トセ部隊

02.トセ部隊
 一九八七年(昭62)四月十六日……。… 水戸の名所、桜山は…既に観桜の時季も過ぎ去って、人影もまばらとなり…元の静寂をとり戻していた…。ひっそりとした卯月の心地よさに身を委ねて…右に左にと足どりを移動させる…その人々は、物思いに耽る風流人なのであろうか、それとも…華麗に咲き誇っていた頃の桜花を偲んでいるのか…緩やかな歩みを見れば…残り花を楽しんでいるのは間違いない…。葉桜が馥郁と匂う…この広大な桜山に鎮座まします荘重な佇まいは…古くから…さきがけの勇士を祀る…茨城県護国神社なのである…。この日、唯独りで参拝した私は…青年のように…ときめく想念が満ち満ちていた…。…それは、昨日の午後に…全く予期もしなかった…一枚の葉書を受け取ったことが発端で…忘れていた四十四年前の記憶が勢いよく迸り出て…、あの激動の時代に翻弄された青春の血が再び滾るように…懐かしい回想の噴流となって私の五体を駆け巡っていた…。
…差出人の…東京都文京区の「能勢寧方」氏…と云う住所氏名には心当たりがなく、私は不審に思いながら…その葉書を裏返した…。…「突然の便り、お許しの程を。…(トセ会)の現住所不明者を調査しており、品川区 に問い合わせ、貴君の住所を知り確認の為お便り申し上げ、ご返事を頂きたく思います。第三中隊の会合は、来る五月九日、山梨県の石和で開催します。ご近況をお知らせくださるよう。ご意見、ご意向を期待しています…」…一見…不慣れに見える筆跡だが、真摯な感じが滲んでいて…枯れた人柄を思わせた。
 私は…本当に吃驚、仰天であった…。…「トセ会」とは……過ぎし大東亜戦争たけなわの…一九四十年(昭 15)の頃……。中国湖北省の襄西部…。長江上流の要港で…かのロマン溢れる「三国志」の英雄、豪傑が栄枯盛衰の葛藤を繰り広げた旧跡地として知られる「宜昌」の攻略戦に…「命運」を賭して進攻した「支那派遣第十一軍」麾下の精鋭「第十三師団」に配属されていた「独立野戦重砲兵第十五聯隊」で…支那事変勃発により、初弾は九月末の大場鎮から、南京攻略戦に引き続き、徐州会戦、武漢攻略戦へと武勲を累ねつつ…機械化装備の機動性を誇り「中支の殿様部隊」と羨望された…通称『トセ部隊』と呼ばれる私たちの所属部隊である。…私が初年兵だった…一九四三年(昭 18)の三月頃は…その「宜昌」から七十km程東部の要地「当陽」の近郊で「金沙舗」と云われる一郭が、聯隊本部の所在地であった。それから更に東南方向に約六km離れた…「太山廟」地点が、私たちの駐留地である…。…長江北岸の物産交易所として…、その昔「楚」の都「荊州」の外港として現在も栄える…「沙市」は…それより四十数km南にあって「沙荊地区」全体の物資を司る要衝だった。この地域を制する戦略的な意味でも「太山廟」は極めて重要な位置なのである。…付近の低地を流れる…「沮水」と「沮淞河」の合流する三角地点の付近では…農産物等を搬送する民間の川船も厳しく監視し…下流約十kmの「河溶鎮」では…各部隊が共同して…此処に架かる木造橋の爆破を狙う敵の破壊活動員の潜入を警戒し、北部の「十里舗」や「荊門」方面に通ずる軍用道路の安全確保を図るべく「分哨所」が…配置されていた。遥かに仰ぐ…西方の丘陵には「唐時代」を懐古するように…文峰塔がそそり建つ…。その一帯は…欝蒼とした緑濃い林に覆われ、思わず神秘的な景観に心奪われて了う…。…朝な夕なの靄に隠れて…様々な野鳥の囀りが…静寂を破って…けたたましく木霊すれば…見え隠れの木々の先端は生き物の如くに揺れ動く…。そよ風の囁きを伴奏にして歌いさざめく小鳥たちの声は妙なる音楽の調べに聞こえて…無聊な営舎に暮らす私たちの耳を楽しませてくれる…。…「沮水」の河辺に沿った綿畑は柔らかな葉を震わせて立ち並び、何処までも…見渡す限りに青く生い茂っていた…。…遠い空に細く立ち昇る煙り状のたなびきは…土着農民の集落から湧き上がる炊煙らしいのだが…滅多に気付くこともない。…人影を見るのさえも珍しい辺鄙な片田舎の一角に…私たち「第二大隊段列」(自動車隊)は…お粗末な仮設兵舎を構えていた…。