった。この事件で…私の「将来の希望」は…根こそぎ砕けてしまった…。…再び…流浪生活が始まるが、今度は妻子を抱えているから…苦しみも倍加する。退職金どころか預金もなく、最低の衣食住を求めて…親子四人は路頭に迷っていた。…戦後十年目…。日本には不況の風がたなびき、弱小企業は悲鳴を上げていた。而も、私は…情けないかな…不遇を跳ね返すだけの実力がない時代である…。…それから、五年間も下積み生活の中で、私は…さまざまな出来事に遭遇した…。一方…鳥居政夫氏は、消息不明の噂を余所に、再起を誓った人生を逞しく生きていた。…曳き売りの「煮込みおでん」の屋台車を賃借りし、流し歩いた忍従の世過ぎだったが、場末の巷には、彼独特の気っ風と、ぎりぎりのどっこい人生に興味を持つ人が結構居て、貧乏生活を笑い飛ばす四十男の渋さと夜の裏町に冴える「商い」は上々だったと云う。………………。…昭和三十五年五月…。文京区柳町に居た私の方は、藁も掴む思いで漸く就職したのだが…しがない町工場主と僅かなことが原因で…意見が衝突し、軽薄にも辞職して見栄を切ったものの…忽ち懐中が空になり、親子四人は食い物もなく…きりきり舞をしていた。生きる技巧が低級なのである。その詳細は書くに値しない内容だから割愛するが、やぶれかぶれの末に、東京を捨てて、妻の故郷…水戸に移り住もうかと思うようになった。七月半ば…。都落ちを決心したが、平たく云えば…これは「夜逃げ」だったのである。その時、私が三十七歳、妻は三十歳、長女九歳で…次子の男児が七歳だった…。この顛末を披露する「或る人物」の名誉に差し障りがあるので詳細は省略したい…。零落の「どん底」暮らしの中で、唯一の相談者が十五歳も年下の大津吉男氏と云う人だったが、彼は…ある印刷紙器会社で、私が班長をしていた頃の元部下だったが、出身地が茨城県水戸で、同じ都市に生まれた妻が、何くれとなく面倒をみてきた男なのである。年は若いが…複雑な家庭環境に生育したらしい…苦労人タイプが人目を引いていた。然し、大津氏は応援者の立場ではなく、向こう見ずに事を圧し進めていく生活破綻者同然の、偏狭な私の命令に従わざるを得ない被害者と云ってもよいだろう。その時…、この東京脱出案を「鳥居政夫」氏に無連絡だったのは、未だ今日ほど電話が普及していない頃でもあり、弱気な生活相談をしたくとも…説明の挙げ句の果ての、金銭的な内幕を露呈することに拘りがあり過ぎて……結局、事は無断で決行された。………………。その時代…。茨城県東海村に日本最初の営業用原子力発電所建設工事が着工されたが、広大な用地の一角に基礎工事が開始されて既に一年が経過していた。水戸市から二十数kmも離れた海浜の辺鄙な村であり、さながら陸の孤島的な不便な立地条件だったが…「核施設」の場所としては最適地だと云われていた。…請負業者の「清水建設」は工事施工の遅延を憂慮して、大がかりな人海戦術を実施し、下級臨時社員や末端労務者を大募集していた。…職業安定所を経由して、履歴書を作成した私は、指定された提出日を待った。八月末…・口頭試問を実施する場所は、交通不便な現地作業所だった。最寄りの「東海駅」に下車した私は、同所までの約四kmの道程を、タクシーに乗る金銭 の持ち合わせがなく、炎天下の残暑の中を徒歩で行くしかなかった。その時の求人審査員が、後に同社の常務取締役まで累進した「本城正八郎」氏で、その頃は…まだ新進気鋭の主任級だったが、既に将来を嘱望される人物であった…。この人は…元職業軍人で、幼年学校から陸士出の将校として…東京世田谷の近衛野砲兵第一聯隊(東部第十二部隊)より南支那方面に出征し、壮絶軽快な野砲攻撃戦の中隊長を務めた経歴を持つ人で、終戦後に至ってから、東大建築科を卒業し、三十一歳で「清水建設」に入社して以来、若年社員と肩を並べる勤務を少しも厭わぬ努力の人だった。八年間の現場実技を精励して、今回…日本初の「営業用原子力発電所」着工に当たり、工事主任に抜擢された俊英の偉才だが…、全身が磨ぎ澄まされた剃刀のような人だった。「戦争ではだいぶ…苦労したようですな…」私が野戦重砲兵の復員者と知って温情を含んだ、特別採用をしてくれたようだったが、「一ヵ月間を試用期間にしますから…頑張ってくださいッ」と激励も忘れなかった。下級の臨時係員は相当に激務で、若い人でも根を上げる程の重労働が多く、四十に近い男を、どんな角度で推測したものやら、真意は問えなかったのだが、然し…この出会いが…私の人生行路を急転させて…未知の「職業」に邁進する端緒となった…。最初は現場の倉庫係から始まったのだが、これが思いの外に肉体労働だった。その年も暮れて…。翌年の春季健康診断の時、私は肺結核を宣告され、強制入院の憂き目に遇い、不治の病気に冒されたかの如く、失意のあまり…悲嘆のどん底に沈んでいた。…東京から「大津」氏が見舞いに駆け付けてくれても、暗い気分は少しも晴れない。