世田谷・宜昌の想い出

12.世田谷・宜昌の想い出
                     斎藤 博 

 昭和の年号も平成と変わり当時の壮丁者も白髪の老人となり、戦友会で逢ってもしばらく判明せず、昔の戦友に戻ると話は尽きない。生死を供にした戦友とは利害を抜きにしたその絆は誠に堅い。思い違いや誤りはあると思うが、世田谷や中支宜昌での兵隊生活を断片的であるが綴ってみたい。

入営

 私は上州の生まれ、昭和十四年一月十日現役兵として野重八補充隊の門をくぐった。所属の中隊長は年配で温厚な星野大尉、内務班長は田島軍曹、班付は鹿島候補生、先任上等兵は物静かな三宅上等兵と記憶している。初年兵を前にしての班長や班付の堂々たる態度、この人たちも一~二年前に入営した者と聞く。軍隊と云うところは早急に軍隊人間を創り上げるものだと感心した。恐ろしいと云われた夜の内務班も馬鹿な私的制裁は少なかった。補充隊の故もあったかも知れない。点呼の際の週番士官巡視、菊地少尉、天貝少尉等の溌剌青年将校振りが目に浮かぶ。何で叱られたか判らないが「貴様等は馬にも劣る……」と怒鳴られたのは忘れられない。隣の「野砲一」は起床も早く寒風に晒され乍ら手を赤くして馬の蹄洗い、有難いことに当隊は火砲の手入れくらいで同じ砲兵隊でも随分違うもので野重八で本当によかったと思った。

文人聯隊長 船引大佐

 聯隊祭は兵営を開放し一般の人々との交流を図る親睦の催し物である。営内に特設の舞台を作り近隣のお嬢さん方を招き、唄や踊りを披露するなど大いに湧き立った。それ以外にも営内に時々クラシックの美しい音楽が流れた。軍隊に居ることを忘れる思いがした。文人聯隊長のユニークな情操教育による統率であったと思う。練兵場の今昔炎天下の砲車の非力挽曳で肩に食い込む太縄の痛さは皆一度は経験したろう。その練兵場もすっかり近代的な公共施設の立ち並ぶ街となり枝ぶりの良かった赤松も消え、昔の面影は全くない。先輩の努力により「野重八之碑」が自衛隊の一角に建立されたのが幸いである。私は昭和三十年頃からこの地に移転した建設省国土地理院に勤務していたので、その変貌ぶりを目にし、若き日の汗と埃りにまみれた訓練を懐かしく思っていた。

中支十五聯隊へ転属

 古ぼけた軍隊手帳を開いて見ると、昭和十五年七月独立野戦重砲兵第十五聯隊に転属となっている。同期生一同聯隊本部前にて、緊張して大木聯隊長に転属の申告を行なった。「君達若者は何も考えず馬車馬の如く進め」であった。この訓示は今でも若者に与える相応しい言葉だと思う。玄界灘、揚子江も無事航行し、旬日にして武昌に駐留している聯隊本部に到着した。到着の申告のあと、ガンジー翁の風貌よろしき湯野川聯隊長は難しい訓示は抜きにして開口一番纏足の風習などユーモラスに話され固くなっていた我等をリラックスさせた。流石に第一線の部隊長は違うなと思った。初めて見る大陸の景色や風俗は珍しいものばかりであった。

  宜昌の第四中隊へ

 所属中隊は宜昌の第四中隊となった。全く樹木もない丘陵地帯を延々と砂塵を巻き上げ陸路自動車行軍の追及であった。一応の兵站線は確保されているものの、いつゲリラに出会うかわからない緊張の連続であった。中支の夏は暑い「電線に止まった雀が焼け落ちてそれを食べた猫がヤケドした」などとダジャレが云われる程であった。その八月下旬宜昌に到着した。大隊長は小柄なハスキー声で紳士的な小原中佐、反して中隊長は如何にもタタキ上げ万年大尉を思わせる豪放的な土橋大尉であった。「小さいことにクヨクヨするな、今期戦闘を愉快に行こう」がモットーであった。形式や規則は嫌いのようで、軍隊でうるさい敬礼なども無頓着のような型破りの隊長であった。反面細心の愛情をもって兵に接し大きく中隊を把握し、部下の信頼は厚く、赫々の成果を挙げられた中隊であったと思う。東山寺の空襲や補充兵の暴発事件などで無念の泪に咽ぶ中隊長の陰の姿は今でも忘れられない同期生では清水、鈴木、青木、田中、青木葉君等も四中隊付となった。私は観測小隊付となり小隊長は富川少尉、班員は松丸、太田さんなどベテラン上等兵の他藤田、荒中、山口、田島、小祝、野沢君など元気者が多かった。不足勝ちの食糧も上手に調理してくれ楽しい食事が多かった。クリークから掘り出した蓮根の油炒めは今も思い出す。夜もチャン酎で廃油ランプの煤をかぶりながら夜更かししたのも忘れられない。

   敵機拿捕事件

 中隊は東山寺裾の高地から飛行場のある海軍施設部跡に移った。昭和十七年何月か忘れたが中華民国軍マークの一機が宿営地スレスレに飛来しアッと云うまもなく着陸した。応戦する間もなく、水沼准尉は日本刀を抜き払い操縦室に向かって何か叫んだが通じたかどうか、中から立派な飛行服の操縦手が手を上げて降りて来た。飛行機の機関銃はこちらを向き遮蔽物も何もないので気持ちのよいものではなかった。一発の発砲もなく幕切れとなったが、重慶から投降したとのことで直ちに第十三師団司令部に連行された。この頃になると、揚子江の対岸から十五榴級の砲撃が時々あり、不気味な唸りと闇夜の炸裂には悩まされた。「位置に付け」の中隊の応戦十加の威力は敵を沈黙させた。逆に見えない処から飛び来る砲弾の威力、砲兵の真髄なるものを知らされた。中隊は宜昌から金沙舗へ、幸か不幸か大なる戦闘に参加することなく十八年三月中隊と別れ、懐かしの世田谷の原隊に帰還、営庭の桜を身ながら退営となった。

                               (平成二年十月記)

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