トセ部隊(太山廟篇)

04.トセ部隊(太山廟篇)

文峰塔

文峰塔

…過ぎし日中戦争たけなわの…昭和15年(西暦1940)5月末…。中支派遣第11軍の「荊襄進攻論」が大本営陸軍部より裁可されて…決戦の火蓋が切って落とされるや…。「仙台・第13師団」の歩兵部隊は初戦の「漢水渡河作戦」を決行した。我が「独立野戦重砲兵第15 聯隊」の…援護射撃は的確に炸裂し、敵軍を沈黙させ…壮絶な渡河戦を展開する歩兵部隊の進撃を容易にした…。これぞ軍の骨幹たる砲兵の神髄を遺憾なく発揮したものであり、荊襄戦線に…我が機械化砲兵隊のキャタピラーの轟音が響けば…敵軍はたちどころに退き、友軍は歓声を挙げて称賛したのである…。我が軍主軸の進軍目標は…中国湖北省襄西部の…沙荊地区西端にある「宜昌」であり…其処は、かのロマン溢れる「三國志」の英雄、豪傑たちが栄枯盛衰の葛藤を繰り広げた旧跡地として知られる「要衝」であった…。 当該地を死守する中国軍第6戦区軍を一気に覆滅せんとして進撃する「第13師団」に配属されていた我が部隊は…、これより遡る三年前の昭和12年7月の「廬溝橋事件」に端を発した「支那事変勃発」により…東京世田谷の原隊から出征した…。中国に上陸早々「初弾」を浴びせたのは9月末の「大場鎮」であり…そして「南京攻略戦」には多大の戦果を挙げ、引き続き「徐州会戦」、「武漢攻略戦」と誉れの戦功を記録している。 日本軍は中支那を全面的に進攻し…遂に本格的な「日中戦争」となったのだが…、機械化装備で機動性を誇る…我が英姿は「中支の殿様部隊」と羨望され、通称「トセ部隊」として其の名を知られた…。私が初年兵だった昭和18年3月頃は…その「宜昌」から約70km 程東部の要地「當陽」の近郊で「金沙舗」と云われる一郭が我が 聯隊本部の所在地であった。それより更に東南方向に約6km離れた「太山廟」地点が私達の駐留地である。長江北岸の物産交易所で…その昔、「楚」の都「荊州」の外港として現在も繁栄する「沙市」は…その先40数km南にあって「沙荊地区」全体の物資を司る要衝だった…。 この地を制する戦略的な意味からも「太山廟」地点の警備は極めて重要なのである…。付近の低地を流れる「沮水」の川下約10kmで「沮淞河」と合流する三角地点の傍らに在る「河溶鎮」では…此処に架かる木造橋の袂に軍の通行監視所を設け、農民に紛れ込んで潜入し、日本軍の哨戒所等の破壊を狙う中国軍ゲリラ班の摘発や…街内交易所に集散する農産物等を搬送する民間の川船等も厳しく監視していた…。…当地に駐留する各警備部隊は要所々々に哨戒所を設置し、東方の「武漢」へ通ずる「漢宜公路」や北部の「十里舗」、「荊門」方面への道路を厳重に警備し…例え…小人数の連絡兵と雖もその通行安全を可能にした…。  沙荊地区の各駐留部隊はそれぞれ分担して…この軍用道路の警護と補修を任務としたから…、間接的には各所大小の農産物「交易所」の運営推進の援助も担っているようなものであった…。これが日本軍の威信を近郷近在の住民に広く認識されるよう…軍司令部から徹底した軍紀厳正の命令が下り、この地区の全部隊の将兵は…住民集落の出入や必要物品の購入等の場合にも品行方正な行動を取るように細部に亘って指導されたのである…。遙かに仰ぐ…西方の丘陵には「唐時代」を懐古するが如く…「文峰塔」がそそり建つ…。「太山廟」丘陵の付近には…点々と群がりが目立つ緑濃い林に恵まれ、その静寂な雰囲気が神秘的な魅力となり…思わず心奪われてしまう景観であった…。 朝な夕なの靄に隠れて…様々な野鳥が…辺りの静寂を破って囀り出す中に、ひときわ…けたたましく木霊する奇声もあって…、見え隠れの木々の先端はさながら生き物のように揺れ動いていた…。春のそよ風の囁きを伴奏にして歌いさざめく小鳥たちの声は妙なる音楽の調べに聞こえて…無粋な営舎に寝起きする私達の耳を無性に楽しませてくれる…。 「沮水」の河辺に沿った綿花畑は柔らかな青葉を震わせて立ち並び、何処までも…見渡す限りに生い茂っていたが…何時誰がこれを栽培しているのやら…私達兵隊は農民の影さえ一度たりとも見たことがなかった…。 遠い空に細く立ち上る煙状のたなびきは…土着農民の集落から湧き上がる炊煙らしいのだが…気付くことは滅多にない…彼らの姿を見るのさえ珍しい辺鄙な片田舎の一郭に…私達「第二大隊段列」では形ばかりの「自動車廠」とお粗末な仮設営舎を構えていた…。 