「臨時係員」扱いの身分では、会社が…どの程度まで…長期の「病欠」を容認してくれるのか心配で、夜もおちおち眠れなくなっていたのである。…東海村村松の海辺の松林に在る「青嵐荘」は有名な結核治療専門の病院だったから、此処での規則正しい療養生活は厳しかったが、重度の患者が死亡したり、大手術が成功して…元気に退院していく人々を見た私は…この世に生き残る尊さを意識するようになり、以前の我武者羅な行動より、思考係数を重視する日常生活に…変わった…。ストレプトマイシン等新薬の治療法が通常になってからの「結核」患者は「死」を深刻に考えず、気楽な療養をするようになっていたことを知ったのも…その頃である。………………。昭和三十六年十一月初旬…。治療内服薬の継続を条件に一応退院の許可が下りるまでに快復し、而も…運よく元の勤務に帰れたのみならず「本城課長」が、私を資材担当係に抜擢してくれたお陰で、給料も増額し、生活程度は一段と向上したが、書類操作の実務や複雑な計算法等の勉強に追われ、従前に劣らぬ煩雑な勤務状態は相変わらずであった…。…多忙の月日を消化する中には…得意先の関連商社の英国人資材検査係員と業務折衝をする…貴重な体験もあり、かつての東京で零細企業の末端で働いた不屈な勤務態度が認められて、漸次…高度の業務も熟せるようになり…、昭和三十七年の八月になった。その頃…。東京の「大津吉男」氏から次のような便りを受け取った。

 『 拝啓 いつも乍らの筆無精で ご無沙汰を致し、申し訳ございません。その後お身体の方は如何ですか、東京は毎日暑くて堪りません。それでも九月に入れば凌ぎ易くなるのだろうと念じながら、頑張っております。さて…先日、私が勤め先の集金日に、日本橋堀留へ出掛けた所で偶然、鳥居さんと出会いました。生憎と時間の余裕がないので立ち話で別れましたが、鳥居さんは今度、店を買い、九月始め頃に開店するそうです。保科さんからは時々便りがあるけれど、いつも元気のない文面なので、彼が…どうなっているのか心配で、事情によっては東京に呼び戻そうかとも思っていますが、とにかく一度会いたいものだと云っていました。私がそちらの状況を掻摘んで話しましたところ、漸く安心してくれました。私も近いうちに水戸へ行きたいと思っていますが、その時は改めて…ご連絡します。本日は取り敢えず 鳥居さんに会ったことだけをお知らせしましたが、暑さも厳しい折りからくれぐれも 身体には気を付けて下さい。 大津   八月二十三日 』…………………。

…結核病院に六ヵ月も入っていたことなど鳥居さんには知らせなかったし、退院後、長期病欠の為に退職した場合の、働き口などを思い悩んでいて、煮え切らない推測ばかりの愚にもつかない弱気な文面だった…あの頃、感受性の勝れた…あの方が、即座に疑問点を追及できない…もどかしさを…定めし歯痒く思っていたことなのであろう…。…これは…早く調布の家に「便り」をしなけりゃぁ不味いかなと、思う間もあらばこそ…もう、その翌日に…当の鳥居氏から封書が郵送されてきた。『残暑の折りから保科君にはお変わりありませんか、私ども親子一同もお陰さまで無事に暮らして居りますれば他事ながらご安心下さい。先日、日本橋へ出向いた際、大津君に出会い、貴殿の話を色々と聞かされました。小生も家内も、そちらのことは気になっていましたので失礼かもしれませんが、心配をしていました。然し、心に思うだけで現実的には何のことも出来ず、生活に追われて通信さえも怠る次第で、ご無沙汰が長くなり、面目ないと自戒しています。思い起こせば貴殿との仲は、あの中支から始まり、戦後のどさくさ時代の頃に本所の焼け跡でバラック建ての工場では、ロイドインキや、中近文庫、東邦化工等、手形割引の苦労が続き、きりがないくらいの辛い、嫌な思い出ばかりです。私が、第二の人生に賭けた門出の際に、貴殿の家で出された一杯の焼酎に野菜の天婦羅、そして家中みんなで暖かく迎えてくれたあの時の嬉しさは今も忘れられません。 その折り、貴殿の紙函貼りの賃仕事を手伝ったりしたことを思い出します。後日、貴殿は重い病気をしたそうですが、あの頃の無理が身体に障ったのだと推察する次第です。あの日、昭和三十三年八月一日に、貴殿と別れてから「おでん」の屋台車を曳き、夜の路上で売り始めたのです。最初の頃は ご存じの通り身体を張っての商売でした。やがて幸運にも、関係の薄い第三者から 三万円貸して貰い 自前の〔屋台〕を購入して商売が出来るようになりましたが、まだ世間からは白い目で見られて、瘋癲野郎のように酒に溺れての鬱憤晴らしも何回かありましたが、家内や子供たちの為にも、何としても立直ろうと、一生懸命に努力したのが少しずつ報いられて、段々お金も貯まり、家財道具の一つも増えて、ご馳走も食べられるように生活も向上しました。このごろは「ひがみ根性」も消えて、世間の人々も私を理解してくれるようになりました。最近この近所に 新築の貸店が建築されることになり思い切って、これを借りる資金の算段を昔の恩人に話した処、三人の方々が賛成して下さり、百万円を改めて貸して頂けるよう とんとん拍子に決まり、現在 建築は八分通りに進行しています。九月半ば頃には開店の見込みです。その時は、ご家族全員で上京して下さい。積もる話もあることだし、是非とも お出掛け下さるよう お待ち申し上げています。相変わらず乱筆乱文にて失礼致しました。   奥さんに宜しく。
