衛兵勤務

03.衛兵勤務
 …私自身も未だ、自動車操縦教練の最終検閲が間近に迫っていた…。その繁忙の中で…昼夜の別もない…非常呼集が発せられ、前哨線破壊を狙う敵軍を阻止する突撃隊や、歩哨線上で拉致された日本兵の捜索に指名されて出動するなど…そのような突発的な実戦を織り混ぜた「訓練法」が、隊内では当然のように是認されていた。…また、営舎内に於いては「軍隊内務令」を基本にした「典令範」通りの「軍紀」という「鋳型」に…初年兵をはめ込んで…「服従精神」が「第二の天性」にまで変わるように…スパルタ式教育を強制されていたが、僅かの反発も許されないのが「鉄則」であった…。…後日知ることだが、それは…人道に反した目茶苦茶なもので、殆ど批判や…思考を差し挟む余地を与えない…野蛮極まる「全体主義」に一律順応させようとするもので、全く人間性を無視した「独善他悪的」な…超無法地帯の世界だった…。…初年兵や、中途入隊の転属兵にとっては…まさに地獄の責め苦なのである…。…部隊生え抜きの古参兵にしてみれば、長年の兵役服務に対する唯一の不満解消法で、表面には出せない怨嗟の思いが…陰湿なサディズム的な刺激を快感として…不純な快楽を求める…哀れとも云うべき倒錯の境地にのめり込んだ姿は狂乱者そのものであった…。…当時…「私的制裁、禁止」…の「聯隊長命令」は単なる飾り言葉で、部隊内部では暗黙の了承をしており、人事業務を司る隊内の「事務機関部」でも内実は不干渉方針をとっており、暴行虐待が表沙汰になることは殆どない…。…私が北島兵長の「助手」的立場で、彼の…次元の低い、野蛮な指導法を批判したり、意見具申等が、簡単に許される筈がない。それよりも尚…困ることは…蛮声を張り上げて初年兵に「気合い」を入れる彼が異常に興奮してしまう時である。…「保科ッ、此処へ来てェ、俺がするようにやってみろょッ…」と得意げな顔で…私にも「ビンタ」の仕方を教えようとするのだが、そんな事態が起きるのを予想していた私は…無法な制裁を促されても、恐怖心で怯えきった老兵を殴りつける気などなかった。「内務班の石崎古兵殿に用事を頼まれていますので…」などと、時間を気にするようなふりをして、その場から逃げ出してしまう…。…毎度…同じ口実も通らないから、そろそろ…兵長の癇癪玉が破裂しそうな雲行きを察した時には素早く体裁を調えながら、その場の脱出を図っていた…。…北島兵長が威厳を誇示する方法は…、日本陸軍が明治以来の伝統的な暴力を主体とする懲戒法であって、それが士気高揚に繋がる良策とは到底考えられないものだった。…硬直して不様な姿勢で立ち竦んでいる老初年兵の方にこそ…知識も常識もあるのだが…軍隊生活の未経験者は有無を言わさず無能者扱いにすることが、古年兵の威厳を保つ「前提」として…当然のように、この愚行が罷りとおっていたのである…。…かつては豊富な経験と社会的地位もあったであろう…年嵩の初年兵たちには…このような教育法は…無意味であるばかりか、全く逆効果になって了う…。…耐えきれない忍耐を無理強いする暴君の低級なしごきは連日猛威を揮っていた。…私がなし得たのは…兵長に隠れて…新兵たちに軍隊の駆け引きと、要領のイロハを伝授することくらいだが、それでも…精いっぱいの援助をした積もりであった…。北島兵長は前年(昭17)の八月末に…、東京世田谷の原隊「野重八」から、この 「野重十五」に約三〇〇人の既教育初年兵と伴に転属してから、七カ月目になっていた…。十六年七月召集兵の彼は、トセ部隊に転属後の十八年九月一日付で選抜兵長になった。然し、…中支戦線の先輩面で得意気に反り返っていた連中には、何年経過ってもうだつの上がらぬ不平不満の権化みたいな奴もいて、何かにつけて北島兵長を煙たがり…陰湿な嫌がらせや妨害を仕掛ける「横暴」が続いたから、彼の悩みも並み大抵ではなかった…。…だが…反発ができる筈もなく、我慢と忍耐の極限に耐える感情の吐け口として…折しも入隊した…初年兵集団に教育係として君臨した優越感は…彼を有頂天にさせた…。強きに靡き、弱きを挫く…軍隊特有の悪弊に彼がのめり込んだのも当時の世相を反映して至極、当然な成り行きだった…。…専横な振る舞いに溺れていると、一方的に優位な自分を錯覚して…自制心を失い、初年兵教育の正当性の蔭に隠れて、連日荒れ狂うのが彼の生き甲斐のようになった…。北島兵長と私は同じ第四分隊だったから、流石の彼も荒張班長が補助要員として特別に指名してくれた私を困惑させるような無理強いはできないのである。