湘桂作戦私史

13.湘桂作戦私史
                    内田比呂志(博)

 昭和四十六年頃のある日、突然陸上自衛隊富士学校より私の編集室(………)に電話が入り、内山隆陸将補の元気な声が飛び込んできた。内山氏は陸士51期の出身で独野重十五時代は第二大隊長などを歴任され、私はその大隊副官として仕向した。復員後、自衛隊に入隊、第二特科(砲兵)連隊長、第九師団幕僚長、防衛大学教官を経て富士学校教導団長の要職にあった。(惜しむらくは退職後昭和五十九年年十二月一日不帰の人となられた) 電話の内容は 「内田、珍しいものが手に入ったから富士まで出て来ないか」ということである。池の鯉じゃないがそう云われては引き下がれない、早速車を飛ばして只今参上と言って驚いたことには、団長が持っているのは紛れもなく私達が死に物狂いで戦った湘桂作戦の第二大隊の戦闘詳報ではないか、「第三次長沙作戦戦闘詳報」、「桂林攻略戦闘詳報」の二冊である。これは私が大隊副官当時編集印刷作成したものであり、表記に捺印されている「内田」の印鑑は今も所持している印影に違いない。団長の説明に依れば終戦復員時陸海空全部隊の戦闘関係資料は何十万部という膨大なものだそうですが米国のペンタゴンに永久保存として格納された。最近その一部が防衛庁の要請で研究資料として解除されることになり、その第一陣として返還された数少ない中から、その二冊が奇跡的にも発見されたということである。私としては正に正倉院の御物でも手にしたような感動を覚えた。その「詳報」から当時諸情勢から記載を外した部分をタイムカプセルから引き摺り出して、知られていない戦争の真髄に触れてみるのも興味深いと思う。