                八月二十五日           鳥居政夫 』
 ……………………。…この手紙を受け取った私は…、久しぶりに筆太の、懐かしい筆跡をじっと見詰めていたが、昔のことが止めどもなく想い出されて…何度読み返しても飽きることがなかった。如何にも小気味よく、型破りに活躍する彼の力量感が、ひしひしと私に伝わって、胸中にくすぶり続けていた迷いも一挙にふっ切れて、称賛と…尊敬の念が…こみあげてきた。『及ばずながら…こちらも、腹を据えて頑張らなきゃぁ恥ずかしいな…』発奮した私は…尚も業務に励んだが…。秋口に入ってから、仕事の方は益々忙殺状態となり…休日さえも予定が立たず…その侭、年末の突貫工事に突入していった…。……………………。昭和三十八年二月末…。私達親子四人連れが…『江戸名残り 銀八』と云う その小粋な「新店」を訪ねたが、五年ぶりに再会した両家族はかつての…主従関係の敷居を越える…泣き笑いの感動場面になったが…それは到底、文字や言葉では表現しきれない…。両者の職業は…変わっていたが、彼の気迫のこもった眼光は自信に満ちて輝いており、過ぎ去り行きし年月も何のその、青年同様の若やいだ声は…、私の憂いを飛散させ、交錯する気分も弾み、師弟の誓いを結んだ昔通りに…二人の胸は熱く脈打った…。思えば、意外に初めての握手だったが…「これからも…お互いに頑張りましょう…」…成功と飛躍を呼び合う…乾杯の美酒は、蕩けるように心地よい陶酔を誘った。九死に一生を得た…あの「湘桂作戦」当時の壮烈な思い出話が飛び出したが、戦後の苦闘を幾度も浴びた二人にしては…未だ野性味が残っている証左であった。…それからの月日は…、立場こそ違え、両者の真価を問われる…「正念場」となった。……………………。昭和三十九年十二月…。原子力発電所の主力建屋が完成し、付帯工事は小規模の単発的な発注に変わる理由で、工事事務所は人員を削減する時期が訪れていた…。全国規模のゼネコン「清水建設」だから、各地の支店及び、営業所が受皿となり、余剰の社員をそれぞれに吸収していく中で、私は…翌年一月初旬から、東京中央区の本社ビル内にある「技術研究所」の「材料強度研」への転務辞令を頂いた。予期もしなかった突然の推薦だったが、私は単身赴任の決意を固め、二つ返事で承諾したものの不安がない訳ではなかった…。…戦後の事業所単位は、個人経営から漸次、株式会社の設立にと移行し、組織の推進に伴い急速に大型企業を発展させた。学術理論を実用の段階に到達させた電子技術等は、国際的なレベルにまで昂進し、国内の産業経済は…商工業共に驚異的な発達を遂げ…全世界に飛躍した時代である。…然し、私の年令は既に四十二歳になっていた…。…入社四年少々の頃で…社内的には…臨時係員扱いだし、将来までは約束されてない。昇進の見込みどころか、高年齢者等は最も不利な条件であるから致命的となろう。会社の都合で、一方的な解雇通告をされて失職したならば、それからの安定生活など到底…挽回しきれないのは…一目瞭然のことであった。…一抹の逡巡を抱え……何はともあれ、調布市の鳥居政夫氏に連絡を取った…。 「…よく相談してくれました。新規の部署へ移る話は栄転のようですね。私も嬉しく思いますが…会社組織の経営方針と、雇用契約の細部項目を承知の上で、将来を懸ける のなら、今後の力にもなりますが、覚悟は決めているんでしょうねッ…」鳥居氏の意見は…過去に体験した雁字搦めの借金苦のどん底から這い上がってきた辛辣な洞察力が裏付けられているから、その一言半句にも重みがある。過去には諸々の経緯があったものの、現在では…全く立場の異なる二人だったが、優柔不断の不肖の弟子を見捨てなかった…彼の信ずる「絆」とは…浅はかな私では推し量れない…人間相互のしがらみと云う…吸引力だったのかも知れない…。…私が…、京橋にある本社の「技術研究所」で「コンクリート材料」の研究助手として…一月六日から勤務する段取りを伝えると…「単身赴任をする心算なら、私の家へ泊まって此処から会社へ通勤しなさい…」と、有無を云わせぬ鳥居氏の説得力で、話が決まった。但し、毎日の勤務終了後は必ず店に戻って、出前や洗い物等の仕事をすることで食事代と宿泊料に引き替えると云う交換条件が、約束の一つだった…。