久保田朝久氏の追悼記

20.久保田朝久氏の追悼記

戦友会でのスナップ写真

戦友会でのスナップ写真


昭和63年8月初旬。[9月4日]に「箱根湯本・水明荘」にて「第13回トセ連合会」を開催する通知が届いた。 私は…それから一ヶ月間…胸躍らせて…その日を待った…。「トセ連合会」に参会するのは終戦後今回が初めてなのである。待ちに待った…その当日、私は身支度もそこそこに「水戸」を発った。 集合時間はPM1:00だったが、正午頃には「湯本駅」に電車が到着するように列車時間を計算したので、約3時間の道中は焦ることもなく「水明荘」の玄関の敷居を跨ぐことが出来た。昔日の元戦友諸氏の中に自分を知っている人が何人ぐらいいるのだろうかと胸算用をしようとしたが、まるで見当がつかなかった。去年の5月9日に元「第三中隊」の人達が毎年一回会合を続けている「トセ3会」に、私は…戦後始めて参加することができたのだが、その日27人集合した顔ぶれの中に覚えていた人は5人程でしかなかった。理由としては初年兵時代を含めて、前半の2年間は「第2大隊段列」に在籍して「江北・常徳両作戦」を経てから…「湘桂作戦」に進撃し、昭和20年3月になってから…「第3中隊」に編入されたのだが、当時撤退作戦中の最中であり、私達7人の兵隊は部隊の転戦に伴う先発班として「艫先案内人」のような役目だったので「上海」に到着する5月末頃までは同隊の諸氏の顔を落ち着いて見たことがないと云っても過言ではない。その後7月末日から「無錫」に公務派遣され、「終戦」となり、混沌とした2ヶ月間は中国軍の「使役」に駆り出され、11月からは「蘇州」に於いて「中国軍第7砲兵団」の兵舎生活を送り、6ヶ月後の昭和21年4月始めに、僅か4人で復員船に乗り込み、他部隊の端末員数として九州の港に着き帰郷した…。 それから無我夢中の「12年間」の貧乏生活の間に3回程仕事を変えた後、幸運にも有名な建設会社に就職することが出来たが、職業がら各地を転々とする股旅暮らしで、その月々を作業に追いまくられ、約30年もの間しがない旅人の浮き草稼業であった。「水戸」の片隅で定年後を生きることになってから、丁度2年後に突然、「戦友会」の通知を受け取り、驚いたが、何はともあれ…好奇心100%の心境で山梨の石和温泉に駆けつけたものの、私の方では…「あヽ…あの人見覚えがある」と思っても、先様は私の顔に関心を示す兆しがなかった。 その中で現役兵だった「松本政雄」氏から積極的に「あヽ、保科君だッ。懐しいなぁ…」と声を掛けられたのだが、私の方が記憶が遠のいており、話の応酬は滑らかにはいかなかった。その松本氏も、その時一晩が終わり、解散してから…7ヶ月後に持病が急変し、突然の逝去となった…。この「第10回トセ3会」の時に「トセ2段会」の存在を教わり、翌年。つまり63年の7月3日に千葉船橋で開催された「戦友の集い」に参会することができたのである。此処は「元第2大隊段列」なので実質2年間在籍していただけに当然旧知人が多かった。初年兵時代の班長だった「荒張千五百氏」に43年振りの挨拶も叶えられ感涙に咽んだ思い出から未だ2ヶ月経ったばかりである。この日「水明荘」のロビーに作らた「トセ連合会」参会受付の前に立った私は…「戦友会」参加の機会を与えてくれた当初の好印象が忘れられず、敬意を表する「第三中隊」の人々の顔を思い浮かべながら…その張り紙の前に…ぬぅーっと顔を近づけた時「なんだ保科君じゃぁないかッ…」と呼びかけられて「はッ」として相手の顔を見てびっくりした。 「あぁッ、久保田ちょうきゅうさんだッ!…」 「あぁ、保科君会いたかったょッ…。何年振りかねぇー…。 