はじめに

01.はじめに
                『流浪奇談』 編集に際して                     
 支那事変・大東亜戦争・太平洋戦争に奮戦した、旧独立野戦重砲兵第八聯隊並びに旧 独立野戦重砲兵第十五聯隊及び関連部隊の御英霊に謹んで哀悼の意を表します。そして終戦以後に惜しくも物故なされし方々のご冥福を祈ります   
                 平成五年三月十五日  保 科    博
護国の英霊にこの一冊を謹んで奉る
独立野戦重砲兵第八聯隊        (九二式十加)
支那事変(北支方面)    昭和十二年八月動員下令  三十四柱
大東亜戦争(関特演、比島)昭和十六年七月動員下令  三十九柱
本土決戦(東京・近県)   昭和十九年七月動員下令    五柱
                          計    七八柱

独立野戦重砲兵第十五聯隊  昭和十二年九月動員下令 (十四年式十加)
  中支戦線・湘桂作戦               計  二百四柱
独立野戦重砲兵第十六聯隊  昭和十九年七月動員下令 (十四年式十加)
  台湾防衛                          一柱

独立野戦重砲兵第二十二聯隊 昭和十五年十二月編成下令 (九二式十加)
  満州派遣・関東軍直轄  昭和十六年 七月動員下令
  第三軍指揮下
  本隊は比島に転用    昭和十九年 七月
  留守隊は北満の防衛にあたる
                            計   九五二柱

