スーツと半纏

18.スーツと半纏

江戸名残り銀八(東京調布)

江戸名残り銀八(東京調布)

 昭和39年12月・・・。東海村の原子力発電所の主力建家が完成し、残る付帯工事は単発的な発注に変わる理由で・・・現地の工事事務所は大幅に人員を削減することになった。「清島建設」は全国規模のゼネコンだから、各地の支店及び、営業所が受け皿となり、現場の余剰社員をそれぞれに吸収していく中で、私は・・・東京中央区の本社ビル内にある「技術研究所」への転務辞令を戴いた。1月初旬よりの出勤、となっていたので、早速調布の鳥居氏に連絡を取った・・・。「よく相談してくれました。新規の部署に移る話は栄転のようですね。私も嬉しく思いますが、会社組織の経営方針や、雇用契約の細部項目を承知して・・・将来を懸ける決意ならば、私も何かと力になりたいですね・・・。」鳥居氏の意見は・・・、過去に体験した雁字搦めの借金苦のどん底から這い上がってきた辛辣な洞察力が裏付けられているから、その一言半句にも重みがある・・・。諸々の経緯があったけれど、その時点では・・・全く立場の異なる二人だったが、私のように優柔不断の不肖の弟子でも見捨てられないのは・・・常々彼が信ずる「人生の絆」を推し量れない吸引力のあることが・・・まだよく理解していなかった・・・。4、5日してから・・・「コンクリート材料」の研究助手として1月6日かrの勤務が決まったことを知らせた。「単身赴任するんなら・・・会社の寮を断って、私の家へ泊まり、此処から会社へ出勤しなさいょッ・・・」有無を云わさぬ彼一流の説得力で話は忽ちに決まった。
 但し、毎日の勤務終了後は必ず店に戻って、皿洗いや出前仕事を担当することで、食事代と宿泊代に引き替えると云う交換条件が約束されたのである。勿論・・・。その頃の私は、まだ薄給だったから渡りに船で・・・この話に乗った・・・。そして・・・私は約束通りに出勤第1日目から、表芸の研究所が午後4時半になり次第、退社して一目散に調布に舞い戻り、出前で届けた皿や丼りの回収や・・・皿洗いを真面目に実行した・・・。連夜の人あしらいに慣れてくると私の楽しそうなそぶりは意外にも客の評判を呼んで居るようだった・・・。それに・・・出前先の家庭や事務所等で交わす商売上のやりとりから、社会生活の裏面を覗き見ることが・・・計り知れない人間模様の勉強となり、その見聞から言葉の使い分けを会得したことは・・・、後日・・・。私が、建設作業所の渉外役を担当した時点で大いに効用があったのである。その年の12月初旬・・・。その夜・・・店で陣頭指揮をしていた鳥居氏が突然、脳梗塞の発作で倒れた。「あぁッ、こりゃぁいかんッ・・・」私の目前で・・・彼は前のめりに崩れた。直ぐ近所の開業医が駆けつけてきた。「命には関わりない症状ですから、このまま、此処を動かさないで寝かせて置いてください。その方が後々よい結果になる筈ですから、くれぐれも頼みます・・・。」と念を押して・・・応急処置を施して帰っていった・・・。鳥居氏は・・・その日から3日間も、寝かした儘であったが、漸く許可が出て・・・、二階の部屋に担ぎ上げてからも彼は依然として・・・昏々と眠り続けた。
江戸名残り銀八の二代目店主龍夫さん

江戸名残り銀八の二代目店主龍夫さん

 家中に・・・とても尋常とは思えない気配が漂って・・・それが・・・悲嘆の相好に変わった。7日目に彼は意識を回復したが、右半身の麻痺があり、言語が不明瞭なのである。店の営業は古株の「板前」氏が、仕込みを含めて責任を持ってくれ・・・、私は相変わらず毎日会社に出勤し、夕方退社し、背広と半纏の二枚看板の生活が続いていた。その年も暮れて・・・明くる正月になったが、入院するまでもない・・・との診断で、自宅療養の儘・・・、春になると、彼の容態は急速に快復に向かい、毎日のリハビリ」運動も順調にこなせるようになり、言葉も明瞭になるし、歩行もできるようになった。取り巻き連中にも笑いが戻って、一時は悲哀の涙を見せた奥さんも・・・漸く、その愁眉を綻ばせた。5月6月と初夏の若葉が一斉に萌え出す頃になると、彼は以前に近い元気になって「店」の指揮をとった。その年も7月になった頃・・・。私は勤務先の関連会社に出向することが決定した。「ずぅ~ッと店に居てもらいたいんだが・・・、君の栄転だし、引き留める訳にゃぁいかないなぁ~・・・、向こうに行っても、社用で東京へ来たときは、必ず顔を見せてくださいょッ・・・」所詮、私たちは・・・それぞれの道を進めなければならない運命であり、未練は断ち切るしかなかった。1年7ヶ月、人生の厳しさを修行させてもらった私は感無量の・・・涙を悟られまいとして「どうもありがとうございました・・・」としか云えず・・・後の言葉が続かず、下俯いて歯をくい縛っていた・・・。(後略)

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