終戦後の渋谷でばったり顔を合わせてから半年ぐらいの…あの頃を思い出すなぁ…。君が突然、行方不明で、音信不通になってしまい、それから随分といろいろと探し回ったんだけど、分からなかったんだ。そうだッ>、あれ以来だッ。 40年ぶりになるのかなぁ…」「申し訳ないッ…。その節はお世話になりまして、有り難うございましたッ…」  受付には「各隊」担当の世話人が何人も居る場所だから、 相当に込み合っている。それ以上の会話を続ける余地がないのを推し量った私は一二歩後ずさりしながら声を高めた…。 「取り敢えず部屋に入ってぇ…、落ち着いてから話をしたいと思いますんで、後ほどにしましょう…」と、その場を離れた。この時「久保田氏」に再会したことが以後「トセ会」に於ける私の名が旧在籍名簿どおりの「第3中隊」と決まったのである。此処で彼と再会しなかったら、或いは彼が「トセ会」に無関心で出席もしないような人だったならば、あの時の参加申し込みは「トセ2段会」にしており…、「トセ3会」は二義的存在になっていたと思う…。当日。「トセ2段会」に出席していた元班長の「荒張氏」には…その旨を伝えて了解を貰った…。「そんなにお世話になった人を袖(そで)にしてはいかんからなぁ…、」それ以来「トセ3会」に名を連ねているが、「荒張氏」に顔が合う「戦友会」に出席した時は…先ず第一の挨拶は元班長であり、十分敬意を表してから「第3中隊」の部屋へ入ることにしている…。久保田朝久氏は私の恩人だと思っている。何しろ、「氏」に終戦後渋谷で遭遇した頃の私は…アル中同然のやくたたずで、定職もなく…家もなく、破れかぶれのやけっぱち人生で当時流行の「ちょうせんチュウ」をガブ飲みしながら、遠く「大阪朝鮮人街」まで出向いて、粗悪品のズック靴をリュック一杯に   詰め込んで仕入れて帰り、これを倍値で渋谷・代官山付近の露店で叩き売りよろしく大ぼら吹いて売るのが唯一のたつき(稼ぎ)の方法で、当時、東京一円を縄張りとする露天商の総元締めだった「飯島一家」の縁続きのお兄さんから「同一家」の杯(さかずき)を貰うようにと誘いがあったのは事実なのだが私は快諾するのを躊躇(ためら)った。もしあの頃・・・プロの露天商になっていたら所謂(いわゆる)「啖呵バイ」の阿兄(あにい)になって現在とは全く懸け離れた別な人生行路になっていただろう…。 「おいおい、こんなメチール入りの「粕とり焼酎」なんか飲んでると目が潰れちゃうぞッ…」 その頃も飲食関係の職業だった久保田氏が、私の身体を親身になって心配し、飲用可能な「純アルコール」を算段してきて…、「これなら大丈夫だけんど、あんまりがぶ飲みするのは身体に悪いぜ…」「…………………」「少しは健康に気を配れよッ…」と「念」を押された。然し、荒んでいる私には反省のかけらはもなく、その後も久保田氏から何回か「純アルコール」を都合してもらったが、節度を失っているばかりか粗暴な私は…当時世田谷の桜新町の実家から遂に「勘当」されてしまい、当然のことながら出入り禁止となり途方に暮れた挙げ句の果てが「元2大段」のバタァーン還りの古兵だった「鳥居政夫氏」の経営する「本所」の印刷会社の雑役夫として住み込み奉公することになった。これは「鳥居政夫氏」に救われたのだが、拾われたと云った方が相応しいであろう。それから1年間は同社の寮で寝起きし、昼夜を問わず、休日も返上した格好で「社会人」の基礎学をみっちり仕込まれた。その後通勤になってからも約2年間を鳥居氏から厳しく「大人(おとな)」の行儀作法を躾られた。此処での当初の頃は、どれ程立ち振る舞いに気をつけ、いくらけ、いくら仕事に励んでも…業界の人達から若僧扱いされて笑い者にされる自分を意識して…漸く過去のだらしがない行状を反省するようになっていた。