鳥居氏は人情厚い人柄であるが、根っからの商売人の上、しかも…名にし負う苦労人だから、安易な条件で…人の面倒を見ることはしない。…勿論、その頃の私は…漠然と他人の好意に甘えるようなひ弱な考えなど…とっくに卒業していた。表芸の研究所が終了する午後四時半になり次第、一目散に調布へ舞い戻ってくると…前日の出前で運んだ皿や丼の回収をし、いなせな「花板」氏に気を使いながら当夜のお客の給仕もするし、顔馴染みの常連さんには軽いお愛想も言うような表情も板に着いてきた。連夜の人あしらいに慣れてくると、楽しそうな「素振り」は私の取柄の一つになった。それに…出前先の家庭や事務所等で交わす商売上のやりとりから、社会生活の裏面を覗き見することが多く、図り知れない人間模様を体験し、円満交渉を会得したことが、後日になって私が、建設作業所の渉外担当役をこなす時点で大いに効用があったのである…。…その頃の或る日…。勤務時間中の私に人事課長から呼び出しがあった。「突然だが…、君は、退社後の時間をどうしているのかね…」「へッ、それはどんな意味なんでしょうか~…」課長が何かを詮索しているらしいのを咄嗟に気付いた私は……そ知らぬ風を装った。「いや~何ねッ…、君がァ…粋な女性と相合傘で歩いているところを見たと云う報告があったんですが、此処で君のプライバシーを侵害する心算はありません。但し…業務に差し支えるような間違いが起きてからでは困るんで、ちょっと老婆心までに聞きたいんですが…研究所と云う特殊性を前提にした上で…、念を推したいんですょ…」建設会社が、最新技術の研究成果を…互いに検索し合う競争意識は旺盛で、他社に探りを入れる方法も緻密であり、虎視眈眈として、あらゆる機会を狙っているのだと云う…。…私の過去には殆ど経験しなかった「企業秘密」の重大なことがらを理解したものの、一般俗世間では…どうして、こんなに口さがないものであろうかと思えてならなかった。誰が…ご注進したのか知らぬが、毎日必死で生きている…この私の姿から何故「不倫」に結びつくような「道化話」が造られたのか一向に解せなかった。…そう云えば確かに…いつかの夕立があった時、奥さんが調布駅に傘を持って来てくれたことがあったけれど、それは鳥居氏の指示によるもので…、相合傘などする筈もない。だが、奥さんの美貌は人目を引くから、何も事情を知らぬ第三者から見れば中年男女の「道行き」にしか映らなかっただろうし、憶測が実しやかに伝えられるのは無理もない。…「不純」なことはしていないよと…噂話を否定しても「虚構」は一人歩きするだろう。此処で…私は、日常生活にも細心の気配りが大切なことを…再認識をしたのである…。「江戸名残り銀八」のアルバイトは会社には内緒だったから、迂闊に事実を説明して…私の違法行為が発覚すれば…焦点は変わるだろうが、薄給を補う現実的なメリットが失われることの方が大きな問題だから…「わたしにゃぁ、とてもそんな艶っぽい余裕なんか…ありませんょッ…」とさり気ない顔で言い逃れをしたのが功を奏したとみえ、人事課長は…それ以上の深い追及を避けてくれたが…、私の…自重自戒の思いは大きかった。……………………。鳥居氏が発案した企画を破壊するような結果にはならなかったものの、それからの私は…通常行動から逸脱しそうな際どい出来事の場合、充分に見極めるようになった…。その後…、会社の社員住所録から「調布駅」を利用する人で…研究所の副所長が居るのを知ったとき、前後の事情を手繰っているうち、どうも…この人がご注進の本人だったと確信するに至ったが、日本を代表するようなその高名な学者でも、不用意な一言から…、一人の部下を傷つけることまでの配慮は出来なかったのだと…理解したのである。…………………。一九六五年(昭40)十二月初旬…。その夜も鳥居氏は遅くまで店うちで陣頭指揮をしていたが…、突然に脳梗塞の発作を起こして倒れた。この夜、十時頃、忙しかったお客の出入りの切れ間を見計らった私が、奥の仕込み部屋で遅い食事を執っている処へ、真っ青の顔で入ってきた彼の足元は力がなく…もたれこむようによろよろとふらついたが、その侭、前のめりに倒れてきた…。「あぁッ、こりゃぁッ、いかんッ…」私は瞬間、脳卒中の発作ではないかと訝った…。床は板張だから…昏倒したあおりで、彼の頭部を損傷をさせまいと素早く両手を差し出して身体を支え、静かにその場に寝かしつけた。掛け布団を一枚被せただけの彼は全くの意識不明で…私たちは不安になった。家族の者が心配そうに見守るうちに…近所の開業医が駆け付けてきた…。石油ストーブが盛んに燃えていたが、その日は特別に寒い夜だった…。仕切り壁を隔てた向こう側は割烹料理を表看板にする店にとっては演劇の舞台とも云うべき板場なのだから、私たち楽屋裏の愁嘆場は極力抑えて控えめにしなければならない。