毎日が戦闘態勢を軸にした臨時の駐留部隊だから…いつも緊迫した待機姿勢で突発的な出動命令にも敏捷に対応する準備万端は常に整っていた…。 「太山廟」地帯には此の地を統括警備する「第二大隊本部」の営舎二棟と、その隣接地に見える「段列隊」が並び、やや離れた高台には「砲廠」と「車廠」を擁して「第三中隊」が在り、この三隊が合同で「丘陵」を哨戒警護する「衛兵所」を構えていた…。此処の低地には西方より流れくる「沮水」があり、私達の大切な生活水であった。  …その下流の「河溶鎮」分哨所も我が部隊の警備範囲に含まれていた…。 此処に架かっている木造橋は近辺では数少ない貴重な橋梁である。これがあるために物産の交易量が「沙市」に次いでの賑わいなのである。それ故に…敵のゲリラ隊の出没も頻繁だから常に不穏な気配が濃厚で、露天市場の雑踏には兵隊個人での接近は禁止されている程危険な場所でもあった…。街の中央を縦断する「漢宜公路」は、これより西北約90km先の「宜昌」に通じ、当時その地域の最前線では中国軍第6戦区軍の40箇師と「大長江」を挟んで相対峙する歩兵部隊は…「第11軍」麾下の「第39師団」の傘下となる「野地支隊」(野地嘉平少将)の歩兵第231 聯隊(広島・梶浦銀次郎大佐)で…、同支隊は、その後の5月25日に壮絶果敢な渡河作戦を敢行し…一旦は敵の要衝「雨臺山」を占領したのだが、戦線拡大を避けて宜昌に帰還して以来、当該地区の警備を続行することになる…。 この野地支隊を指揮する「第39師団司令部」(広島、山口、島根の藤兵団・澄田来四郎中将)の所在地は「當陽」にある。その6km東北の「金沙舗」に我が(トセ部隊)の 聯隊本部以下各隊が存在している。 この當陽へ…弾薬及び軍需諸物資を搬入し、並びに兵站倉庫に食料品、諸雑品等を搬送する我が軍の生命線とも言うべき(漢宜公路)を掌握することは…、東方約200kmに在る「漢口」の…第11軍々司令部(呂集団)」(軍司令官横山勇中将)への情報連絡や物資輸送を維持確保する重大使命を担っていた…。…各警備隊は個別に舎屋を構えて…一組15人単位の週間交代で昼夜兼行の「分哨所哨戒勤務」を担当したが、微塵の「隙」も見せられない…重要な任務として命懸けの決意を求められていた…。この歳…昭和18年2月末頃から、我が第11軍が発動した「江南(北)殲滅作戦」は隷下の8箇師団を総動員した大規模なもので…、襄西沙荊地域全般に及ぶ攻略戦は熾烈な戦闘の連続だった…。友軍の各部隊が並列して湾曲状態の包囲網を仕掛ける戦術も、複雑な地形の為、随所に間隙もあり…「国府軍正規部隊」は其処を巧みに分散して縫うように…潜り抜けては戦闘体勢を整え直し、精悍な奇襲戦法を繰り出して来る。 各地の日本軍はややもすれば背面から奇襲攻撃を受けて苦戦することもあった…。 「トセ部隊」の根拠地たる「金沙舗」近辺にも敵軍は押し寄せて来た。「太山廟」陣地では砲撃隊の全陣容が出動して人員が手薄になろうとも、営舎の残留兵達は積極的に各班合同で歩兵編成の迎撃隊を構成して周辺に迫る敵兵を排除した。 前線から本隊が帰還すると、その小競り合いは沈静化し、再び出動すれば敵は又接近してくる。そして…夏を過ごし、秋となり…幾たびかそれを繰り返して、冬に入るまで連続したのである…。彼我の攻防戦の…盛んな銃砲声は近在の住人を脅かし、硝煙たなびく夜戦に慄く…犬の咆哮が類を呼んで交錯し、不気味に尾を引き…暗い夜空にこだますれば…営舎警備の巡邏動哨兵が思わず一瞬停止し、固唾を咽んで…闇の一辺を凝視すると…異様な気配が漂っているようにも思える。 その怖ろしさは…時間の過ぎるのを忘れる程であった…。昼間になれば機械整備や野戦訓練に汗を流し、突発的な非常呼集は昼夜の別もなく発せられ、日本軍の前哨戦の破壊を狙う敵軍を阻止する為の迎撃隊や・・・歩哨線上で拉致されて行方不明となった日本兵の捜索隊に指名されれば何がさて置いても出動しなければならない・・・。「太山廟」営舎は文字通り・・・第一線の哨戒地に在るから、毎夜の不寝番は復哨とは云え・・・終始、緊張する。ましてや・・・丘陵地の「衛兵勤務」は・・・昼夜と雖も予断の許せぬ重要任務であり、夜間では・・・月も隠れる闇夜もあり、手探り状態の動哨兵たちは・・・それこそ、生命を懸ける不気味さに・・・思わずの武者震いをして・・・呼吸(いき)を弾ますのである。

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