27歳にもなって20歳程度の扱いを受け、悔しかったが此の期間で私は…遅蒔きながら開眼したと思っている。 その「第13回トセ連合会」に出席した私は…久保田朝久氏に40振りで再会すると云う全く予期しなかった歓 びと感激は現在に至るまで忘れられぬ感動として胸中に燃え続けているのである。 指定の部屋に落ち着いた私は松本多助、高野光司、矢後一三、石崎明、の4氏に1年4ヶ月振 りの挨拶を 交わしたのだが、内心では「早く久保田氏がこの部屋 へ戻って来ないかなぁ」と首を長くして待っていた。私が風呂から上がってきても彼は居なかった。 普通の人よりも興奮する性癖の私は…今までに何度 も失敗を繰り返してきた苦い経験から、常日頃から努 めて静かな態度を心がけているのだが、この時ばかりはやきもきしてしまった。 その頃彼は…旧知の戦友達と別室で歓談を交わしていたらしい。人あたりの柔らかい社交型の処世術を発揮する彼は誰にも好感をもって迎えられる筈である。その彼が3時頃部屋へ戻って来るなり開口一番…。 「いやいやぁお待たせぇー」と気色満面なのである。「君が居なくなったあの頃、随分探し回ったんだけど…、結局 行方不明ってことでがっかりしたのを思い出すよッ…」 「済みません。あの頃の事情が複雑に込み入っていて、何から説明していいのやら…、返す言葉も有りません。」 「どうして連絡してくれなかったんだい…」そう云われても私は只々謝るしかなかった。鳥居政夫氏に拾われて「更生」を誓った時、死んだ気になって「過去を絶ってしまえッ…」と怒鳴られたことが原因なのであるが、その詳細を語ると嫌(いや)みな弁解になってしまう。彼は人の良さそうな笑顔で、それ以上は深く追求して、私を困らせるような態度は見せなかった。然し、その時66歳になっていた私には、約35年近い会社勤務で人相風体に「紋きり型」が染みついてしまって・・・軽快な受け答えが出来なかった。この日私の感じたことは・・・「人と人」の柵(しがらみ)ほど大切であって、得難い重みがあることを教訓してくれた彼に今更のように・・・再び感動したが、周りには他の戦友諸氏がいるので、それ以上二人きりの込み入った会話を避けたのである。・・・和気藹々(わきあいあい)の「第13回トセ連合会」が終わって「水戸」に帰った私は横浜に居住する「彼」に「思いがけぬ再会」の歓びや、長いご無沙汰となった無礼のお詫びを便箋に並び書きして手紙に託した…。 中、3日目に返ってきた彼の「はがき」文中に…「五・一会」の件は…今後は同会に、この私も参加したい旨をお願いして置いた処、許可されたと言う知らせと、次回の「トセ3会」で再会したいことが書いてあった。「トセ3会」が翌日の朝で解散した時、…私は諸氏に再会を約して別れ…、直ぐ近辺の「仙台の街」を・・・この日に・・・どうしても見物したかったので、単独行動と承知しつつ・・・東京とは反対方向の「列車」の人となった。然し、当日遅くならぬうちに「水戸」へ帰らなければならず、下車した仙台駅の繁華街で昼食を摂っただけで・・・それ以上の散策はしなかった。仙台の街並みを25年振りに眺めただけだったが、私にとっては有意義な数時間であった・・・。幾日か過ぎて・・・小原温泉のかつら屋で撮影したスナップ写真が出来上がったので、その内の二、三枚を久保田氏に送ってから・・・また数日か過ぎた頃・・・、彼から「はがき」が届いた。・・・6月4日・網代に於ける「五・一会」に関する内容だったが、当日彼は仕事の都合で欠席すると云う知らせなのである。「あぁ、それだったら小原温泉で・・・、もっともっと沢山の時間を使って交々(こもごも)と話をしておけば良かったのに・・・と私は悔やんだ・・・。