皮肉なもので…其の夜のお客は普段に増しての立て込みようで、威勢のいい「板前」の甲高い…いなせな受け答えが…ぽんぽんと矢継ぎ早に聞こえてくるのである。「先生、患者の容体はどんなものでしょうか…」…私は…それだけが気掛かりだった。「命には関わりない症状ですから、この侭、寝かしておいた方がいいでしょう… 多少寒くても此処で…動かさない方が後々の為によい結果になりますから、くれぐれも念を推しておきますが、頼みますよッ…、では……明日また、診察にきます……」私は…病人の付き添いを奥さんに委譲して…店の「手伝い」に出た…。「板場」は…若い衆の二人が天手古舞する繁盛ぶりで…その夜の出来事が、後日の語りぐさになったのだが…、その夜の「のれん」を降ろす深更になってから、中年の「花板」氏が「楽屋裏」に戻ってきたとき、奥さんの前に正座して両手をついた……。「あっしらにとっては…『お客』をそらす訳にいきませんので、今まで失礼しておりましたが…お許しくださいねッ…、旦那にも後で、お詫びしなくっちゃぁ……」「そんなことォ気にしないで……」…何気ない顔で応対して…その場は過ぎたのだが、鳥居氏は…その日を境にして…三日間も、同じ場所に寝かせて置く状態だった。医者の許可が出てから、二階の部屋に担ぎ上げても依然として…昏々と眠った侭だった。とても尋常とは思えない気配が漂い……、家中の者が悲嘆の相好に変わった…。七日目に鳥居氏は意識を回復したが、右半身の麻痺が認められ、言語が不明瞭だった。…「店」の営業は、古株の「板前」氏が、買い出しから仕込みまでを仕切り、私は相変わらず毎日会社に出勤し、戻ってからは…いつものように、夜の仕事を手伝っていた…。………。鳥居氏の容体は…それ以上に悪化しなかったが、好転する兆候も見えなかった…。…一九六六年(昭四一)の正月の頃も、一家の者には沈痛な表情が尾を曳いていたが…病人の容体は入院するまでもない…との診断で…、その侭の自宅療養が続いた。早春の陽気を迎える頃になると…彼の身体は急速に快復が進んで…思ったより順調に毎日の「リハビリ」の運動をこなし…、幸運にも後遺症も軽く済みそうで、言葉もめきめきと明瞭になり、杖は使ったが歩行も出来るようになってくると、取り巻き連中にも何となく笑いが戻って…一時は悲哀の涙に暮れていた奥さんも、愁眉を綻ばせるようになった。私は相変わらず、「スーツスタイル」と「半纏着」の早代わり劇で日を送っていた。………。五月の暖風で…初夏の若葉が一斉に萌えだし、総ての生物が勢いを増して活気が漲ってくると…、彼の身体も見る見る快方に向かい…、以前に近い元気が蘇ってきた…。…その年も七月になった頃……。私は勤務先の関連会社に出向することが決定した…。「ずぅ~っと店に居てもらいたいのだが、君の栄転だし、停める訳にいかないなぁ…」…鳥居氏は淋しそうな顔で、作り笑いをしたが…四十三歳で漸く正社員に昇格した私の「門出を祝う壮行会」だと、その夜の閉店後、二人だけでしんみりと向かい合っていた。「頑張ってくださいッ、社用で東京へ来た時は…必ず寄ってくださいよッ……」所詮…。私達は…それぞれの道を行くのが運命であり、未練は断ち切るしかなかった。例え夜間のアルバイトにせよ、一年七か月の間、人生の厳しさを指導してくれた鳥居氏は…単に侠気の人だけではなく、私には二十ヵ年に及ぶ恩師なのである。万感の想いで…祝ってくれる彼の胸の内を察すれば…正面切って…その顔を見詰められない………。「長い間、お世話になりました…」小声で応える私は、…下俯いて歯を食い縛った…。…八月一日から、茨城県東海村の「日本原子力発電所」に…、全建屋関係の営繕担当係員として赴任した私は、二五km程離れた水戸に居る妻子の許から通勤するようになった。…新時代の先端を切り開く「原子力」関連機能を収容する建物の全部を、一人だけで毎日保守・点検する責任を担う重圧が、私を押し潰すようにのし掛かった…。…半年ばかりが…瞬く間に過ぎ去った…。…「調布」に度々連絡をしたが…「無理さえしなけりゃッ、まあぁ、この頃は結構動けるようになったょッ…」と…元気な答えを聞いた私は、安心して毎日の業務に励んだ…。………。…二年半…。どうにか…無事に勤務して、出向契約が解除され、私は東海村を離れた。…今度は母体会社の水戸営業所に転務となり、久方ぶりの野丁場で、慣れない現場通いは…また別の…新たな技能を要求されるから、慌ただしい毎日で…忙しかった…。小人数で運営する建設現場は文字通り火花が散るようで、私の生活リズムは一変した。…鳥居夫妻も気掛かりだったのか、同伴で水戸まで出向いてきたが、私の安定した生活を見ると気が済んだらしく、再会を約束しながら、調布へ戻って行った…。鳥居氏の容体は以前に近いまでに快復しており、顔色も良く、気力も昔宛らであった。………………。…一九七十年(昭四五)の八月頃…。予想もしないことが起きた。