久保田朝久氏を偲ぶ

21.久保田朝久氏を偲ぶ

戦友会でのスナップ写真
 昭和18年5月初旬・・・。中支・湖北省の沙荊地区に駐留中の「独立野戦重砲兵第十五連隊・第二大隊」は・・・「草場栄少佐」の指揮の下に在って「太山廟」の丘陵地帯を警備する「二段・石渡隊」で、初年兵だった私達は・・・、初夏の日差しを浴びながら・・・連日、陸軍砲兵の基本訓練で汗を流していた・・・。その頃、・・・久保田朝久氏は・・・、「二段廠舎」の西側約500mの丘陵に砲廠舎を構えた第三中隊の所属だった・・・。彼は前年の5月1日に東京世田谷の原隊に入隊しているから、私より約10ヶ月くらい先輩の兵士である。この時期の9月の頃から、私は太山廟哨戒地の衛兵勤務で彼とは度々顔を合わせるようになっていた。二人は同じ東京出身と云うことで、待機中の控え衛兵のとき、互いに声を潜めて東京の盛り場で遊んでいた頃の話ばかりしていた。「生きて帰還(かえ)れたら必ず連絡し合って・・・うまい酒を飲みにいこうぜ・・・」・・・自由のない軍隊を憾(うら)みつつも、いつ終わるか見極めがつかない戦争を諦観しながらも・・・共に見果てぬ夢を抱いていた。そして・・・10月になると第十一軍が発動した「常徳作戦」の波紋が大きく広がり、わが部隊根拠地周辺にも共産新四軍の精鋭部隊が果敢に肉薄してきた。彼我の攻防戦は絶え間がなく発生し、活発な追激戦が連日連夜続いた・・・。わが軍の損害も相当にあった筈だが詳細は公表されぬまま、12月半ばを頂点として銃声は遠ざかり、殆ど「非常呼集」の慌しさもなくなった。屍(しかばね)衛兵を勤めて気落ちしていた私達はやっと迎えた正月にも疲れきっていて・・・いつも暗い気分であった。・・・そんな空気を払い除けるように内務班内では古兵のしごきが一段と厳しくなり、誰もが嫌う・・・衛兵勤務だけが唯一の私の楽しみだった。五月・・・トセ部隊も遂に・・・同月半ばに全警備地を放棄して出陣し・・・湖南会戦の凄惨熾列な進撃を開始した。・・・血みどろな死線を交(かい)い潜(くぐ)った11月10日には「桂林」が陥落し、4ヶ月後の翌年3月末から・・・わが部隊は徒歩行軍で湘桂街道を反転し、約1ヶ月、苦難の道中を辿り「漢口」に至り・・・それより列車に便乗した・・・。制空権を制覇した米軍機を避けつつ・・・上海へ・・・。そして8月15日に驚愕の終戦告知・・・。9月末に武装解除・・・。「江湾」の暑苦しい集中営舎の暮らしから「中国軍第八砲兵団」の教練支援を経て・・・翌年4月・・・私は3年の軍隊生活におさらばをした。無事に復員した昭和21年11月頃、東京渋谷の裏町を徘徊中、偶然久保田朝久氏と再会したのだがその当時・・・私は厭世的な自暴自棄になって、やぶれかぶれで毎日安酒に溺れ・・・アル中同然だった・・・。「変などぶろくなんか飲んでいると目が潰れちゃうぞッ」彼が商売用の「純アルコール」の四合瓶を私の手に握らせ・・・「戦地で約束したのを忘れちゃぁ駄目だぞッ、これが無くなったら直ぐに連絡しなよッ・・・」と、心配顔で意見してくれたのも・・・当時の物騒な世情を物語る貴重な思い出である・・・。音信不通の長年月があったが、それは・・・私が貧困生活で・・・足掻き続けた不甲斐ない人生が長かったからで・・・「あッ・・・」と云う間に六十歳を過ぎてしまった。昭和63年9月4日・・・。箱根湯本で・・・トセ連合会があったとき・・・幸運にも久保田氏と40年ぶりの再会を果たし、長い空白期間を乗り越えて二人の戦友関係が再燃した。その後、「トセ三会」の役員「矢後一三氏」と接近した私は、過ぎし昭和18年4月に・・・かの「金沙舗」地区の「トセ部隊」へ同日同時に入隊した新兵・古兵の間柄から、これも戦友の縁が復活し、交友が始まった。・・・彼が苦労している「戦友会議事運営」にも些かながらの・・・お手伝いをするまでになった。平成4年4月初旬・・・。「宮城蔵王」で(トセ三会)があった時、矢後氏から・・・久保田氏が病気で入院していることを告げられた。「まだ病名がはっきり分かんないけど、どうも重病らしいんだょ・・・」詳しい容態の断言を避けるように・・・彼は小声で私の顔を見つめた。・・・瞬間、私は不吉な予感に苛(さいな)まれて・・・満足な受け答えができなかった・・・。