湘桂作戦は 昭和十九年五月二十七日、第十一軍(司令官横山勇中将)主力の粤漢鉄道沿岸いに南下するのを以て戦いの幕が切って落とされた。参加する兵団の戦闘序列は…。 3山、13鹿、27竹、34健、37光、40成、58広、64開、68佐、116岩の十箇師団(数字は師団号数、漢字はその秘匿名)に、針、峰、滝の各支隊を加え、更に独野重 15、独野重 14、独攻城重砲 6 大隊の他、軍直諸部隊を網羅して総兵 52 万、建軍以来の大作戦である。私達の部隊は水上機動により湘江を遡航することに決まり、今までに体験した事のないことのみ多く、諸事ことごとく予想外であって、次から次へと裏目、あべこべ、どんでん返しの連続で、今から考えても背筋に悪寒を覚えるのである。火砲、重車両を岳州より舟艇に積載、一路長沙を目指すこととなる。船団は十船列に分かれ私の指揮する第5船列は船団の最後尾を航行することになる。時に満月湖上を照らし、舳艫相ふくむ威風堂々の船団が怒涛を蹴って、となれば絵柄になるのだが、中々そうとはいかないのである。私の船列などは十メートル進んでは十メートル流され、夜が明けてみると乗船した時の桟橋が左舷にそのままへばり付いている。つまり曳行船の機関出力が被曳行の火砲、車両の加重に耐えられないのである。燃料、弾薬の一部を卸下、夕刻再度出航を試みる。船列は漸く復旧、いよいよ洞庭湖に突入する。一旦、鹿角付近の湖岸に昼間退避のため接岸休止、数時間後呼集かけた時には操舵、機関を任せていた華人青年二人が逃亡したことを初めて知った。後の祭りである。乾パンや煙草を特別に支給して、ありったけの好意を見せておいたのだが、それが裏目に出た。このままいたのではいつか殺されてしまうと早とちりしたのかも知れない。事実これには参った。船列の下士官兵の中には誰も運航の経験者がいない、機関の方は吉成曹長が何とか出来るといって呉れるが、肝心の操舵は誰も手を出さない、命令は万難を排して速やかに船団に追及すべしである。こうなっては仕方がない腹を決めた。生まれて始めて操舵桿を手にしてみる。左右に回転してみると遊びが大きいだけで自動車と余り差がない、これならばいけそうである。今ならば早速無免許、船舶運航法違反の大罪であるが、思い切って機関をかけ、水面に躍り出てみる。「ヨシッ、出発!取り舵いっぱいー … ヨーソロー …」頼みますよ、快調であるが、内心緊張で今にも息が止まりそうである。上流からは大きな樹の枝や家屋の破片、舟の残骸、牛や豚時には敵兵らしい死体など漂流物が止め所なく流れてくるが除けるのに一苦労する。機雷なんか嫌いなどシャレている場合でなく、暗黒の河面に浮き沈みしつつ流れてくる姿は不気味な妖気に包まれ、目が眩む。近寄ってきた機雷は先に笹のついた竹竿で静かに遠くへ押しやる、舳先に陣取った機雷監視は寸時の油断もできない。中には昼間の過労で安眠をむさぼる兵もいる。これを高橋軍曹が眠らせまいと日頃自慢の美声で叩き起こす、逆巻く怒涛を越えて得意の『勘太郎月夜唄』である。
 ♪ 影か柳か 勘太郎さんか
    伊那は七谷 糸ひく煙り……… 
 打ち寄せる波間をコードに変えて…哀愁のメロデーは快調の遡江作戦、船脚も心なしか軽い…。……… ヨーソロー…………。桂林を全射程に捉える五全村の放列陣地に第四中隊の先陣が到着したのは、衡陽を攻略してから三ヵ月目の十一月七日であった。下弦の月も雲に隠れてか付近は全くの漆黒の闇、その中をギュウ、ギュウと僅かなキャタビラの音を噛みしめるようにしながら砲車が一門づつ無灯火の下で陣地進入してくる。完了したのは0二三0、そして全射撃目標に対し、射撃準備が出来たのは、その日の一六00であった。それから数分後に火砲一箇分隊が全滅的損害を受けようとは誰も予想しなかった。その砲車の頭上を覆うように広葉樹の巨木が茂っていて、その一本の根から六~七メートルの処に下枝を払って幅50糎位の帯が、白いペンキでくっきりと描かれていた。つまり敵が一ヵ月前から用意した測地の標定点の真下に砲車を入れたのが不運と言えば不運であった。直撃弾を受けて火砲と運命を伴にした分隊長以下の尊い犠牲に対しては、心から哀惜の念を禁じ得ない。桂林の総攻撃は、野戦重砲の諸部隊の全部が出揃うのを待って十一月九日午前零時を期して一斉に秘噴く。これには、さすが難攻不落を豪語した桂林も、いま地軸を揺るがす轟音と共に活火山のマグマが沖天に紅炎を噴出するが如く、城内掃討中の機関銃の銃声も一段と熾烈を極め、将に地の果てを行く怨念の形相をそこに見る思いがした。特に直協の宮師団、小芝部隊との間で、桂江敵前渡河に協力の為、渡河点、伏陂山等に火力を集中して渡河を成功させる大戦果を挙げた。これは猫児山に進出した大隊補助観測所の柳沢指揮班長、米桝通信係将校の二人の果敢な行動に負う所が多い。これらの様子は防大教授佐々木春隆著『桂林作戦』等の他部隊戦史と読み合わせてみると同時刻、同地点での符号する場面が随所に出てきて、戦闘が自ら立体的になり興味が一段と倍加する「戦史を面白く読むコツ」とでも謂うべきか。私は総攻撃の翌日大隊長と共に前進、観測所を推進すべく地雷原を突破して入城した。思えば 部隊は上海大場鎮の戦いから今日迄七年間の歳月を経て、ここまで実に二千粁を越す道程であった。入城の印象を歌に託し、自作詩作曲で題は「桂林小唄」とした。

 ♪ 広い曠野を よいとさ 疾風の如く
   やって来ました 二千粁
   ここは桂林 花の街
   ドント ドント ドント 撃ちまくれ
   トセ トセ トセ 東世部隊              (二、三番略)

花の街は実際に黄、紫、白の野菊が城内の随所に咲いていたが、私は寧ろ総攻撃で見た紅蓮の炎の方が鮮烈な印象を受けた。(東世部隊 は東京世田谷の出身を表す 通称部隊名)私達はただ過去の追憶ばかりに拘ることなく、新しい二十一世紀を指向し、グローバルなパートナーシップを発揮し、意外な生命力の恩恵に感謝しつつ、着実に自らの健康保全につとめ、更に優雅な人生を楽しいものにしなければならない。
 …昭和の忘れものにならない為にも……。

                           (続われらの野重八より)

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