…妻の「美登里」がしきりに身体の不調を訴えるようになり…診察を受けさせると…精密検査の必要があると云われて、数日後…心配をしている私の勤務先事務所に…、担当医から電話が入った。「胃癌」を通告する冷静な医師の声に…胆を潰した私は直ぐ病院に駆け付けた…。「過去の臨床例からも…病名は患者には知らせない方が賢明かと存じます…」とアドバイスする主治医の人間味に心服した私は、その言葉に従う方が…良いだろうと思った。「胃潰瘍なんだってさッ…」こともなげに云う…私の言葉を素直に信じてくれた妻に…「入院して…手術をした方がいいょ……」と奨めてみたが…中々応じてくれなかった。「手術が恐いから…」…薬物療法だけにして貰えないかと言いだしたのである。「胃癌」の病名から「死」を連想する恐怖感は…その事実を隠そうとしている私より、万が一、真実を悟った妻の方が打撃は大きいだろうし、落胆の有様を見るに忍びない。 私には何としても…事実をひた隠しにする平然とした態度が必要で、慎重になれば尚更に…ぎごちない言動になってくるので、入院を奨めるだけでも気骨の折れる話だった…。…二十歳の娘と、十八歳の息子の方が、意外な気丈さで…逆に「親父」を励ましていた。…前後の事情を判断した娘が「会社勤務」を退めて…介護人を務めるることに決まった。結局…。十月末に入院した妻の…「胃全摘手術」は翌月初旬に行なわれた…。「この手術は患者さんの苦しみを緩和するのが目的ですから、成功しても病気が治ると思わないでください…。奇跡を祈っても、後での落差が大きいだけ…つらい思いが激しいですからねッ…」と主治医は…私たち親子に「覚悟」の必要を求めた…。「生き永らえる期間は三ヵ月程でしょう。それも保証の限りではない…」と聞かされた…私たちは返す言葉もなく…観念したが、一日でも永い命であるように…祈っていた。十二月の末…。「あと、ひと月ぐらいは持つ命でしょうが、最後の慰めになるでしょうから、ご自宅へ戻って、お正月の…食べたい物があれば…ご自由になさって結構です…」退院許可が出たことを…少しも喜べない状況だったが、努めて明るい態度を装った私たちは…痩せ細った妻を…タクシーに乗せて…二kmと離れていない自宅へ連れ帰った。「腹膜炎の兆候になりましたら、患者さんは苦しみますので、直ぐ病院に電話してください。わたしどもは…いつでもその用意をしておりますから、ご安心ください…」そんな約束事が頼もしいように思える一方、それが私の耳に虚しくこびり付いた…。…しばらくの間は一進一退だったが、密かに祈った奇跡も起こらず…再入院した七日目の三月一日の早朝に、妻の容体が急変し、正午頃に息を引きとったのだが…、その直前の妻は…意識も薄れた筈なのに最後の気力をふりしぼるように私の手を握りしめて、こと切れたのは、二十一年間の夫婦生活の終局を暗示する無言の情交を懐わせた瞬間であった。…想えばその昔の不遇時代…。いつも元気の足りない私を…立直らせようとした鳥居政夫氏が推薦してくれたのが「美登里」で…、二人が見に行った場末の映画館や、裏町の蔭には…未だ其処かしこに焼けトタンで囲ったバラック小屋が残っていた頃だった。互いに薄幸の家庭に育った生活環境が似通っていた二人は…暖かい愛情に飢えていた。永い「戦争」で抑圧され、虐げられてきた挙げ句、平和に戻った日本だったが「敗戦」の後遺症を三年も引きずって、耐乏生活から抜けだそうと焦る混乱状態の世相では、人心も荒廃して…義理も人情も忘れられて…日本の未来像を占う余裕もない有様だった。その渦中で…若い二人が励まし合い、愛に目覚めて、明日の幸福を夢に描き…結婚したのだが、全てのお膳立ては鳥居氏が取り仕切ってくれたからこそ、実現したことである。だが…その後は…山あり、谷ありの悪路ばかりの年月で…楽しかるべき団欒の日はあまりにも少な過ぎ、挫折を繰り返す日々が繰り返された…。…夫婦生活さえ何度も破綻寸前の危機に曝されたが、其の都度、鳥居氏に激励されて立直り、不況を乗り越え…なんとか活路を探し求め、切り開いて今日に至ったのである…。…この近年…。漸く経済的にも…些か余裕のある暮らしが保てるようになった矢先に、かくも辛辣な悲劇が待ち受けていようとは…考えもしなかった私は…恵みの神に突き放された衝撃にひとたまりもなく…打ちのめされて、喚き散らす声も出なかった…。…とり残された寂寞感は…宛ら、暗闇の砂漠を彷徨っているような空虚な想いだった。「妻の死」は…昨日まで自信有りげに振る舞っていた私の見せ掛け手法を忽ちに脆弱な「顔」に変え、思考能力を減退させて…「企業戦士」の致命傷となった…。葬儀の当日はとりわけ気温が低く、傷心…で気力が萎えている私は…終始震えていた。…この告別式には…鳥居政夫氏の姿は見えない…。「妻の死」を私が…報告しなかったからである。その年…水戸地方の気温が平年を下回る低温続きだったことを第一の理由に、敢えて報せなかったのだが、その非常識さを軽蔑されたとしても、真剣に考えた末のことである。