荒張千五百氏のこと

13.荒張千五百氏のこと
 この度…、荒張千五百氏の訃報に接し、私は4年前の昭和63年7月3日に、43年ぶりで「氏」に再会した時の感激が昨日のように思い出されて…万感胸に迫りくるものを抑えきれない…。 昭和18年3月、中支の最前線で活躍中の独立野戦重砲兵第15聯隊の補充要員として召集された私達は…同年4月末…。湖北省襄西部沙荊地域の「金沙舗」に到着した。 初年兵では私達20名が「太山廟」地区の「第2大隊本部」の警備地内の三隊に振り分けられて勤務したが、此処での満一ケ年が私達の教育訓練期間だった。「第3期」までの規定検閲は終了したけれど…、この「太山廟丘陵地」では全13ヶ月の間に迎撃戦の出動を含めて…非常呼集の合図で…散兵壕に構えて小銃を擬すること十数回を数えている…。…私が所属する「大隊段列」の「第4分隊」の班長が荒張千五百軍曹で…、翌 昭和19年5月半ばに同地より出陣し、11月10日に終了した「地獄の湘桂作戦まで…、丁度2年間を血生臭い湖北、湖南、広西の三省を駆け巡る戦場に於いて難戦、苦戦を切り抜けて生き延びた共通の体験がある。「トセ部隊」は「上海沿岸防備作戦」の軍命を受け…20年3月より前線から転進したが、全火砲と自動車等を湖南省「全県」から鉄道の無蓋貨車に乗せて「上海」まで輸送し…、大部分の将兵は徒歩隊を編成し…敵の空襲を交わしながら「湘桂公路」を後退し、先ず第一目標の「漢口」を目指して行軍した…。我が部隊は「上海西部地区」に「堡塁構築」途上の8月15日に終戦を迎えた…。 …トセ部隊の十加砲・牽引車及び、自動車等を全て接収した中国軍「湯恩伯大将」は…この武器を主軸にした「第7砲兵団」を新規に結成し…、その司令にはフランス留学帰りのインテリの少壮武官「林日藩少将」を任命した。 わが 聯隊長「佐々木孟久大佐」が、敗戦処理の武器引渡し事務事項に載る技術提携を応諾し…、「協力約定」の成立により、わが 聯隊から将校、下士官、兵等約50名が、中国軍に移籍され、6ヶ月の軍事教練の指導を担当することになった…。 当時、トセ部隊の復員状況は…この年12月から第1大隊より開始され、翌21年新春に引き継がれたが、比較的に復員業務は順調に進行したのである。 第7砲兵団(蘇州演習場)に派遣された者は21年4月初旬から少人数に区分されて個別に復員し、最後尾の者も…5月15日に 聯隊本部の最終未帰還者と合流して…日本の鹿児島港へ到着しているが、全ての復員業務が完了したのは6月5日のことだと云う…。「荒張千五百氏」は、これより一ケ年先の昭和20年3月に「陸軍曹長」に任ぜられ「勲七等」を賜っている。 然し、日本が無条件降伏したのでは…復員時の土産品にもならず…「価値もなければ名誉とも思えなくなった…」と、後年の彼は私に…当時の寒々しい心境を洩らしている…。 互いに音信不通の約40年間があって、その消息さえ伝わらなかったのは…二人の日本へ帰還した状況が全く異なる事由故に如何とも連絡を取り合う術もなかったのである…。 私にしても…、荒廃した戦後の東京で「飢え死に」寸前まで落ちぶれて各地を放浪するなど、意気地のない生活が多すぎて…トセ部隊の戦友諸氏に二度と巡り会うことなどあり得ないと思っていたし、それに…旧 聯隊の情報を伝える連絡機関のあることも知り得ず、それを探す程の時間の余裕も持ち合わせなかったのである。 こうして…、40年後の私は「野垂れ死に」することもなく、然も…運良く一流建設会社に就職して…「列島改造政策」の波に煽られながら、地方都市の発展に尽力できた約30年間はそれこそ「死に物狂い」で勤め上げたのだが、その一方では…勤務上の不摂生と自堕落な性癖が災いして著しく健康を損なってしまい、退職後の2年間はリハビリテーションで不本意な日常生活を送らなければならなかった…。 昭和62年5月9日思いがけない…突然の連絡を受けて…「トセ3会」の総会が山梨・石和て゛開催された時に初参会する事が出来、それから…「トセ会情報」で「トセ2段会」の存在を知り、翌年7月3日に同会の総会が千葉県船橋市で開催される通知を受け、荒張氏と上野の西郷隆盛銅像前で43年ぶりの再会をし、京成上野駅から、電車に乗り込み…、当日の会場に到着するまで、二人が忘却の境地で懐かしい昔話に浸ったのを昨日のように思い出す…。 