動 員 令

04.動 員 令
 故国を遠く離れた中国の…、湖北省沙荊地区の「太山廟」警備地は、その頃、第三十九師団管下に配属されていた「独立野戦重砲兵第十五聯隊」の第二大隊本部が、これを司り…「金沙舗」に在る第四中隊を掌握しながら、この「太山廟」の二箇中隊の先頭に立って指揮を執り、重要拠点の丘陵地帯を警護していた…。此処は…「師団司令部」のある「当陽」から南へ約十km程下った場所で、この周辺に跳梁する「共産新四軍」等を迎え撃つ…前哨線になっていた…。其処の勤務は…。若い私にとっては…予ねてからの思惑を大幅に超える最前線であり、而も…苛酷な服務内容に耐える「辛苦」の世界でもあった…。…唯ひたすら…時世の波に玩ばれて…あやなす運命に翻弄される己れを肯定しつつも、次第に自虐的な思索に耽溺していく自分を…抑え切れなかった………。…どう足掻いても、この枠内からは脱出不可能なのだと、思えば思うほど索然となって心身の疲労は倍加し…悲痛感だけが滾々と込み上げてくる…。…人知れず、悔し涙を拭う忍従の日々は何時終わるのか予測も出来ない状況が続いた… そして…その年の晩秋…(昭十八…十一月末)になると…大規模な「常徳殲滅作戦」の渦中に巻き込まれた私達は、共産匪の迎撃戦や追討に狩りだされた…。…私は軽機関銃の射手として、先輩の古兵に小突かれながらも敵兵に戦いを挑んだが、二度も三度も噴死寸前ぎりぎりの場面に遭遇し、その都度、必死になって身体を躱し…危難を逃れて生き延びていた。敵軍の抵抗は予想以上に組織だっており、たかが「討伐戦」と侮れない…精悍な敵兵の物凄い勢力があり…征く先々で猛烈な反撃を食らい、我が部隊は悩まされていた。…俗に云う「肝っ玉が縮み上がる」ほどの恐怖感を連続して味わったのである…。…………………。…一九四四年(昭19)「太山廟」地区で、私は最初の正月(新暦)を迎えた…。…作戦行動の成果が表れたのは旧臘十二月中ごろだったが、荊襄地区を無惨な砲火で蹂躙した…あれほどの殺伐な雲行きが…一応晴れ渡ったかの如き様相を見せるようになった。「長江」を南北に跨いで繰り広げられた「常徳殲滅作戦」は一応成功したものとされ、地域一帯の将兵たちの緊迫感が久しぶりに解除された…。私たちにも何となく落ち着いた雰囲気が漂い、安堵の表情が戻った…。…貴重な正月用の日本酒が支給されると相好を緩めながら…風呂を沸かして身体を温めると、望郷の念が脳裏に浮かんで…それぞれが家族を偲ぶ話題に花を咲かせるのだが、私たちは一ヵ月前の戦闘で亡くなられた戦友の霊に手を合わせて…その不運を泣いていた。…昨年の十一月頃に何回も勃発した「日本兵拉致」事件にその都度、捜索隊に召集され…「沮水」の水流に潜水したり…その探索に苦行したこともあった…。…神出鬼没で暴れまわる敵「新四軍」の追撃に毎回参加して…農村集落周辺の水田地帯を闇夜に「軽機」を担って進み、クリーク沿いの匍匐前進などは、都会育ちの私が尤も不得手な行動だったし、状況把握も無我夢中で…それこそ只闇雲の…進撃を続けた苦い思い出が蘇ってくると…現在の我が身を意識して「ほっ…」と胸を撫で下ろしていた…。暫らくの期間…、激しい戦闘は起こらなかったが、広大な襄西地域には、相も変わらず共産軍のゲリラ隊が各所に出没し、日本軍の前哨陣地を挑発し、小人数の分哨所等を狙撃してそこの孤立化を図り…日本兵の戦意妨害を目論んでいた。特に、河川が多く平坦な農村地帯の沙荊地区に存在する物資集散の交易所付近では…どうしても小さな衝突事件が絶え間がなかった…。…「第三十九師団」(藤兵団)の警備区域内を流れる「沮水と沮淞河」の合流地点際の、「河溶鎮」の警備主導権は歩兵部隊が掌握していたが、トセ部隊でも「第二大隊本部」の「太山廟」地区から選抜した一組十五人の「分哨所」警備要員が派遣されていた。此処は、この界隈では珍しい堅牢な橋梁が架かっていて、四方へ通ずる交通の要所だけに、交易所の賑わいも盛大だったが、食料等を調達しにくる敵のゲリラ活動もまた活発で…分哨所付近は常に昼夜を問わぬ危険を胎む情報に脅かされた。…従って…分哨長が小胆者だと当然、配下の兵隊に振り掛かる負担任務が増大する…。…昨年の晩秋から約二ヵ月も続いた「常徳殲滅作戦」の恐怖心が未だ残っているので…愚にもつかない臆病風の発想で、必要以上に細かい哨戒項目を命令して、警戒を厳重にするから、勤務につく兵隊は休む暇がないのである…。