戦友会の親交は当日限りと区切りをつけ、文通でも・・・戦友会以外の「件」にはなるべく触れないように心掛けている私の様子を推察したかのように彼もまた、文通の内容に昔日を蒸し返すような事は一行も書いてこなかったし・・・、この一年ぐらいの間で2回顔が会ったにも拘わらず、彼から・・・あの戦後の生活ぶりに関係のある話は仕掛けてくることはなかった。むしろ・・・その話は「ご法度(はっと)」だと察して避けているようでもあった。或いは・・・私の素振りを見て、そうした保科の冷淡な心中を見透かしているような彼は・・・寂しく割り切って居たのかも知れない。・・・「保科君との話しは一日や二日では尽きないことでしょう。でもお互いに元気でおればいつでも会えるのですからこれからも宜しくお願いします」と書いてあった最初の文言の意味は・・・終戦後の混沌とした世相で将来の予測もできない頃、いろいろと苦悩しながら生きていたことを回想し、共に語り合いたい苦労話の数々を彼は胸中に秘めていたのであろうか・・・と現今でも・・・しみじみとしてしまう・・・。その「五・一会」の当日。新宿駅の1階改札口に10時に集合すれば同メンバーの何人かと「網代」まで同行する…という但し書きが「案内状」に記載してあったので…私は9時を少し過ぎた頃には、その場所に到着した。 20分…、40分経ち…規定の10時になったが、それらしい人達は集まっていなかった。新宿へ行けば皆さんに当然会えるものと安直に決めていた私は内心動揺した…。その当時「新宿駅」は矢張り40、年振りのお目見えだったから、お上りさんもいいところで、私が待ちあぐんでいた場所は…東口だったのだが、結局10時を20分過ぎた頃「小田急」電車に駆け込み、何はともあれ…「網代」へと向かっていった。網代駅に下車した私は目指す「平鶴」が海岸沿いにあることがすぐに分かり、歩き出した。その日は快晴で真夏を思わせる暑さに閉口しながらも、目的地の「五・一会」の受付に於いて住所氏名を告げると「あぁ、保科さんですね。承知しています…」と暖かく迎い入れてくれた。然し、どなたを見ても顔に見覚えのある人は居なかった。心細い思いはあったが、神妙にしていると…「よぉッ…、」 と声を上げながら入ってきたのが「矢後一三氏」であった。 「あヽ…よかったッ…」私は内心の安堵を意識した…。 彼が元「第三中隊」の人だった連帯感は…この時が初めてだった。特に際だって親しい間柄でもなかったのに…自分流に仲間意識を連想する身勝手な思いを承知しながらも強烈な親密感を覚えた…。久保田朝久氏が欠席なだけに矢後一三氏の出席を好感度に迎入れる私の顔を見て彼も同じように親しみを湛える笑顔を示したが、それは自然体で…見るからに落ち着いており、もの馴れた態度であった…。 この日の出席数は24名で、八木久夫氏が代表者で補佐役として河合俊夫氏、梅澤卯平次氏の2名が「会」を盛り立てていた。会員諸氏の結束は堅いように見受けられた。しかもどなたも穏健な方ばかりで、こうした「戦友会」にありがち猛々しい武闘派の人なぞ一人も居なかった…。元トセ部隊の「金沙舗」、「太山廟」時代の熾烈な敵襲を迎え討った苦労話しも淡々と語り、あの悲惨な「湘桂作戦」の思い出話しも静かな口調で…どなたも和やかな雰囲気を乱さないのには…ただただ感嘆するばかりだった…。この日の会合以来、私は年一回の「五・一会」には必ず参会をお願いしているが、諸氏は毎回変わらぬ態度を以て歓迎してくれるのが何よりも嬉しい…。 「完」

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