それからは…、年一回の「トセ連合会」で、お互いの顔を見るのが無上の楽しみになった。 「今では…君と会えるのが生き甲斐みたいだよッ…」と、荒張氏はその頃は…ことの他ご機嫌であったが、平成3年9月の千葉県千倉の「総会」で再会した時は…足下が弱々しくなって、杖なしでは歩けない状態で、昨年までの元気さが薄れたようであったが、「トセ会」に出席する余力はまだまだあると思っていた…。 その後の荒張氏の容態は急激に衰えたらしいのだが……、入院加療した効果もなく、遂に…翌年の6月27日に此の世を去ってしまったのだと云う…。 享年76歳である。 思い起こせば…平成元年4月に拙著「流浪奇談」の第一作を贈った時…とても喜んでくれたが…、「俺が覚えていない事が、何ヶ所もあるけど、あんな事件が本当に有ったっけかなぁ…」と真剣な顔をして質問するので、私が「まさか、今時のビデオ撮りした訳でもあるまいし、ちょっとした出来事でも確実にそれを表現するには…風景とか言葉を大袈裟に描写するから…そんなふうに感じるんですよッ、些細な事件でも…その背景の部隊状況や凄惨な戦況を物語るテクニックとして止むを得ないんです…」と言い訳をすると…「なんだぁッ、それじゃぁッ、作り事なのかいッ…」彼は気色ばんで私に詰め寄った…。 「俺が…あの戦争の恐ろしさと、隠された日本軍の将校の非道な行為を、此の世に書き残すから、楽しみにして待っていなさいょッ…」 その時、彼は笑いながらさらりと云ったのだが、私はそれ程本気にしていなかったが、一ヶ月もした頃、便箋30枚ほどにびっしり書き綴って…私の許へ郵送してきたので…彼の熱意が尋常でなかったことを改めて認識したのである…。 私が…それを、ワープロのフロッピーに打ち込み中にも、その内容は手に汗握る迫力を感じた。「命 賜わりて」と表題をつけ、製本して送り返したのだが、それを受け取った荒張氏の喜びようは、大変なもので、私が面食らってしまうほどであった…。 その序盤に登場してくる彼の同年兵の「木村秋二郎」氏は東京・北砂に現在もお元気でいらっしゃる…。 荒張氏の逝去を知った私が、直ぐに連絡電話を入れると、木村氏は冷静に割り切っておられ、危篤状態の荒張氏を病床に見舞ったことや葬儀の仔細を淡々と教えて下さったのである。 「この秋のトセ連合会で…また会いましょうょッ…」歯切れのいい「木村氏」の東京弁は…情けないかすれ声で応答している「私」に…気合いをいれているかのようであった…。…現在の戦友会の方々は殆どが高齢で、80歳前後の人が多い。 年々出席人員が減少しているが、重い疾病等で参会不能の方以外では…経済的理由とか、あるいは感情的な思い過ごし等で元戦友諸氏と同室を拒むような精神的な軋轢に苦しんでいる人もおられるようである。 私なども…外見は元気だが、重度の循環器系統の持病があるので、一時の体調が順調でも…決して「年寄りの冷や水」呼ばわりされそうな活動は出来ない境遇なのである…。 私より、一歳年長の元戦友…久保田朝久氏が残念にも、同じ…この6月半ばに「肺癌」で亡くなられたのだが、この時は、その数日前に彼の病床を訪ねる機会を得、数分の会話を交わしたのが今生の別れとなった哀切の思い出も未だ新しい…。 …いくら、片意地を張って…強がりを言ったところで、遅かれ早かれ流星のように宇宙の彼方に消えて亡くなる運命は避けられないことなのだと、常々覚悟はしているものの、浅ましい凡夫ゆえに…情けない無常感が逼迫するのは…これが年齢相応の現象なのであろうかと自らを納得させている…。…戦後の荒んだ東京で…アル中同然の私を励ましてくれた「久保田朝久氏」や…、競争社会に必要な外交術を教育してくれた「鳥居政夫氏」も、あの凄まじかった戦場で「荒張班長」と共に、サバイバル戦術を徹底的に授けてくれたのが基礎となり、現在に繋がっていることを想うと、只の…感謝だけの感情ではすまされないのである…。 「護国の英霊」と…「戦後復興の功労者」の「霊」安らかなるを…ここに祈念する…。

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