・・・それから・・・水戸に戻った私は・・・取り敢えず・・・見舞い状を出して・・・気を揉んでいると、日ならずして入院中の久保田氏から直接電話がかかってきた・・・。「なぁに、それほど心配するほどじゃぁないょッ・・・、5月の連休には帰宅許可が出る予定だし、今年の五・一会には出席できるかも知れないょッ・・・」それは・・・明るい調子で笑い顔が見えるような声音(こわね)だったので・・・私は吃驚してしまったが・・・生唾を飲みながら適当に相槌を打って話を合わせたが、本当はどうなんだろうか・・・どうしても真相が知りたくって、その日の夜・・・彼の留守宅に電話を入れてみた。「肺癌の末期なんですが・・・当人には報(しらせ)せておりませんので、そんな気軽なことを言うのかも・・・」全てを諦めているような夫人の暗い声を聞いて、私は慰めの言葉に詰まった・・・。彼が身体の異常を訴えるようになったのは昨年の秋も深まった11月頃だったと云う。「精密検査の結果・・・今年の新春早々に川崎溝の口の・・・帝京病院に入院したんですが、もう・・・回復の見込みはないと云われているんです・・・」悲痛な話を聞かされた私は・・・悄然となった・・・。・・・気を執り直して・・・爾後の対策を思案したが、様々な想いが混乱し、適切な方策が浮かんでこない。・・・早速「山北町」の矢後氏に・・・このことを報告し、「近いうちに更に細かい打ち合わせをしましょう。」と云いながら、うかうかとその月も、次の五月も終わってしまった・・・。6月7日に・・・(トセ五・一会)の総会が山梨の塩山で開催されたとき・・・、代表者の八木久夫氏に彼の病状を伝えると・・・「それでは・・・会が終わり次第・・・東京へ戻り、その足で直ぐ・・・この役員と一緒に病院へ行ってみましょう・・・」と云う話になった。「あのぅ・・・実は明日の8日は、私が面会に行く約束をしているんです。・・・それで彼の容態をよく確かめまして・・・夕方までにはご連絡しますので、それから善後策を講じてください・・・」・・・重体患者の彼を極度に緊張させるのは芳しくないだろうと、幹部諸氏も納得をしてくれた・・・。翌日・・・総会が解散し、私は急いで新宿行きの列車に乗ったが・・・、「渋谷駅」まで同行してくれたのは久保田氏とは親友の「山田邦八氏」で・・・、「久保ちゃんの具合はもう、楽観できない状態なんだ・・・」と呟(つぶや)いた。この方は既に再三病院を訪ねていたらしく・・・「まだ今のうちなら話も出来るだろうが、彼は・・・おそらく夏までは持ち堪えられまいッ・・・」と続けた・・・。・・・冷静な声は・・・心痛の度合いを私に訴えるようだった・・・。・・・数日前に・・・「山北町」の「矢後一三氏」とは「病気見舞い」の件は打ち合わせ済みだったから・・・、溝の口駅前で落ち合った二人は直ぐさま病院へと足を運んだ。病室のベッドでは・・・やつれ果てた久保田氏が元気そうなふりをしているのがみえみえだったが、私達は何気ない顔で彼と数分間の世間話を交わして・・・病院を後にしたのだが、・・・それが今生の別れになってしまった・・・。その夜の私は・・・山北町の矢後氏の家に泊めてもらうことになった。夕飯前のひととき、この日の一部始終を「八木久夫氏」に・・・連絡したのは矢後氏である。「寂しいことだけど・・・、歩留まりの決まりがない人間の寿命だから・・・ここは・・・お互いに割り切って、腹を据えて・・・これから益々減少一方の「戦友会」に・・・どう対応すべきか、決意の時期が迫ってきたようですなッ・・・。もう直ぐ戦後50年にもなるし・・・「戦友会」の存続もそろそろ限界だと・・・覚悟をしなきゃぁなるまいッ・・・。私達は敗戦日本に復員して以来ざっと50年猛烈に勤労貫(はたらきむ)いてきた。現在では遠い軍隊時代を思い出すことも珍しい程毎日が安穏な生活(くらし)に慣れてしまった・・・。この「戦友会」だけが当時の純情一途(いちず)の直向(ひたむ)きな心を蘇(よみがえ)らせてくれるところだと思っていたが、その存在性もこれだけ・・・希薄になってからでは今更現状を塗り替えようとしても・・・最早到底不可能なのである・・・。・・・唯々・・・瞑目して・・・諦観あるのみ・・・。

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