当然…疲労も激しい。…それで、そのような分哨長を「頭」にした週は…「貧乏籤を引いたなぁ…」…と兵隊たちは明け透けに声を出してせせら笑う…。…文字どおり「生死」を懸ける警備任務の中では、信頼感を微妙に揺さぶる心情が、兵士にとっては自己防衛上の必要から自然に洩れる愚痴であった…。和やかな会話が少ない分哨所勤務は…何れにしても息の詰まるような一週間なのだ。この地方の気温は二月頃でもせいぜい氷点下五度前後で、防寒軍装も内地並みである。…大雪は滅多に降らない地域なのである…。…たまに小雪がうっすらと降り注ぐ程度だったが、夜間の歩哨勤務ではかなり骨身に応えるので、何かしらの対策をしないと、非常の場合に不覚をとることにもなる。私は農村出身の戦友から細かに潰した唐辛子を藁と混ぜ合わせて揉みほぐし、編上靴の爪先に詰込んで冷気に耐える刺激療法を教えて貰ったが、腫れ上がる手指の凍傷だけはどうしても防げないので、顔の造作を歪めて…痛さを我慢しなければならなかった…。…大好物の「酒」も滅多に飲めないし、車両洗浄や食器洗い、雑巾がけ…と水仕事が多いから、寒い期間中では治る気配もあるまいと…諦めていた。…そうした中でも…暦が春の三月半ばを過ぎると、日溜まりを撫でるような…そよ風が吹いてくるので…頑なな心も緩み、小さな声だが…鼻歌も出るような気分になるのだった。…戦地生活が小一年も経つと殺伐な雰囲気が当たり前となり…気に触る事項が少なくなって、今まで辛かった仕事も難なくこなす技能が身に染みついて…多少のことでは驚かないし、なんとなく笑い顔も多くなるものである…。…その頃、「金沙舗」地区の聯隊本部に命令受領の連絡兵が持ち帰ってきたと云う聞きかじりの「噂話」が密やかに伝わってきた…。…「野重十五」が新たな大作戦に主役で参加すると云うとっておきの極秘情報だった…。それは忽ち、太山廟地区の兵隊間に急速な「口こみ」で広がっていった…。「確かな情報」だと云うものの、誰が責任を負うのでもない、その内容は、今世紀に到来した「戦争」の中でも最大と言われる程の大作戦であり…、日本軍の一部には「生還不能」も予想される凄絶な戦闘になるらしく、進攻先は中国の南部方面で、アメリカ軍との遭遇戦が想定され、これが日本の国運を左右させる重要な意味を持つとされていた…。これは当時、大本営参謀本部の戦略構想が、南太平洋作戦の悉くが失敗し、苦渋を舐めた挽回作戦として企図されたもので、大日本帝国建軍以来の作戦構図であった。…広西省の「桂林」飛行場を撲滅して 日本本土爆撃を封じ、中国を縦断する主管公路及び、同じく南北に通ずる鉄道幹線を掌中に治めて物資輸送を容易ならしめ…、苦戦に喘ぐ南方全軍に「活」を注入すると云う大戦略で、湖南省、広東省と更に南部の欽州湾の三方面からも…同時進軍を開始するもので、噂どころか…既に、遠く満州方面から、関東軍の一部が、この作戦に参加しており、北支軍の直属一箇兵団と共に南下しつつあった…。 …支那派遣軍総司令部の下命を受けた…第十一軍(横山勇中将)が背水の布陣で…隷下全軍に対して動員令を下すのは時間の問題とされる既成事実であった…。…歴史的な戦略構図は、軍事機密だったが、南方の太平洋戦争は三年目にして早くも勝利の女神に見離され、各地の部隊は壊滅し、或いは敗走しつつあると云う…混沌とした非常事態の日本軍部に末期症状の兆候が色濃くなったこの頃から軍機漏洩は珍しくなかった。…「人の口に戸は立てられない」…の格言どおり…「トセ部隊」の将兵が単なる流言蜚語として聞き流せない…信憑性を感じ取ったのもあながち不思議とは云えないのである…「俺たちの寿命も…先が見えてきたようなもんだなッ…」…「もしも、トセ部隊が全滅するとしても…何人かわ…生き残るんだろうなァ…」「なに未練がましいことを言ってるんだッ、Bー29の大型爆弾と Bー25 の集中攻撃を食  らったらァ…それこそ欠片も残るもんかいー…」 部隊が終焉する際にも都合のいい存命を願う…身勝手さを嘲笑う者がいるかと思えば、 「日本軍がァ、南方各地で…玉砕しているってぇのは『確かな情報』らしいぞッ…」連合軍を向こうに回す戦争に…早くも勝利諦観論を振りかざす半可通の兵士もいた。 …「それじゃあッ、わが命も…今や、風前の灯火なのかいッー…儚いもんだょなァー…」 「精々、命がある間に…せめてーうめェもんでも食おうじゃねェかぃ…」…可能性のありそうな欲望だけを殊更に強調して、お互いを揶揄し合うことが下級兵士たちのささやかな生きる証しで、僅かでも『死』に反抗しようとする言葉なのだった…。