「重病死」を急報すれば、鳥居氏には…晴天の霹靂として、強いショックを受け…葬儀に駆け付けたとしても…、北関東の低気温に堪えられる筈がないと…私は推測をした。折角好転した彼の病状を、ことによったら……悪化させる誘因になるかも知れず、後日になって…何と云われようとも…止むを得ないことだと、意を決したのである…。妻の死は…慟哭そのものだったが、それに加えて…病身の鳥居氏が容体を悪化させたならば、それこそ末代までも「悔い」を残すのではないかと…私は一途に思い詰めた…。…………。水戸の気温が上昇する五月になってから…、私は「調布」へ電話をした。「陽気も良くなったことですし、大洗海岸で潮干狩をしませんか、お揃いで一日お寛ぎの予定をつくってください……」貧乏ばかりしていた私が、そんな招待が出来るようになったのかと彼は喜んでくれた。「それじゃぁッ、ご好意に甘えるとしょうかねッ…」…日ならずして…鳥居ご夫妻は水戸の我が家を訪れたが…。…異変に気付いた彼に問い詰められて、私が無言で示す…未だ真新しい仏壇と位牌を前にして…暫しの間は、どちらも言葉に詰まっていた…。「…許してくださいッ………」…両手をついた私は…その一言を云うだけが精一杯で……身の縮まるほど辛かった。鳥居ご夫妻は互いに顔見合わせていたが、おもむろに懐紙を取出し、何がしか包むと、香典として仏前に供え、線香を燻らしたが、怨みがましい顔を見せる風でもなかった…。…「あんたは苦労するために、この世に生まれてきたような人ですねぇッ…」「…………」…ご夫妻は……、水戸の観光もそこそこにして、東京へ戻った…。…浅はかな憶測で葬儀を報せなかった「誤り」に気づいたが、取り返しはきかない。私は自分の至らなさを後悔し、その無能さを自嘲したが、虚しさだけが影を印した。…ただ、申し訳がなくて…こみ上げてくる涙をどうすることもできなかった…。…暫らくの期間は謹慎する気持ちで酒を控えていたが、心の晴れない日が続いた。…妻を失った衝撃と鳥居氏の不興を買った淋しさに堪えられなかった私の連日連夜の盛り場歩きが…職場の嘲笑を誘ったらしいが、日を重ねる毎に益々酒色に溺れ込んでいった。…建設現場の職務だけは辛うじて務めたが、職場での信用は低下する一方で、直接の上司になる作業所長が、見るに見兼ねて…懇々と意見をしてくれたのだが…放蕩が止まるまで三年近くも遠回りをして、人生の表裏に絡る傷の痛みを、思い知らされた年月だった。…漸く…気を持ち直した頃…、鳥居政夫氏の容体が再び悪化したことを知ったのである。神奈川県下の温泉療養所に入ったと云う報せに私はひたすら彼の快復を祈っていたが、毎日、目先の仕事に追い捲くられて…「お見舞い」にも行けない自分が情けなかった。そのうち彼が…「調布に戻った…」との連絡を受けた私は、三年にも渉る非礼を、お詫びをしなければ申し訳ないし…、恥を忍んで再会をする気になった。「鳥居さんの容体は…どの程度なんだろうか……」それだけが心のわだかまりだったのだが…、私を待ち受けていたのは、予想以上の重体でやつれ果てた…彼の顔だった。………………。…その後も私は…何回か調布を訪れたが…彼の容体は回復の兆しどころか…、会う度毎に悪化していき…不運なことに、追い打ちをかけるような発作が二度、三度と彼を襲って…会話も許されない重病人になってしまった…。…見舞い帰りの電車内で、声を押し殺して泣く私の姿は車内の注目の的だった。不審気に見る乗客の視線を全身に感じながらも堪え切れない嗚咽なのである…。………………。一九八六年(昭六一)七月三十一日…。遂に…鳥居政夫氏は帰らぬ人になった…。…私は、夫人を援けて…葬儀の式次第を最後まで見守りたいと願い…調布に駆け付けた。…永い期間の闘病生活にも拘らず、その病状好転は殆ど望み薄だったと聞かされて、在りし日の…彼を忍んで涙する者もいたが、大部分の者は…この「弔い」が、十年に余る家族の難儀を終了させる式典として、これで…一段落したのだとする同情心を寄せていた。…水戸に帰ってからの私は、体中のたがが急に弛んでしまい、気力も朦朧となり、毎日茫然として……我が家の崖下を流れる人気もまばらな那珂川辺りをうろついていた…。…半世紀に近い星霜が流れ過ぎた軌道には…二人の意気が合致した幾つかの物語りと、…何回も繰り返された「出会い」の不思議さを…意識せざるを得ないのである。離れたかと思っても亦合流する奇縁の数々も全て前世の因縁だったのだろうか…。…波瀾万丈の「いきさつ」で…転けつまろびつ…つい昨日まで続いてきた運命を追想していると「走馬灯」を楽しむように、懐かしさばかりが込み上げてくる。私一人が…この現世に生き残るのは…これも神が与えてくれた試練なのだろうか…。…彼は…容体が急変する直前まで、水戸で暮らす私の身を案じていたらしい…。