復員はしたけれど

19.復員はしたけれど

左から 岩田 淳氏、保科 博、三保 豊氏

左から 岩田 淳氏、保科 博、三保 豊氏


 昭和23年晩秋の頃・・・。東京京橋の写真館にて撮影・・・。どう連絡を取りあったのか記憶は定かではないがトセ部隊の元同年兵に再会して感動した覚えがある。当時はまだ満足な職もなく、三人共懐中は淋しかった。しかし、話し合ってみると・・・共に似たような境遇なのが可笑しくて、互いに励ましの言葉を交わし、生活の高揚を目指して頑張ろうと誓い合った・・・。・・・戦後のどさくさ生活で私は、この3ヶ月程前まで気力の萎えた抜け殻同然の疎ましい生き方をしており、幼な友達にたかって粕とり焼酎を食らい遊び呆けていたが・・・、一億の民が必死に働くご時世に反逆する「ダニ」的な存在だったから、何処へ行っても嫌われるのは当然ながら、大勢の人たちを困惑させ、自暴自棄だったのを元2大段古兵の鳥居政夫氏に再会したことを契機として同氏に「人格的」な再教育をされていたのである。「今までの全てを棄てて・・・生まれ替わった積もりで働きなさい・・・」と強行説諭され、俗世間に通用する話術や事務的技法の修行中の身の上だった・・・。これが約3年程続いたのだが、この時に会得した手法が後年になって私の人生を大きく変身させる原動力になった・・・。・・・孤独感で傷心し、沈みがちの私に「家庭愛による発奮法が何よりの妙薬・・・」だと云って、その頃知り合った同業者の縁戚になる水戸の娘「美登里」との結婚を勧めてくれ、・・・

昭和25年第一子(和子)誕生
・・・鳥居夫妻の媒酌人で結婚式を挙げさせて戴いたのである。・・・24年の春4月初旬のことだった・・・。戦後日本の経済状態は急速に然も本格的な上昇を見る中で、朝鮮戦争の特需景気と相俟って経済路線は更に一層複雑化し・・・、いよいよ大競争時代に突入し、好景気の最中である。「好事魔多し・・・」の例えの通り、この時「鳥居政夫氏の経営する「鳥居大錦堂美術印刷」が大口得意先の倒産で・・・連鎖的な倒産をしてしまった。幼子と妻を抱かえて人情紙より薄い世の中に突然放り出された私は切羽詰まる生活だから、世情の展開などを大局的に見る余裕もなく、ただ目先の些細なことばかり気にして・・・短絡的な判断で事を左右するから益々生活は下降した・・・。戦友と誓い合った約束さえ思い出す暇もなく、40年の歳月は水のように流れ去り、昭和63年9月・・・。戦後初めて参会した「トセ連合会」が箱根の水明荘で開催された時、三保氏と再会したけれど、彼は私の「不実」を簡単には許してくれなかった・・・。「岩田は戦後の無理から結核を患い、三十代前半で世を去ったよ・・・」と聞いた時、私は返す言葉を失った。三保豊氏と私は・・・終戦直前の「無錫」で堡塁建設資材集積任務中一緒だった。8月に敗戦となり、中国民衆の不穏な動勢に脅かされながら・・・船底に身を伏して・・・殆ど潜伏状態の儘・・・江湾の「トセ部隊根拠地」に至る約100kmの「運河」を航行し、命からがら帰還した苦い思い出がある・・・。

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