                            合計 一、二三五柱
注 原隊〓三次出動 動員〓新規に三箇聯隊編成 計 四箇聯隊

 是れは…昭和の史実に厳然として刻されている戦争体験を基にした「創作」である…。…二十世紀も終盤期となり…日本の国勢は益々発展し…「平和と繁栄」は日常化したが、更に、その頂点を見極めたいと願う私も…「老齢」の坂道を転げ始めた身として…いささか心細いが…三十数年来、一病息災で生きられた現在までの人生は…天賦の「賜物」だと感謝しつつ、これを執筆する原動力となった巡り合わせの霊気を懐わずにはいられない。
 今回…私のイメージに浮かんだ事件等の一部を特に強調して…物語りを展開させたが、実在人物が筋の流れを繋ぐ場面は…余儀ない事情もあり、その年月日、人名、地名等の数箇所に若干の脚色を施したしたことを最初に言明して、諸氏の了承を求めたい…。…あれが…若し、『こう…』であったとしても今更、大勢に『変化なし』と…ご賢察を戴けるならば‥史実に外れた箇所の指摘と追及も和らぐであろうことを願う次第である…。
 昭和十二年七月、華北の「蘆溝橋」事件勃発で、大陸侵攻を計画していた日本軍部は意識的に戦力を増強し、強引な権力を発動し、中国全土に進攻して戦線を拡大した…。…この「支那事変」と呼称した当時の「支那派遣軍」麾下として「独立野戦重砲兵第十五聯隊」が中支戦線に台頭した頃は…「東洋平和」の呼び声も圧倒的な迫力があった…。…第二次大戦中に於いて…天下(世界)の形勢を誤まり、日本を八方塞がりにし、破滅させたのは…わが国を軍政化した『軍閥』の重大責任だとする巷間の誹謗を浴びているが…その暴挙の根源に潜んでいる「富国強兵主義」の国防方針は、遠い…一八八十年代、黎明の明治維新直後、弱小日本国の発展を模索した苦肉の政策であった。以来、神妙に続いていたが、次第に国力を過信し、歪んだ意見が主流になっていく。先の欧州大戦(一九一六)以後に押し寄せた世界的な経済不況の到来で、苦境に陥った日本の起死回生を画策する…官民一致の協力で、不景気脱出の打開策として新たなる「中国大陸」進出を目論み、執拗な実施工作は勢いを増しつつ、やがては「大東亜共栄圏」の建設を信条とした「八紘一宇」の旗印が…急速に膨張して士気を扇動した…。少数の憂国の志士及び、俊才達は懊悩したが、挽回の方策は潰え、反転の時機を失い、泥沼状態と化した「支那事変」は、各地戦線に飽くなき出兵を繰り広げていた…。「聖戦」と称した「皇軍」の一部隊として…、昭和十二年九月に急遽、戦時編成された我が「独立野戦重砲兵第十五聯隊」の歴史的な背景を冷静に振り返ってみたい…。…東京世田谷‥。三宿の 「野戦重砲兵第八聯隊」(東部第72部隊) の原隊から出征し、「トセ部隊」の通称で八年有余、上海戦・南京攻略戦・徐州・武漢・荊襄と進み…華中戦線では…第十一軍中枢の軍直砲兵部隊として赫々たる武勲の戦歴を継承していたが、昭和十九年五月に至り、日本建国以来最大規模の「湘桂作戦」の渦中に揉まれて翻弄された。…一九四五年(昭20)に至り…大本営の「戦争指導方針」に顕しい衰退が表れ始めるや…国民の戦意は急速に低下し、第一線の戦況も敗色濃厚の様相となる…。…慢り昂ぶった大日本帝国の威信は萎え、その屋台骨は音を立てて崩壊していく。北から南にと膨大に広がった戦線では体を躱す余裕もなく、致命的な痛手を被った部隊に援軍もなく、無慙にも糧秣と弾薬を遮断されて…各地で孤軍弱体化し…敗走の止むなきに到り、かつては必勝の信念を豪語した「聖戦」の合い言葉も…霧散していた…。…攻守逆転の戦況にもめげず…、必死に食いついて…血みどろの攻撃を貫き通した無名の戦士たちは…悲壮の極致に「終戦」の陥穽に縺れ込んだのだが…、四十数年後の現在、私たちは栄光の『一○加・トセ部隊』に…再び想いを馳せ、斃れし戦友に慟哭し、我らが青春の命を懸けた…あの戦場の活躍に衿を正したい。…嗚呼……、『昭和二十年八月十五日…』……私は、この日を決して忘れない…。…「大日本帝国」が…無条件降伏を宣言し、全軍が敗戦の汚名を背負った日である…。…屈辱と反省と発奮…‥。その八ヵ月後に私達は中国、上海から復員をしたのだが…。…内地に上陸の第一歩を踏んだ途端…「敗残兵~…」…と自国民にまで蔑まれた悔しさと憤りから、焦点が定まらぬ虚ろな心は…摂生を忘れ…身体を蝕ばみ…「言動」も投げ遣りに流れた無責任の思考では…「社会復帰」の良策など浮かぶ筈もなかった…。私たちが、少年時代から「忠君愛国」の精神を叩き込まれて「死は鴻毛の軽きに…」と教えられてきた軍国主義の「死生観」は既に消失して、人生の方向を定め倦んでいた…。 「敗戦国日本」はアメリカ軍「マッカーサー元帥」の率いる「軍政下」に在り、将来への不安感から…「新生日本」に生きようとする「私」の勤労意欲は、情けなくも社会的な認識不足により…盛り上がらず、愚直な生活は…「立直り」には程遠いものだった…。…昭和二十一年二月から…戦後経済の建直しを意図し、政府は金融流通の措置として、旧通貨を一斉に回収し…「新円」に改めたのだが、これが逆目となって貨幣価値は大幅に変動し、新通貨の尊厳味は下落する一方だった…。…インフレに苦しむ庶民は貧困のどん底に喘ぎ、浅ましい飢餓感に脅かされて不道徳な骨肉の争いまで発生し、弱肉強食の醜い駆け引きが…大手を振って罷り通った…あの時代に果たして何人が…日本の将来を予測し、この現代の発展を予想し得たであろうか…。…現在。超ハイテクシステムで構成された…繁栄社会の恩恵を受けて生活する初老たちは…四十年前の己れにひき比べ…激変した安楽に思わず吐息して感嘆の呻きを挙げている。 …そして…今更のように「生存の意義」を噛みしめていることであろう…。…然し…、「戦中、戦後」の日本を懸命に生きぬいてきた青年たちが、苦闘時代の努力と共に技術・技能を鍛練した結果が大きく地力を育成して実を結び、それが大きく結集して…国家経済を向上させ、国力を好転させたのは既成の事実である…。…私たちが夢中で過ごして来た半世紀の生態が、何時しか社会経済の発展に寄与したばかりでなく…それが経済大国日本の威信を世界中に広めた貢献度は絶大であり、それ故に富裕社会を形成したことも…注目に値する成果であった…。…人生とは…良識の外に「損得」や「善悪」等が複雑に絡み合っており、長い歳月に平行して随時…「喜怒哀楽」の感情に支配されつつ、少しずつ進歩していくものである…。老生の「伝記」が…、後世の人々に「歴史の真実」として伝えられんことを願うのも、かつての「聖戦」が…、今日では「侵略戦争」の代名詞として冷遇されている為、世間に遠慮して口を閉ざした侭、故人となった戦友諸氏の代弁なのだと承知して頂きたい…。…若しその為に…、この小冊が些かなりとも役立つならば無上の幸せでる…。