「さよなら…を云う彼女がいる訳じゃァねぇし…さっぱりしたもんだァねー…」…投げ遣りな苦笑で…内心の戦慄を、茶化して誤魔化そうとしても…隠し切れない悲壮感が…、身体中に溢れてくるのも無理のないことであった…。………………。…四月末になると…大袈裟だった風評が現実となって、正式に「動員令」が公表された。…私たちは隊長の武本良平准尉から…「今度の動員令は…並々ならぬ意義があり、わが聯隊の使命は重大である。お前たちも…今度ばかりは身命を賭してッ、奮戦してくれッ…」と、難しい訓示があったとき、漸く真実味を意識して…身震いしながら聞いていた…。「皆の命はッ…この武本が貰ったッ…覚悟を決めて、抜かりなく出陣の支度をせいッ」『死して虜囚の辱めを受けず…』と「戦陣訓」の一節を声高に唱える隊長の顔は流石に過ぎし…一九三九年(昭一四)…。内蒙古草原に於ける…日ソ両軍の紛争で、日本軍が初めて体験した機械化戦で全滅に近い大打撃を被ったと云う、かの「ノモンハン事件」の数少ない生残り兵士として、その後、累進した…叩き上げの特志将校の雄姿であった…。

 『 ♪ 山の淋しい湖に…
      ひとり来たのも悲しい心…
       胸の痛みに耐えかねて… …、……♪ 』

…茨城県那珂郡出身で最古年次の石崎八郎上等兵は郷愁の遣る瀬ない想いが去来する胸の内を他人ごとのように…さらりと小声で歌い流し、無聊の昼食後のひと時に花を添えた。…元トラック運転手だった彼は、険しい外見に似合わぬ繊細な神経の持ち主だった…。…兵隊たちはその歌が、いま内地で流行の『湖畔の宿』なので…人気女優の高峰三枝子を 瞼に描きつつ…、暫しは和やかな雰囲気に浸り…、厳しい現実を忘れようとした…。…だが…この石崎上等兵が僅か二ヵ月後に戦死するなどとは想像もしていなかった…。今迄に大小数え切れない戦闘に参加して、千軍万馬の古強者なのだと自負心を持っていたにも拘らず…このように粛然となっている自分たちを自覚すると、兵隊たちは新旧の年次さえも埓外にして出発準備の分担表を作り、作業工程を消化していった…。…残飯整理用に飼育していた黒豚五匹は、数人で…格闘騒ぎの末、遂にこれを屠殺し、豚肉の味噌漬けを幾樽も製造し終えた…。…携行食糧は膨大な数量になったが、長期保存方法に就いては「老初年兵」の中からもかなり専門的な知識が披露されて盛んな討論を交わしていた…。…各自の「遺品」を整理することも大切な作業の一つになった。「恩賜の煙草」の表蓋に署名した函と共に「髪と爪」を入れた紙袋を一纏にした梱包の外部には、しっかり括り付けた木札に…部隊名と年月日を黒々と記入する…。冗談気分を微塵も出さなかった古年次兵が面子をかなぐり捨てた共同作業であった。…日本の本土爆撃を大々的に企図するアメリカ空軍が、中国にその拠点を求めた「広西省の桂林」飛行場を撲滅し「武漢」から「桂林」に至る「湘桂公路」に沿って流れる風光明媚な「湘江」に並行して敷設された「湘桂鉄路」(汽車){粤漢線、京広線}の完全把握と、 湖南地域に広がる農産物を確保せんとする第十一軍は、これに抵抗する中国軍の要衝を悉く撃破し、傾きかけた日本軍に凱歌を挙げさせ、一挙に名声を内外に広報し、戦意向上を戦略の主旨とする「支那派遣軍総司令部」の命令に呼応し、天運を賭して進軍の采配を揮う…この「一号作戦」と…戦史に記されて「湘桂作戦」と呼称した…今回の一大スペクタクル戦の機運は頂点にまで達していた…。…第十一軍では…当初の「戦闘司令所」を「漢口」市内の一角に設置したので…「武漢三鎮」の上空にこだまする参加諸部隊の号令と軍靴音が入り乱れる中を…機械化部隊の夥しい排気煙と爆音が混入し、市街の隅々にまで凄まじい重圧感を与えていた。湖南を目指す陽動作戦は「岳州」を初陣の拠点とする「江南」地区の諸部隊と「江北」地区の数師団は「武漢」を始点にして…この世紀の大長征を開始せんとしていた。新鋭・古参の部隊が長江南岸の「武昌」周辺に続々と集結して陣容の疲れを癒さんと…士気を鼓舞する軍歌演習の蛮声や、炊飯作業で立ち上る煙は焔々と郊外の空を焦がした。

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