…「老いた初年兵」たちは…さして深い事情を知らないから…ストレートに観察しており 「保科殿はーご立派でありますッ」等と見え透いたお世辞で褒めそやしていたが、私は…そのような煽てに便乗して得意になる程、余裕がある身分ではない…。…駐留部隊の営舎は俄造りの仮設工事だから「堀っ立て小屋」同然で、建て付けも戸締まりも不完全だったし、窓も少ないので…昼間でも薄暗く、その上隙間だらけであった。私の日課として…毎夕、ランプの「ほや」磨きは欠かせない仕事の一つだったが…。…この「ほや」は薄いガラス製だから壊れやすく、汚れを拭くときは…どんなに忙しい最中でも、神経を使う…大切な日常業務になっていた…。…この地域に発生するマラリヤ病予防の方法等も…甚だ原始的な「蚊」の駆除方法で、やたらにいがらい煙が出る「野草」を刈り蓄めして…半枯れになったものを「土間」の片隅で暫らくいぶして…マラリヤ菌媒体の害虫「はまだら蚊」を追い出すのである…。この「蚊いぶし」作業は夕食前に必ず実施しなければならないが「三日熱」と呼ばれる…この風土病の恐ろしい病状は、毎朝「点呼」の際に「週番下士官」が再三再四…注意事項を繰り返すのだが、週間の罹病率にムラが多く…必ずしも成果を上げると云う程の薬事効果があったとは思えないものだった。これは…十月頃迄続けられていた…。…営舎裏の崖下を静かに流れている「沮水」は、南へ下れば「長江」に合流するのだが、此処の河原は、普段では駄々っ広いだけで、水流は細く弱く…幾条にも別れていた…。…水質は清澄とまで言えないが、濁りを気にするほどではなかった…。…対岸迄はかれこれ三百mぐらいだったが、そう簡単には渡り切れない深みもあって、その付近からは、遂に一度も向こう岸へ渡ったことがない…。…対岸の後方には農産物交易所の「慈化市」があるから、ゲリラ活動も活発で…時折聞こえてくる銃声が不気味に響いて…兵隊たちは神経質に聞耳をたてる。…夜間になれば…営舎の周囲を二名の「不寝番」が哨戒し、厳重な警護をするのは無論のことだが、昼間でも予断を許さぬ非常警戒区域になっていた…。…別棟の教練用営舎で寝起きする「老初年兵」と内務班に別れている私たち下級兵士は、毎日の洗濯や…三度の食器洗いには、この岸辺の「洗い場」を使用するのである…。雨が降ると、この川は黄色い濁流に変わるので、食器を流失してしまうのが、お互いさまに…何よりも用心しなければならない事項だった…。…そんな時、私たちはえたりとばかりに…尤もらしい指図をして、先輩面を保っていた。…営舎の内外を警戒監視する夜間の不寝番は複哨だが、これは新旧の兵隊が組んで勤務することになっているのだけれど、怠慢の古参兵が、要領よく営舎の蔭などに身を潜めて休息することがあっても、若年兵は一人で…黙々と巡回を続けなければならない…。前線の部隊は各中隊が離ればなれに独立していて、点呼も炊事も、勿論…不寝番も中隊別だから、深夜の単独哨戒等は中国軍ゲリラ隊に拉致される危険性を胎むことになる。…戦況は急激に不穏となり…「共産軍」が、駐留地付近を不定期に徘徊したり…、営舎近辺にまで出没するようになると、急遽…地区三隊合同の討伐隊が編成されるのである。…中隊の半数に近い兵隊が出撃すると残留者は「事務機関」部室の数名を除くと、入隊したばかりの初年兵と病弱者に、その他は少数の「太山廟衛兵所」勤務要員だけとなった。…「野重十五」が創立された一九三七年(昭12)九月以来、第八次目の召集兵で、昭和十八年十月末に最古参兵となった彼等は…同年兵の員数も多く、苛烈だった三年前の「宜昌」攻略戦当時に苦渋を舐め合った仲間意識がとくに旺盛で…結束心が強かった…。…どういう訳なのか性悪の者が多いのだが…彼らは中隊毎にどっかりと胡坐をかき、根を張り巡らせ、我侭を繰り返して…下位年次兵の顰蹙をかう行動が続くのである…。当然上位の下士官や人事係の曹長がそれを知らぬ訳はないのだが、その頃は春の江南殲滅作戦以来…「野重十五」が大幅な転換期を迎えた時期で…、新入初年兵の受け入れや、満期帰還兵の事務処理に追われて…隊内の細事として見過ごすことでお茶を濁していた。既教育の現役兵ばかりで部隊編成が成り立つ時代と違い、戦況の千変万化に呼応しながら軍司令部の命令追随に精一杯だった当時の脆弱な部隊事情が、その悪弊を助長した。そして…晩秋からは第十一軍司令部が乾坤一擲の采配を揮って「湖北襄西部」に展開した「常徳殲滅作戦」は四箇師団が江南地区に進撃し、果敢な遭遇戦が繰り広げられた。