…毎日が戦闘体勢を軸にした臨時の駐留部隊だから…何時も緊迫の待機姿勢だが、突発的な出動命令にも敏捷に応ずる準備万端を整えていた…。…「太山廟」地区には…此処を厳戒警備する三隊合同の「衛兵所」が存在し…「沮水」の下流、東南十km程にある「河溶鎮分哨所」の方は…甚だ危険が伴う勤務だった。其処は地区周辺では数少ない…貴重な橋梁が架かっている場所で…物産の交易量は「沙市」に次いでの賑わいであった…。…だが、敵のゲリラ隊が頻繁に出没する不穏な気配が濃厚で…露天市場の雑踏には兵隊個人での接近が禁止されていた…。…街のほぼ中央を縦断する「漢宜公路」は、これより西北約九十km先の「宜昌」に通じ、その地区の最前線で…中国軍、第六戦区の四十箇師と「長江」を挟んで相対峙する第一線の歩兵部隊『野地支隊』を指揮する…第三十九師団司令部(司令官澄田来四郎中将)の…所在地「当陽」に軍需物資を搬送する我が軍の生命線とも云うべき軍用道路である。この「河溶鎮」の西部進入路を昼夜兼行で警護する我が分哨所は十五人一組の週間交替ながら…重要な任務とされ、微塵の「隙」も見せられない…命懸けの勤務だった…。…二月末頃から、第十一軍では隷下の八箇師団を総動員した大規模な「江南殲滅作戦」を発動し…、襄西地域全般に及ぶ作戦は…熾烈な戦闘の連続だった…。…友軍の各部隊が並列をつくり包囲網を仕掛ける戦術も、複雑な地形には間隙が随所にあって、それを縫うように潜り抜け、巧みな反撃戦を繰りだす「国府軍」麾下の正規部隊は各地区で戦闘体勢を整え直し、精悍な奇襲戦法を連続反復して日本軍に抵抗し…「トセ部隊」が根拠地とする「沙荊地区」にも怒涛のように押し寄せてきた…。…「太山廟」陣地でも砲撃隊以外に徒歩編成の迎撃隊が、その都度小刻みに出動した。その攻防戦の…盛んな硝煙は、近在の住人を脅かし、夜戦に慄く…犬の咆哮が不気味に尾を引いて…夜空にこだまするのも物凄く…営舎警備中の動哨も…思わず一瞬停停止し、固唾を咽んで…闇の一辺を凝視して…時間が過ぎるのを忘れる程の恐ろしさであった。この…「江南(北)殲滅作戦」が頂点を過ぎ、出動回数も急激に下火になってきた五月始め…、入隊してから十日そこそこだった私たちの新兵教育が開始されたのである。「こんどの初年兵は腑抜けばかりで、ものになりそうもないなッ…」二言目には…口汚く罵倒される私たちは同年兵の数が僅かに六人であった…。重砲隊の大隊段列(物資輸送自動車隊)は…戦時体制の臨時編成だから、正規の教官に該当する将校がいないので…実務的な技術指導は古参兵が、これに替わって実施した…。この場合は、現役三年兵の佐藤実上等兵が選抜されたのだが、彼とても「歩兵操典」の小型教本を片手に持ちながら…基本的な「執銃各個教練」を行なう程度であった…。 「砲兵隊でもッ、この野戦ではッ、全員が小銃の操作に熟練する必要があるんだッ…」二年前の「宜昌」作戦当時に初年兵だった佐藤上等兵は、激烈な地上戦闘を体験しているだけに、「執銃教練」は特に熱心だったが、詳細な部分になると「教本」を何度も繰り返して覗きながらも、親切に教える態度は前線とは思えない優しさが篭もっていた。私と「芝田英夫」は兵隊に召集される以前、中等学校で軍事教練科目の規定時間を修了していたから、それほど苦はなかったけれど、他の四人は「敬礼」も満足にできない状態だったので…、毎日の教練時間になると…彼らは一生懸命だった。この近辺は最前線も同様だから、早く小銃操作に熟練しないと、敵兵の襲撃があった時には…「生命」に関わるような大事な技能だから、みんな真剣だった。佐藤上等兵は…東京の生活が長いと云うことで、言語が明瞭なので、関東人の私たちは安心して彼の云うことを聞いていられたが、彼の同年兵は…全員東北出身者で、青森、岩手、山形方面から、いきなり入隊した者が大部分だったから、三年兵になっても肝心の軍隊用語に…東北訛り特有の鼻声がひどい者が大勢いた…。…彼らに突然話掛けられると、中々意味が理解できず、この連中と交渉が多いだけに、私たち初年兵にとっては…公私にわたって…その「ことば」を正確に聞き分けることが、最大関心事になっていた。