俺は初年兵(漢口出張)

07.俺は初年兵(漢口出張)

保科 博(左) と 芝田 英夫氏

保科 博(左) と 芝田 英夫氏

 当時、(太山廟警備時代)の第二大隊長は「草葉栄少佐」殿で・・・この人は・・・過ぎし昭和14年の「ノモンハン事変」に若手砲兵将校として奮戦しており、その戦記「ノロ高地」・「ホロンバイル高原」等の手記は・・・単行本として世に発表されるや忽ちベストセラーになった程の文人将校として有名であった。この頃は・・・陸大の受験勉強中で公私共にご多忙なのだと聞いていた。突然、私達7人が200kmも離れている「漢口」へ出張を命ぜられた内容が「大きな声では言えないが・・・、」それは大隊長殿の愛人が遙々東京から現地へ訪ねてくるのを「お出迎え」する護衛兵なのだと云われた。「助手席」に彼女を、お乗せして「太山廟」の大隊本部に「ご案内」すると云う訳である・・・。大隊本部より下士官と兵3名、第3中隊から寺沢林蔵上等兵、松浦誠一等兵と、2大段の保科博、芝田英夫両一等兵の7名がトラックの道中で漢口に夕方の早い時間に到着した・・・。その夜は兵站宿舎に一泊し、翌日「飛行機」到着までの時間待ちのひととき・・・。私と芝田は街を見学の目的で外出した・・・。それは・・・数ヶ月ぶりで電灯に照らされての撮影であった・・・。私達は街のスタジオで「これが俺たちの最後の英姿になるかも知れんぞっ・・・。とオツに澄ました顔である・・・。東京府下原町田の素封家の長男で一人息子の彼は・・・「この戦争で生きては帰れないかも知れんッ・・・、俺たち下っぱの兵隊は生還できないような激戦が始まるんだろうなぁ・・・」と声を曇らせて嘆くのである・・・。翌年3月に発動される「一号作戦」(湘桂作戦)の噂も出なかったその頃・・・、私達は・・・つい5日程前に沈静したばかりの「常徳作戦」での熾烈な追撃墜戦に、彼だけが・・・どう云う訳なんだか出動命令がなかったから・・・、それほど恐ろしい場面に遭遇してもいないのに・・・次期作戦への恐怖心を同年兵の私に臆面もなくさらけ出して憚らなかった・・・。この5ヶ月後・・・。わが部隊は・・・その大作戦に出動したのだが、湖南省の岳州へ進撃したと同時に・・・米空軍攻撃機が大編隊を連ねて連日定期的に襲ってきた。地上の中国軍は日本軍を上回る勇敢な反撃戦を繰り広げ、地獄の戦闘が6ヶ月も続いて、我が軍の戦死傷者が10数万にもなった程だが・・・彼は無傷で昭和20年5月上海へ転戦し・・・、8月に終戦・・・。・・・翌年春に復員して・・・芝田家に戻り、順調に家督を継いで、事業にも成功し、町の名士として隆々した初老の頃、病に冒され・・・急逝したのだと・・・平成の年代になってから「戦友会」での噂話によって・・・私は知ることができた・・・。

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