苦衷時代

08.苦衷時代
 1940年1月…。 荒張戦千五百氏(昭20・3 曹長)は…。 中国湖北省「武昌」西南「金口鎮」に駐留する「トセ部隊・第二大隊」で…、初年兵組の異才として注目されていた…。この時期…。第11軍が企図した「荊襄」進攻案が大本営陸軍部から支那派遣軍統帥部を経て…同年5月に作戦開始を裁可された…。荒張氏の手記によると…初戦の「漢水渡河作戦」は熾烈を極めたとある。同月31日…「第13師団」歩兵部隊の「渡河決行」は壮烈だったが、援護した野戦重砲兵の我が「トセ部隊」も必死の奮闘で、歩兵部隊のしんがりではあるが天地に轟音を捲きつつ、「長寿店」、「荊門」、と息もつかせぬ血みどろの進撃だった…。 我が部隊が「宜昌」に到着したのは7月11日で…その後…11月頃までに…「南津開」へ…。翌年(昭16)1月は「長橋凌」、「銭家山」と激戦が 続き、「鴉鵲嶺」に落ち着いて警備体制を敷くようになったのは同年3月に入ってからである。4月から再び…積極的な「宜昌周辺掃討戦」となり……、10月頃まで繰り返された…。我が軍は「沙荊地区」一帯を平定したかに見えたが…「重慶」の「蒋介石主席」は大胆にも心機一転…総軍58箇師団の大群を結集…「江北5箇地区」の日本軍に対し、一斉反撃を命令した。…史実に残る…「10月反攻作戦」である。国府軍の猛攻撃は「宜昌」に約13箇師、「沙市」には2箇師と振り分けられ…。…特に両地区の「絶対的奪還」を厳命された国府軍部隊は、我が兵力の20倍を超え、日本軍を圧倒し…忽ちにして…「宜昌・東山寺」の「第13師団司令 部」一帯は完全に包囲されてしまい…、通信連絡は勿論のこと、食料補給までも封じられて…、あわや…全滅の危機を迎える重大事になってしまった…。…隣接地区の「第39師団」(藤部隊)も前哨陣地の悉くが敵軍に包囲されて難渋していた…。然し、玉砕寸前の「僚友師団司令部」を見殺しに出来ないぞ…と、「藤兵団長・澄田中将」は……勇猛果敢に500名の「決死隊」を編成し、剛勇で名を馳せる「大守少佐」の指揮の下に…全員トラックに便乗し、疾風迅雷の奇襲攻撃を敢行し、遂に敵軍の包囲網に突破口を開き、難局に喘いでいた同司令部に一応の「活」を与えたのだが……、敵軍の勢力は「押さば…退き、引けば押す…」式の柔軟戦術を実行し、一向に気勢の衰える様子がなく、同司令部は依然として孤立状態を変えられず、窮乏は益々激しさを増していった…。国府軍の主力はここぞとばかりに続々と「長江」を渡って江北地区になだれ込み、各地の我が「分哨所」は逐次、敵軍の手中に堕ち、最早…「風前の灯火」の有様となった…。「トセ部隊」でも…、最前線で奮闘中の本隊共々、残留者の傷病兵に至るまでが、随時肉薄してくる敵軍に対し、急拵えの「塹壕」に立て籠もり、個々の銃撃戦で抵抗したのだが、既に最後の決断を迫られていた…。時に…。去る8月以来の「長沙作戦」に遠征していた第13師団の「早淵支隊」は…折しも「長沙」を陥落せしめた直後だったが、同地で…この「宜昌戦」の急変をキャッチし、「東山寺師団司令部」の危難を…「救援せざれば…武人にあらず…」と奮い立ち、幸い未だ無傷の兵力4000に号令して…急遽反転…、「沙荊」地区に急行したが、当に電撃的な決断であった…。途中の「沙市」付近の敵軍を行き掛けの駄賃にせよと…、豪快な突撃で一気に撃破して凱歌を挙げた際…、当地の「藤兵団長、澄田来四郎中将」は連日の奮戦で満身創痍の部下将兵に…「今こそ我が部隊の真価を発揮する絶好の時期なり…」と「檄」を飛ばして…切り込み隊を募り、炎の如く燃え盛る「早淵支隊」と合流し…、新編成の「支援部隊」として…勢揃いさせ、然も…自らが先頭に立って攻撃の采配を揮ったのである…。よもやと思える‥この意表を衝いた反撃により、第13師団司令部を包囲していた敵軍は…鬼神も恐れるような猛々しい…この「決死隊」に背後から強襲されて混乱し、流石に持ちこたえられずに敗退したのである…。「宜昌」周辺は…一夜にして敵兵の影すらみられない、奇跡の戦勝ムードを醸し出した…。然も…、この退却する大軍の敵に…動きを封じられていた「宜昌飛行場」の我が航空隊が…「時こそ来たれり…」と温存した戦闘機を繰り出して追撃を加えたから、更に戦果は増大したと云う…。

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