荒張軍曹

09.荒張軍曹

荒張 千五百氏(左) と 保科 博

荒張 千五百氏(左) と 保科 博

 昭和63年7月3日…。千葉県船橋市で…「トセ2段会」の会合が開催されると…私に通報して下さったのは東京足立区神明在住の「佐藤 実」氏である…。受話器から聞こえてくる氏の声を耳にした時…「あぁッ…この声ッ…」…43年前の「トセ部隊・石渡隊」の初年兵教育係だった「佐藤兵長」に相違ないと私は直感した…。昔のあの顔がクローズアップで迫ってきた。「やぁッー…保科君久しぶりだねえッー、お元気でしたかぁッー…」 当時、2年も古年次兵だった彼の顔が蘇り、その声にも覚えがあり、懐かしかったが私は思わず緊張した。「今まで、トセ会があることを知らなかったもんで…長い間、ご無沙汰しました…、…」一頻りの話の中で、私の初年兵以来の班長だった「荒張元軍曹」宅の電話ナンバーを教えてもらい…、早速ダイヤルを回すと……、聞こえてきた声は別人のようで…何故か「荒張さん」だとは思えなかった。 班長とは…戦地で丸々2年間一緒にいて、その間言葉には言い表せない凄惨な場面にも同行して…それこそ、生死を共にした仲だったのである…。私の記憶に残る氏の声は、忘れることができない響きの筈だったのに、聞こえてくるその声は…何処かの優しい爺やにしか思えなかった。…昭和20年10月に…「江湾集中営舎」で別れたきりだったにも拘わらず、その顔は、終戦後から今日まで何かにつけては思い浮かんでくる程私の瞼に焼き付いていたんだが…、一方…、荒張さんの方も…どう云う訳なのか、私が何度繰り返して名乗っても全く思い出してくれないのである。 私は、班長が耄碌してしまったのかと、急に情けなくなり、泣き声で自分の存在を訴えたが、どうにも返辞が頓珍漢で、とても会話にならなかった。私自身も激昂している気持ちを押し沈め、言い回しを変えたりして、念を捺すうにして、少しずつ更に話を進めていくと…どうやら、この保科博のことが通じてきたときは…嬉しくて…溢れる涙が止まらなくなった。そして数日後……その場で打ち合わせをした東京上野の西郷隆盛の銅像前で、二人が久方ぶりで再会した時は…流石に荒張さんは…小飼いの部下を一目で識別し、笑い顔で近ずいてきた…。 「耳が遠くなって…先日は失礼した…」と…彼は言い訳をしていたが、私の方は…そんなことは恨んでもいなかったので…、早速矢継ぎ早に…昔噺が始まったのだが、忽ち時間が過ぎてしまい…、「船橋のトセ会」に遅刻しそうになるほど、二人は夢中になった…。 京成電車に乗ってからも、降車駅を乗り越しそうになるほど、噺がつきない…。丁度、お昼どきだったので、二人は船橋駅前の「寿司屋」へ入った…。一本のビールを二人で分けて飲みながらも噺はとめどもなく続いた。荒張さんは…辺り構わぬ高調子の興奮気味だし、私も…つい、吊り込まれて大声をだすものだから、店に居たお客さんはさぞや迷惑したことであろう…。こんな戦友関係の噺が周囲に筒抜けだから…、「うらやましいですねぇー…」と相客の年輩の人に声を掛けられる始末だった…。
千葉 船橋 三田浜楽園

千葉 船橋 三田浜楽園

…「トセ2段会が開催される旅館に到着すると…、心温まる雰囲気は「受付け」の扱いから始まっていた。 旧第4分隊」の「北島兵長さん」が玄関前まで御出迎えしてくれたのだが、後で班長に名前を教えて貰うまで…誰だったのか私には判別出来なかったのは今でも申し訳ないと思っている…。初年兵当時の隊長だった「石渡真平中尉」は昔日の面影が…その儘で変わらぬ童顔タイプであった…。…荒張さんは常連らしく、他の人達とも直ぐにうち解けて噺をしているが、私の方は顔ぶれで認識出来ない人が何人もいるので、神妙にしていた。これ…4分隊の保科君だよッー…」と…荒張さんが大声で…ご披露してくれたとき…、私に近づいてくる人の顔に見覚えがあった。…それは「第3分隊」の現役兵の加藤敬吾さんであった。「じっと…顔を見ていると昔の顔を思いだしたよッ…」彼に…そう言われても私はつい神妙になって…かしこまってしまう…。…何年も先輩の古参兵の人が他に何人もいるので、誰がどなたやらさっぱり分からなくって、うっかりした冗談も言えないのでは黙っていた…。 「今度の集まりじゃぁッー、この保科君に会えたのが何よりも嬉しいんだょッー…、戦地の苦労話をしたら、朝までかかっちゃうよッ……」荒張さんは元同年兵だと云う人に向かって…「湘桂作戦」当時の凄まじい戦況を説明して居た。「この男とは…最後まで悪運が有って一緒に生き延びたんだー…」と…真面目な顔をして話を切った。この日…荒張さんと再会し、43年ぶりで…四方山噺を交わしたことは…私に強烈な思い出を刻んだ…。

コメントは受け付けていません。