…中国軍の戦略は「第六戦区軍」が江南で日本軍に反攻する間に、江北荊襄地方に集合した「共産軍が、必ず蜂起するに相違ないと先読みしており…日本軍と共産軍の双方同時の共倒れを企図した狡猾な「戦術」だったが、果たせるかな沙荊地区の「共産新四軍」はこれこそ…戦意昂揚の時節到来として「当陽」の日本軍第三十九師団司令部の壊滅を目標に、大々的な進攻を開始したから、瞬く間に付近一帯のわが軍は、迎撃戦を展開する事態となり、「金沙舗」と「太山廟」に駐留していた「トセ部隊」でも「十加砲」を数門出動させたが、敵兵の方も手薄になった残留隊を狙っており、大抵…暁前の未明時に「非常呼集」を知らせる合図で…全員が規定部署に配置されて襲撃に備える態勢を執った。この残留隊でも…夜間の「不寝番」は実施していたが、第二大隊本部、第三中隊及び、二大段の三隊合同の「太山廟」地区の衛兵所勤務は愈々、命懸けとなった…。…一カ月前に入隊したばかりの「老初年兵」に「衛兵勤務」をさせることは出来ないから…病気等、故障者を除くと中隊の勤務要員は十人そこそこの状態だった…。而も、古参年次兵は大抵「病欠」などと申請し、勤務回避が巧妙なのである…。…そのような状態だから、当時…残留隊の中でも最年少の私たちが勤務要員になる比率は箆棒に高く、五日目毎くらいに「衛兵勤務」が巡ってきた…。そうしたことは通常の軍務では殆ど考えられない過剰勤務なのでるる………………。…第三中隊の営舎や砲廠等が在るこの地区の丘陵を巧みに応用した斜面は凹凸が多く、その低層部付近に粗末な小屋掛けの「衛兵所」があった。その裏側の小道を北にジグザク状に歩き…最上部まで登り切った所が最裏面を警戒する位置だった。此処は昼夜間共複哨勤務で、甲地点と乙地点を交互に移り替わる動哨である…。…夜の歩哨は、十二月の星空を頭上に仰いで、淡い採光に透かして見える前方眼下の遠景を監視するのだが、胸まで没する深さの掩蔽壕が…この哨戒通路になっていた。…故意に曲がりくねらせた壕内から頭一つを出して斜め下の北東方向に視線を懲らすと、「沮水」対岸の後方に見える筈の「慈化市」の上空は闇に包まれて、集落と思われる方向には…些細な灯りも洩れることがなかった…。…歩哨交替は下方の衛兵所から、歩哨係上等兵に引率された二名の要員が、約十五分もかかって…この最上部へ到着するまでの間、受け持つ動哨は丸一時間である。…複数の軍靴の踏み音が地面に吸い込まれるように、秘かに聞こえ始めてから、次第に足音が接近してくるまでの間は…微かに犬の遠吠えが聞こえる程度の静けさで…風もないのに前方の「ぼさ」が俄に騒めくような気がして…緊張の連続状態だったから、真冬にも拘らず、寒気も忘れるような絶え間ない不気味さが…恐怖心を募らせる…。…此処以外の哨戒位置は「衛兵所」前を南東へ三百mぐらい歩いた所で、第三中隊の営舎等が並ぶ斜面を下った所だが、其処は軍用道路たる「漢宜公路」の手前であり「太山廟」地区の中心部になる場所だが、丁度十字路を構成する形で、この「公路」を挟んだ前方の通路を約五百mの奥には「第二大隊本部」の建物が見え…その後方「沮水」の流れに沿っている「大隊段列」の営舎と自動車廠があった…。…遥か東方…二百数十kmの「漢口」から、西方八十kmの「宜昌」へ延々と連なる…これは湖北省屈指の軍用道路だから、通行の安全確保と補修整備を行なう任務は、公路沿道近辺に駐留する各部隊にのしかかる分担業務で、重大使命の一つになっていた…。この位置での警戒監視は…昼夜間を通して単独哨戒である…。…「公路」から十m程離れた所に三方が見渡せる一人用の「立哨小屋」があった。友軍のトラック隊列等が時折通るくらいで、土着の農民などは日本軍を敬遠して、滅多に此処を歩かないが、農産物を交易所に運ぶ商人が驢馬を率いて通行することもある…。…然し、中国人には「良民証」の検閲と、不審人物の検問が服務規定に入っていた…。ゲリラ活動阻止と軍機漏洩等の防諜運動に重点が絞られていたからである…。…北西部約六kmの「金沙舗」の聯隊本部へ定期的に「命令受領」の任務で行き来する下級下士官や、大隊本部を往復する連絡将校等が、頻々と交差するから、立哨中は結構気骨の折れる時間なのだが…、この一昼夜ぶっ通しの「衛兵勤務」だけが…「蛇蝎」のような古年次兵の執拗な折檻から逃避出来る唯一の憩いになることでもあった…。

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