初年兵哀歓記(入営記念)

03.初年兵哀歓記(入営記念)
                  初年兵の太山廟哀歓記
             独立野戦重砲兵第十五聯隊 進軍譜
               湖北戦線・襄西の戦野を駆ける
               十加部隊のキャタピラーの轟音

                 初年兵の太山廟哀歓記

           
  昭和18年2月中日…。私に召集令状が届いて東京世田谷の 東部第72部隊(野重八)に入隊することになった。 当時の中国大陸では約6年前の北支の廬溝橋事件と呼ばれる日中両軍の小さな衝突が途方もなく拡大しており、日本国内では「支那事変」と称したが…事実上の日中戦争になっていた。 その紛争中の昭和16年12月8日の未明…。日本海軍航空隊は「ハワイ真珠湾」の奇襲攻撃や西太平洋上に於けるイギリス海軍の機動部隊への全面的な総攻撃を挙行したのである…。 我が陸軍では「ビルマ進駐」、「比島コレヒドール・バタァーン攻撃」を初戦として南太平洋に浮かぶ諸島に進攻したが、戦況としては当初の連戦連勝の報道だったのが一 ケ 年の間に…東部ニューギニァの苦戦・ガダルカナルの撤退等、隠しきれな い苦渋の様相を露呈し始めた…。 大本営陸海軍報道部の発表も…僅かながら、それを仄めかすような表現に変わってきた頃である…。 中国湖北省では第11軍麾下の第13師団(仙台・赤鹿理中将)が江北殲滅作戦の真っ最中で…進む所敵なしの誇大報道が、南方戦線の暗い影を覆うようにして日本国内に流布されていた。