恐らくその脳裏には四十年前の意気地なしだった「保科」が出没していたのであろう。…重度の言語障害だった彼は…それでも安堵の表情をしていたと…ご令閨は語った。………………。数年前の或る日……。電話に伝わる会話でも…「うぅッ、う、うぅッ…」と言葉にはならなくとも…、彼の胸の内を推察できる私は…嬉しさを抑えきれなかった…。僅か数秒の声なのだが、それは永い年月に発生した事どもの全てを語るに匹敵する迫力に圧された私は息を咽んで瞑想した。鳥居政夫氏の想念には「保科」がいたのである…。然し…、奇しき因縁に結ばれた交流も…、去年の夏を最後にして終止符が打たれた。…あの真夏の葬儀が済んでから…、百か日の秋の法要にも私は回向が許された…。「故人の供養になりますので…」と遺品の革靴を「形見わけ」で頂戴したが、背丈が異なる二人の…足のサイズが奇妙に符号したのは、今まで気が付かないことであった…。…有為転変の人生では何処で、どの句読点をつけてよいのやら、無我夢中で生きている本人には判断がつかないものだが…、二十五年前の鳥居氏が、現在の「江戸名残り銀八」の店を出した原点とも云うべき「おでん」屋の曳き売りで、…将来への活路を求めて再起を図った頃には…私の方も東京を食い詰めて…「水戸」へ逐電したのだから、期せずして展開した二人の鮮やかな葛藤は見事な「句点」を要所、良所に印けていたことを知る…。…戦後の苦闘時代を経由して、江戸名残り銀八の開店に到るまでの十七年間をも含め…苛酷な運命に操られる二人は、想像を絶する環境の淵で、明日の自分を模索していた…。厳しい世相を見たけれど、互いの家庭生活でも「生と死」を二分する悲劇を演じた。…………………。昭和六十年の三月末日…、私は「清水建設」を退職したが、未だ六十三歳にしては情けない程、健康を害なっており「束縛」の勤務から解放された身体を、先ず健康回復を図ることを日課とし、約二年間の目標で、リハビリテーションの効果に望みを懸けた…。然し…「職業」が…男の表芸だとするならば、人生を大別しても…職を失った者は如何なる理由があろうとも「抜け殻」同然…で、社会構成の埓外のような生活になり易い…。可成…気を引き締めていないと忽ち老け込んで、残る人生をも無茶苦茶にしてしまう。…私は…、営々と培ってきた過去を…無意味なものにしたくなかった。…どのような緊張感を維持するべきかも分からず…手探り状態のうち、強烈な刺激を受けたのは皮肉にも一年後の七月末に「鳥居政夫氏」が、この世を去ったことなのである…。それからの私は…例え未練だと言われようとも…若し、あの方が今日まで健在だったと仮定したとき、あらゆる事態が…予想もしない奇想天外の場面となって、随所に展開されたであろうことを…毎日、頭に描いているのである…。四十年間の努力により…私たちの日本は絢爛豪華な生活を謳歌し、目の眩むような贅沢三昧が珍しくもない現在、使い捨て方式を「消費の美徳」と宣伝したけれど、あの鳥居氏に云わせれば…どんな見解で…この社会現象を認識したものかと…興味を抱くのである。喧し屋の「おやじ」として…大勢の取り巻き連中の頂点に君臨して毎回、愉快なイベントを企画し、彼ならではの奇抜な発想で、私たちを「あッ」と驚かせているに違いないと想像するのだが…、なんとしても…惜しまれてならない……。私たちは…過去の人生を踏み台にして、人間的にも、社会的にも進歩を成し遂げていくものだが、再び帰らざる…亡き人々の追憶に溺れたり…ひ弱な感傷に浸っていることは女々しい態度だと避難されるだろうが…敢えて云わせて貰うならば、心に刻み込まれた哀惜の念や…歓びに咽んだ名場面などを、簡単に忘れては済まぬと思う。残された者が生きていく課程で、物質の量だけを生活の支柱にする想念は、何としても排斥したいのである。あの…「湖南会戦」の後期を飾った「赤蘭村」での「水牛事件」も、当時の軍司令部による無謀な侵攻作戦に伴う…徴発と云う、人間性を無視した「暴虐」であるが…その時、震えていた下級兵士の私たちも、月日を送るに従って…漸次逞しい兵士に成長した。…それから…三十数年後の東京では、誰の命令も受けないで個々の人々が、必死の生存競争を繰り広げて、労動通してきたのである………。当時…、五年ぶりに再会した二人の「湘桂作戦」の懐古談は、…気力を奮い起こす起爆剤になったのはまぎれもない事実であった。然し…鳥居氏が病気に倒れてからは…それも途絶えた。ましてや…彼が不帰の人になってしまえば、あの「戦場物語」も風化してしまうだろうと観念していたのだが…図からずも…「トセ三会」の通知を手にしたことで…再び記憶が逆流し、タイムスリップしたように貴重な思い出が蘇り、私を深い陶酔の境地に誘い込んだのである…。

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