…五月初旬から始まった教練が三ヵ月経ち、第一期の検閲があったが、野戦のことだから、無難に済んで…私たちは軍服姿が一応さまになる程立ち居振る舞いが慣れてきた。八月の声を聞いた頃、同年兵の「井戸克平」が突然「船舶工兵隊」に転属することが決定したと云う「部隊命令」の通知が入ったのである。彼は羽田飛行場近辺の小型漁船を扱う漁師だったから、その当時の「焼け玉エンジン」は…お手のもので…操舵手腕もあるし「船舶兵」としての基礎技術は十分に備えていた。それが、今回の「特殊船舶兵」に彼が選出された最大理由だったらしいのである…。「船舶兵じゃァ、命がいくつあったって足りゃぁしねェッ…、もう…皆とは二度と会えねぇなぁッ、まさか…こんな運命だとは…気が付かなかったよッ…」彼は小型船で海上の仕事をしていただけに、「板子一枚下は地獄の海雀…」の割り切った心境で、覚悟を決めて…トセ部隊を離れて行った…。私たちは「井戸克平」が長年の職掌柄、度胸良く…平然と転属していったのが、彼にはプラスだったのかマイナスなのか見極めもできないうちに、今度は…もう一人の同年兵と別れなければならぬ事態が起こったのである…。それは…、「遠藤岩夫」と云う男で、福島県の常磐炭坑の採掘夫出身で年令は若いが、熟練工夫なのだと云うことだった…。その時代…。「黒いダイヤ」と呼ばれた石炭は…重要燃料として国家存亡の鍵を握る重大使命を担っていると云われ…「国指定技工士」と認定されていたので、戦力挽回作戦に寄与し…、国力増強の推進力たる産業戦士として呼び返されたのである…。日本が「聖戦」を遂行する為には「ABCD包囲網」の連合軍に対抗しなければならず…保有資源の少ない不利な条件の中で戦局を好転させる為には課題が山積していた。「太平洋戦争」が開始されてから既に一年有半、その間に…日本軍…必ずしも有利な戦況ばかりとは云えぬ事実が…各地の戦線に点々と出現しつつあった。…大本営の思惑とは裏腹に、国内の経済問題等は次第に逼迫し、工鉱業方面の衰微による国力の弱体化は免れず、国運はもはや憂慮すべき状態だったのである。中支戦線、沙荊地区辺りからも、次々と…若い兵隊の「持てる能力」が引き抜かれていく程、日本が容易ならざる事態に追い込まれているのかなと、私たちは…朧気ながらも、不安の思いに駆られ…戦友同士で…声忍ばせて語り合う日が増えた…。「なぁッ、この戦争は並み大抵なもんじゃぁ済まされないぞッ、生きて帰れるかどうかもッ、判らねえッ…大変な時代になったんだよッ…」芝田英夫は歳は若いが、東京府下、原町田の素封家の当主だから、素寒ピンの私などとは…世界を睨む視点が全く違うので、云うともなしに洩らす言葉は反戦的の匂いがした。私たちは社会的に低い立場の人間だから、物事をそんなふうに判断する能力が育っておらず、何がどうなっているのか…一向に理解できないのである。「俺たちゃぁッ、これからァどうなっちゃうんだろうッ…」…『東洋平和のためならば、なんで命が惜しかろう……』と、拍子を執って歌う軍歌演習の勇ましい歌詞の内容も、蛮声に消されるだけで…ただの虚しい雑音でしかなかった。この沙荊地区近辺の状況を知るにつけても、いつかは大きな戦闘に捲き込まれていくのだろうが、生き残れる可能性が薄いような予想ばかりが迫ってくるのである…。「もう…生きて内地の土は踏めないのだろうか……」歩兵部隊でもないのに隊伍を組んで「討伐」に出動する古参兵を見送る回数が増えるにつれ、私たちが…夜間に小銃を抱えて営舎の周辺を巡回する勤務も、仇やおろそかにはできない悲壮感があり、その姿勢には気迫が篭もっていた。毎朝の点呼時には週番下士官の注意事項として、必ず…中国軍正規兵の動向や、共産軍の撹乱戦法等が詳細に説明されることは…日増しに状況が険悪化しているに違いない。………………。「此処の不寝番でも、ぼんやりしていると敵のゲリラ兵に拉致されるんだぞッ…」そればかりか…、日本軍営舎の焼き討ち計画の動きもあるのだと言う…。