            昭和六十二年十月       保科 博   合掌

      はじめに

   トセ部隊戦塵余話   流浪奇談   第一話 出征編

…私が、この『流浪奇談』を書くことになった動機は(昭和二十一年)の春に軍隊から 復員して以来、この度、初参会した『戦友会』への感動を、文章に纏めたものを、嘗ての恩師で、尚かつ…戦友でもあった故鳥居政夫氏の…ご霊前に捧げたかったからである…。
…あれは二十二年前(昭40)の八月…。東京・調布市の鳥居氏の『店』で二人が…、夏のひとときを徒然に語り合った「トセ部隊」と「湘桂作戦」の回顧談は意外に進展し…戦場を駈け回った頃の沁々とした思い出噺は…生涯に忘れ難いものであった…。その時代は「終戦」から二十年が経過し…、私たちは前進と挫折を交互に繰り返す苦節を踏み超え、随分…遠回りをしたけれども、断ち切れない「縁」に引き摺られて…数年ぶりに再会した二人の交流は…その日から再び活発になった…。私が業務で…東京本社に単身赴任したときには、鳥居氏宅に寝泊りして、昼間は会社勤務で、夜間は彼の「割烹店」で、皿洗いや「出前」のアルバイトをするほど、活気が溢れていたが、彼の方も数人の使用人を抱える活況であった…。『なぁー…あの「槙島」…は、その後どうしているんだろうかねぇー……』…「槙島」…とは……。拙著小冊(その六…徴発)の項目…六六頁の末尾の頃に最初登場してくる鳥居氏の同年兵で…確か東京早稲田の出身だと聞いたが…。彼は…太平洋戦争勃発早々の…比島作戦で…第十四軍の先遣兵団に従軍した「独立野戦重砲兵第八聯隊」の出征兵士であり…「コレヒドール」の攻撃では…華々しい砲撃戦の応酬の末に凱歌を挙げて後…、内地帰還し、武勲の誉れも高い『バタァン帰還り』とうたわれた一人だった。その後、昭和十七年八月末に中国湖北省「沙荊地区」の「トセ部隊」に転属したが…。…飄々として、云うに言われぬ滑稽感が漂う愉快な人柄で…私も随分とお世話になった。…「湘桂作戦」当時…わが「第四分隊」の「荒張軍曹」以下の兵隊が、生死の境界を彷徨した頃の凄惨な出来事が次から次へと浮かび上がり、話は尽きなかった。悲惨な中国戦線が…まるで昨日の話みたいに蘇ってくると…二人は神妙になった…。あの…恐ろしい地獄の淵を這い上がってきた後が「上海防衛作戦」だったが、開戦直前に…終戦となり、二、三の課程を経て…復員したが、四十二年も過ぎた現在、思い掛けない「戦友会」に…この私だけが出席することなど…想像もしていなかった…。…語り尽くせない…幾多の事件や、数ある逸話も…年月を経るに従い…追想を重ねる毎に…観察眼の角度も変わり…核心の真髄に触れるような気がしてならない…。…そう云う意味での感想をあけすけに発表することは…私の驕慢な態度として自戒するべき事柄に数えられるのであろうか…。

                            一九八七年 十月

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