昭和18年2月入隊

昭和18年2月入隊

 入隊した現地要員の私達60名は陸軍新兵基礎教練を10日程 …それも名目だけの集合教育が済んでから、原隊の古参兵等約60名と共に、同部隊を原隊とし…、同系列編成で…現在中支の湖北省襄西部沙荊地区に在る「独立野戦重砲兵第15聯隊」 に馳せ参ぜんとして勇躍出征したのが4月1日のことだった。 下関より釜山港に上陸、桜花が満開の朝鮮半島を列車で縦断。鴨緑江を渡り、その儘南満州の「台虎山」を通過した時は辺り一面雪景色で、夏期軍装だった一同は貨車の隙間から侵入する寒風に震えながら「山海関」を経由し…「甫口」、「南京」に至る。此処で6日程待ってから大型汽船にて「揚子江」を遡航…。「漢口」で下船し、この「転属・入隊兵」を受け取りに来た「第15聯隊」のトラックに乗せられて「金沙舗」に到着したのが4月20日のことだった。  新入隊者約120名は一週間後に同 聯隊の各隊に振り分けられた。 私が入隊した「第2大隊段列」は「太山廟」地区に営舎があって…此処は重砲兵部隊の戦時編制の「輸送機関」として別棟を保有し、トラック12台と乗用車1台、連絡用の側車(サイドカー)を持つ小編成の「隊」で、隊長(段列長)以下約90名であった…。 私達「新兵」6人の実戦用基礎教練が本格的に開始されたのは「5月1日」からである…。 「今度来た初年兵は員数外なのか、腑抜けばかりで、使いものにならないッ……」 二言目には口汚く罵倒される私達は…小人数の悲しさで、殆ど正規の初年兵扱いにされず、単なる補欠兵扱いだったから、丁稚奉公の徒弟にも劣る侮蔑を受け、半端者として差別された…。 大隊段列は臨時体制だから、正規の教官将校及び助教下士官等は勿論存在しない。従って実務的な教練を指導するのは古参兵がこれに当たった。その時は、現役三年兵の佐藤実上等兵が選抜されたのだが、彼とても「歩兵操典」の小型教本を片手にしながら…何とか、初歩的な「各個教練」の指導をする程度なのである。 「砲兵隊でもッ、こういう野戦ではッ、全員が小銃の操作に熟練する必要があるんだッ…」2年前の「宜昌作戦」当時に初年兵の佐藤上等兵は苛烈な地上戦闘を体験しているだけに「執銃教練」は特に熱心だったが、詳細な部分になると「教本」を何度も繰り返し覗き見しながらも教える態度はとても戦地の前線とは思えない熱心さだった…。私と「芝田英夫」は兵隊に入る以前、既に…中等学校の軍事教練科目の規定時間を終了していたから、殆ど苦労しなかったが、他の4人は「敬礼」も満足にできない状態だったので、毎日の教練時間になると一生懸命であった。此処の営舎は最前線同様の場所だから、早く小銃操作に熟練しないと、敵襲があった場合、「生命」に関わる大事な技能だから…みんなの顔は真剣だった。佐藤上等兵は…東京の生活が長いと云うことで言語明瞭だから…関東人の私達は安心して彼の指導する技能教練に従っていられたが、彼の同年兵は全員東北出身者で…特に青森、岩手、 山形方面から入営した者の中には…三年兵だと云っても肝心な軍隊用語が…あくの強い北奥羽特有の強烈な鼻抜音の持ち主が居るので、彼らに突然話し掛けられると、簡単に意味が理解できない。彼らは大人数だけに日常の関わり合いも多いから、私 達にとっては、公私に渉って…その「ことば」を正確に聞き分けることが、最大関心事であった…。 やがて…第一期の検閲があったが、野戦のことだから、無事に済んで…私達は軍服姿が一応さまになり、立ち居振る舞いも 板に付いてきた…。 7月の末頃、同年兵の「井戸克平」が突然「船舶工兵隊」に転属することになった。「聯隊命令」だと云うことである…。 彼は東京羽田飛行場付近の小型漁船を操る漁師だったから、その当時の「焼け玉エンジン」の扱いは…お手のもので、操舵手腕は当然玄人だから…「船舶兵」としての基礎技術は十分に備えていた。 今回「転属」となる最大理由は彼の「操舵技量」であろうが、通知を受けた彼は…海の男らしい態度で…、「さては、噂に聞い ていた「特殊船舶兵」だなッ、あれはぁッ…港湾内が戦場だから、人間魚雷みたいなもので、敵の一斉射撃の対象になるだろうょッ、命がいくつあったって足りゃぁしねぇッ、俺が中支の最前線まで来ていながら、まさか、こんな運命になろうとは気 がつかなかったなぁッ…」 「板子一枚下は地獄の海雀…」の海上の仕事をしていただけに、彼は潔く割り切った心境で…「もう…みんなとも二度と会うことはねえだろうなぁッ…」 「井戸克平」が度胸定めた笑い顔で転属して行ったのが、マイナスなのか、それともプラスだったのか見極める術もない日々が過ぎてゆく…ある日。今度はもう一人の同年兵とまた「生き別れ」の事態となった。 それは…、「遠藤巖夫」と云う非常に真面目な態度の男で…、「福島常磐炭坑」の採掘士出身で…これが技量抜群の「炭坑採掘指導員」だったのである。 