「何処かで眼鏡付きの狙撃銃を構えている奴がいるかも知れんから…、公道の補修整備作業をする使役に出ても指揮官は付近の敵状を十分把握して、絶対に油断は禁物…」そんな訓示を聞いていると、初年兵の私たちでも…最前線の、この付近が予想以上の危険地帯であることを肯定しない訳にはいかなかった…。それでも…、日を累ねて体験させられると…前線勤務の緊張感も…何となく慣れてくるもので…その頃は第二期の検閲を目標にした演習に追われていた…。丁度その八月中旬頃に、我が部隊に近々…大量の召集兵が入隊する情報が流れてきた。日ならずして、それが事実だと云うことが判明したのは、その受け入り準備の為に、各中隊で設営班が組織され、殆ど一斉に営舎建設工事が開始されたからである…。湖北省…襄西地域の真夏は、昼間の猛暑が連日続いて、予想外に苦しいものだった…。設営工事は使役兵を困窮させた…。如何に「野戦重砲隊」が土木作業に慣れているとは云え、直射日光をまともに浴びて長時間の野外作業をするのは無謀な行動である…。現地農民のように日除け笠をかぶって緩慢な畑仕事をするのと異なり、私たち兵隊にはそんな生温い動作が許される筈もない。防暑帽だけが唯一、身を防護する手段で…、土砂を掘削して平坦地を作るのも…勿論、円擘(スコップ)を使っての人力手作業である。…二人ひと組みの「もっこ担ぎ」は…初めての経験者にとって苦行そのものだった。最下級年次の私たちは…専ら力仕事ばかりが受け持ちだったが、尤も…土木建築の技術でもあれば…別扱いをされるのだろうが、その頃は…只、無芸大食のていたらくだったから、徹底的に「こき使われ」しごかれる有様は、われながら情けない姿であった…。…素ッ裸の上半身は灼け付くような太陽に曝されて赤むくれとなり、…両肩には血の滲んだ無慙な「棒だこ」が腫れ上がり…見るからに痛々しい相好である…。…重労働に明け暮れた九月が終わり、営舎の施工は見るほどに格好がついてきた…。仮設とは云え、屋根瓦もしっかり葺いて…、内装の床や、整頓棚も完成し、寝台(マット)の寝藁入れも済んだ。新設営舎への…引き込み道路の敷設も終了した…。…十月が終わる頃、到着した初年兵約三百名の内「二大段」には三○名が入隊した…。…関東者らしく…時節柄、威勢はよかったが、それは空元気で…全員が三十五歳前後のロートル(老年)兵だったから…もう…体力が衰え始めた連中ばかりである…。…新しく完成した営舎で、初年兵を一括合同して…野戦式内務班規則及び、兵隊の基本動作を習得させ、各個教練等を初歩から実施する為…その教育係には第四班の北島兵長が任命されて、彼ら老年兵と寝食を共にしながらの教練が開始された。その頃漸く陸軍一等兵になったばかりの私が…荒張班長から、非公式の助手を務めるように言い渡されたが…、勿論、班内では三度の「めし上げ」と称する食事の支度や、後片付けは欠かせなかったし、掃除も洗濯も省けない。…それに…小銃の手入れ等は特に丁寧にしなければならぬのは当然のことであった。…新営舎では…北島兵長が正式の初年兵教育に慣れておらず、不安気な顔でいらいらしており、三十人の老初年兵に当り散らしていた…。私は兵隊に徴集される以前、曲がりなりにも公立青年学校(本科四年・研究科二年)の規定軍事教練を卒業していたので、北島兵長の滑稽な動作を見ると…思わず吹き出しそうになってくるのだが、ぐッと噛み堪えて…そ知らぬ顔で彼の脇に従っていた。…なまじ…物知り顔で…横から口を出して、彼の自尊心を傷つければ、それこそ思いがけない逆恨みを食らうことになるし、とばっちりを被らぬように用心したのである…。飽くまでも…私は雑用係なのだと割り切って、油断なく気を配っていた。古参兵が何人も待ち受けている自分の「班」にも抜かりなく戻らなければならず、双方を掛け持ちで行き来して、眼が回るようだった…。…第四分隊長、荒張軍曹の当番兵を悠長に務めている同年兵の芝田英夫一等兵を羨ましそうに眺めながら、内務班で傲慢そうに「とぐろ」を巻いている最古年次兵の顔色をそっと窺い、腫物にでも触れるように気を遣わなければならなかった…。

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