奇縁

17.奇縁
 昭和45年11月初旬・・・。水戸済生会総合病院で妻は「胃癌」の為に胃を全摘手術を執行した。それから3ヶ月間は一進一退の容態だった。密かに祈った奇跡も起こらず、再入院した7日目の3月1日に病状が急変し、正午頃に息を引きとったのである。まだ42歳の若さだけに・・・私は悔しかった。この世には神も仏も存在しないと思った・・・。21年間の夫婦生活の終局である・・・。結婚当初の不遇時代・・・。悪路ばかりが続いた年月が多く、楽しかるべき団欒の日はあまりにも少なすぎた。しかし、幾たびも鳥居氏に激励されて不況を乗り越えて、なんとか活路を切り開いて・・・立ち直ってきた・・・そうして・・・、漸く経済的にも些かながら・・・余裕のある暮らしが保てるようになった矢先・・・、こんな結果が待ち受けていようなどと考えていなかっただけに・・・大きな衝撃だった。私は・・・暗闇の砂漠を一人で彷徨しているかのような寂寞感から、辺り構わず喚き散らしたい衝動に駆られた。暫くの期間は喪に服して謹慎状態であったが、月日が経つにつれて私の行状は乱れ、生活は破綻した。連日連夜の盛り場歩きが・・・職場の評判になり、やがては嘲笑を浴びるようになり、信用は下落する一方で、まともにつき合う者がいなくなり、直接の上司の作業所長だけが、見かねて・・・何度も意見をしてくれたのだが、私は益々酒色に溺れこんだ。放蕩が下火になるまで、三年近くも遠回りしたが・・・、人生の表裏に絡まる傷の深さと、大きな痛みを思い知らされた年月であった。私が・・・やっと・・・、気を取り直した頃、鳥居政夫氏の容態が再び悪化したことを知った。神奈川県の温泉療養所に入ったと云う知らせにも・・・毎日、目先の仕事に追いまくられ、お見舞いにも行けない自分が情けなかったが、職場での信用度の薄い私は・・・責任範囲の作業数量を投げ打って・・・鳥居氏の許へ駆けつける勇気がなかった。唯・・・ひたすら・・・彼の快復を祈るだけだった・・・。そのうち・・・、彼が、「調布に戻った・・・」との連絡を受けた私が、三年以上にもなる非礼をお詫びしなければ申し訳が立つまいと・・・意を決し、恥を忍んで再会をする気になった。「鳥居さんの容態はどの程度なんだろうか・・・」それだけが、心のわだかまりだったのだが・・・、私が駆けつけて見たものは、予想以上の重病で呻吟する鳥居氏の姿であった・・・。私は驚いてしまい、なんと声をかけたら良いのやら分からず、おろおろするばかりだった。それでも・・・私が見舞いに訪れてくれたのを微かに喜んでいるようにも伺えたが、当然言葉を交わすことなどできなかったのである。・・・その後、私は休日の折り、何回か調布に通ったが、彼の容態は快復の兆しどころか・・・、会う度ごとに悪化するばかりで、追い打ちをかけるような発作が、二度、三度と彼を襲ったので、見るも無惨に変わり果てた姿になってしまった・・・。「見舞い」帰りの電車の中で、声を押し殺して泣く私を訝しげに注目する乗客の視線を全身に感じながらも・・・堪え切れない鳴咽を・・・抑えることはできなかった・・・。しかし、彼の生命力は思いの外に頑強で、そのままの状態が数年も続いたが、昭和61年7月31日・・・。私達の淡い願いも空しく・・・遂に、不帰の人になってしまった・・・。・・・私は、夫人を助けて・・・葬儀の式次第を最後まで見守り、野邊の送りを果たしたいと・・・調布に駆けつけた。・・・その頃の私は既に会社勤務も定年になっていたから、もう時間に制約されない身であることに安堵した。「通夜」の席では・・・在りし日の「彼」を忍んで、涙する者もいたが、大部分の者は・・・十年余りにまたがる長患いだった家族の苦労を思いやって・・・「これで・・・一段落しましたね・・・」と云う・・・同情心と励ましの言葉が誰からも述べられた・・・。水戸に帰ってからの私は・・・身体中のたががいっぺんに緩んでしまい、気力も朦朧となり、毎日呆然として・・・我が家の崖下を流れる・・・人気(ひとけ)もまばらな那珂川べりをうろついていた・・・。半世紀に近い・・・星霜が流れた過去を通して・・・二人の意気が合致した幾つかの物語りに繰り返された不思議な出会いがあったことを改めて意識せざるを得ないのである・・・。離れたかと思っても、また合流する奇縁の数々も・・・すべて前世の因縁なのであろうか・・・。波瀾万丈の「いきさつ」で・・・転げ転んで・・・つい昨日まで続いてきた運命を追想していると、「走馬燈」を楽しむように、懐かしさだけがこみ上げてくる・・・。私だけが・・・此の世に生き残るのは・・・これが神仏の与えてくれた試練なのであろうか・・・。(後略)

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