その時代…、「黒いダイヤ」と呼ばれた石炭は…重要燃料として国家存亡の鍵を握る重大指名を担っていると云われ…「国指定炭坑技能士」と認定されていたので、国家総動員法で…戦力増大運動の推進力たる花形の「産業戦士」として…「即召集解除」のお墨付きで呼び戻されたのである。 日本が「聖戦」を遂行する為には「ABCD包囲陣」の連合軍に対抗しなければならず、保有資源の少ない不利な条件の中で、戦況を好転させる為には各種の課題が山積していたのである。 「太平洋戦争」(大東亜戦争)が開始されてから既に一年有半、この間に…日本軍、必ずしも有利な戦況ばかりとは言えぬ事実が、各地の戦線に転々と出現しつつあった…。 …大本営の思惑とは裏腹に、国内の経済問題等は次第に逼迫し、工鉱業方面の衰微による国力の弱体化は免れず、国運はもはや憂慮すべき状態だったのである…。 中支戦線、沙荊地区辺りからも、次々と…下級兵士の 「持てる能力」がクローズアップで…再評価され、緊急命令で内地に呼び返される程、日本が容易ならざる事態に追い込まれているのかなと、私たちは…朧気ながらも、不安の思いにに駆られ…戦友同士で、声忍ばせて語り合う日もあった…。「なあぁッ、保科ッ…この戦争は並大抵なもんじゃぁないぞッ、生きて帰れるかどうかもッ…わからねぇッ、 日本は抜き差しならねぇッ、非常事態になっちまったんだょッ…」  芝田英夫は年は若いが、東京府下原町田の素封家の当主になる男だから、素寒貧の私などとは違い…世界情勢の展望が高度なのだ…。それが何処まで的確なのか…、言うともなしに洩らす言葉が反戦的の匂いがした。 …私は社会的に低い立場の人間だから、物事の価値判断能力が育っておらず、何がどうなっているのやら、一向に理解できなかった…。  「俺たちゃぁッ、これから…どうなっちゃうだんろう……」〔東洋平和のためならばぁ、なぁんで命が惜しかろうー……〕と、足拍子を執って歌う「軍歌演習」の勇ましい歌詞の内容も、大蛮声に押し潰されるだけで、只の虚しい雑音でしかなかった…。 此処の沙荊地区の状況を大雑把に推量しても…その内に大きな戦闘に捲き込まれていくのではないかな…と私達が生き残れる可能性が薄いような予想ばかりが…浮かんでくるのだった…。 「もう…生きて内地の土は踏めないのだろうか……」 歩兵部隊でもないのに隊伍を組んで「討伐」に出動する古参兵を見送る回数が増えるにつれ、私達が…夜間に小銃を抱えて営舎の周辺を巡回する勤務が、仇やおろそかにはできない重要性を思うと更に悲壮感が伴い、その姿勢には自然と気迫が籠もったのである…。 毎朝の「点呼」時には必ず、週番下士官の注意事項として、…接近する中国軍の動向や、共産軍の攪乱戦法の解説等が詳細に説明されるので、状況が日増しに悪化しているのがひしひしと感じとれるのだった…。 「此処の不寝番でも、ぼんやりしていると、敵のゲリラ兵に拉致されるんだぞッ…」 そればかりか…、日本軍営舎の焼き討ち計画の動きもあるのだと言う…。 「眼鏡付きの銃を構えている狙撃兵が何処で狙っているか分からんので…、道路整備の使役に出る補修班長はその付近の敵状を十分把握して…作業中と雖も絶対、油断禁物………、」 そんな訓示を聞いていると、初年兵の私達でも…最前線のこの地が予期した以上に危険区域になっていることを肯定しない訳にはいかなかった…。不寝番や道路補修は当番制であるが、「段列」は兵員の絶対数が少ないから、勤務や公用で隊外に出る者が多い時には、在隊者は当番順位が早くなったり、何かと多忙で…、日曜日だからとて、外出も出来ないし、暢気な娯楽施設がある訳もなく、初年兵は洗濯と掃除に追いまくられ、運が悪いと朝の「点呼」時に風呂沸かし用の「薪割り」使役に指名されてぼやくのがおちだった。6月も過ぎ、7月も無事に終わり…、緊張間にもなんとなく慣れてきた8月末の頃に「第2期検閲」が間近になると…小銃の「照準監査」、「実包射撃」、「匍匐前進や散開体制」等実技演習は益々厳しくなった…。丁度、その8月中頃に、近々…我が 聯隊に大人数の召集兵が入隊すると言う情報が隊内に流れた…。 日ならずして、それが事実なのだと判明する発表がなされた…。その入隊兵受け入り準備として「太山廟」地区の各隊に…それぞれ設営班が組織されると、殆ど一斉に営舎建設工事が開始された…。炎熱下の建設工事は…防暑帽をかぶっていても、灼けるような太陽光線を浴びながら着々と進んだ。 営舎建築は元大工職の片山兵長の指揮で日々刻々と立ち上がっていく…。付帯工事の道路設置等の土木作業は農家出身の兵隊が多かったので…この仕事は急ピッチで捗った。無能無芸の私は「追い回し」の梃子で…、せいぜい「もっこ担ぎ」の存在でしかなかった…。   (後略)

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