湘桂作戦

05.湘桂作戦
 「独立野戦重砲兵第十五聯隊」の出動は(昭一九)五月十五日を起点とした…。…聯隊本部を軸に、戦時編成で構成された…二箇大隊系列の全十箇隊の営舎は、其々の位置で個別に点在している。実戦即応の野戦式の戦術に則しているから、大動員令の下命を拝受後は聯隊本部の作戦指揮班より発令される一定方針に基ずき、各隊は入念に出征準備を整えていた。…「出陣式」も隊別で、独自の特色を帯びてはいたが、厳粛に挙行された…。約一年八ヵ月に渉る現在の駐留地には盛り沢山の思い出がある。…生死の境界を彷徨した激戦も何度かあった…。戦友の遺体を焼葬する「屍衛兵」も体験した。…昨年初秋の「聯隊祭」では、離れていた同年兵とも久さしぶりに会えたし、映画会や慰門団の演芸で泣いたり、笑ったりしたものだ…。…だが、もう…再び…、この地に戻ることはないのである。「沙荊地区」守備担当の重要任務を軍司令部から特命されて、唯一…この地に残留する「当陽」の「第三十九師団」に全ての後事を託して、隣接の「第十三師団」以下その他の独立編成部隊は、集結地の東部方面へ順次、移動を開始したのである…。「太山廟」地区でも第二大隊本部を先頭に配下の二箇中隊も、遂に始動した…。征くからには戦わねばならぬ…。勝つも負けるも、生きるも死ぬも、勝手な選択が叶う筈もない…。「この世の中は…天腑の定めが八割で、残り二割りの枠内を…運と努力と要領が、飛んだり跳ねたり…取っ替え引っ替え頭を持上げ…全速力で駈け回る。花が咲いたり…実も成るが…月にむら雲…花に風…この世の人生…泣き笑い…」…と割り切った…。悲痛な想念を悟られまいと肩を揺すり…胸を張れば、萎んだ気力が蘇り、細やかながらも勇気が湧いたのか…武者震るいを隠しても、傍目には…なんとなく威勢がいい…。………………。陽炎が揺れ動く野天を透して、声高らかな号令が響き渉る…。「点呼ッー」……「番号ーッ…、」 「…、…、…、……」「第0分隊ッ、00名ッ、異常なしッ、」…「00隊ー…ッ、…出発準備完了ッ…」「隊長殿に敬礼ッ…、かしらぁ~央ッ…」 「全員乗車ッー…、…………出発ーー…」…先頭に整列した三中隊の、キャタピラー牽引車のエンジンが豪快に唸り出した…。武勲を重ねし「沙荊地区」に別れを告げた「十四年式野戦重砲十加」の威容が「太山廟」の砲廠を擲って発進すれば、その前後には貨物自動車、弾薬車が走り…「大隊本部」の車両を挟んで「武本隊」がしんがりを護り…長蛇の車列は次第に速度を上げた…。爆音は天に轟き、黄塵を舞い上げて、ひた走る一路は「漢宜公路」の二百六十kmである。「トセ部隊」が、陸路の「武昌地区」と、水路の「岳州地区」の二手に…分かれて背ぞろいを果たしたのは…重車両部隊の作戦上の措置であったが、各隊はそれぞれに区別の陣営を布いて…次期命令を待機したが…、兵士らは頗る意気軒昂であった…。第十一軍(呂〈旭〉集団)の主戦動員兵力は三十六万二千(第三、第十三、第三十四、第四十、第五十八、第六十八、第百十六の七箇師団、他に関東軍から第二十七、北支軍からは第三十七の二箇師団が戦列に加わり、その他数箇師の野戦補充兵団と関連独立部隊が後方警備、兵站補給戦に参加した大作戦であった…。…作戦後期から加わった南支の第二十三軍と、その他支援軍を合わせて五十一万余と云う我が国の建軍以来、未曽有の大軍を投入し、作戦期間七ヵ月…、而も一五百kmの長征は史上空前絶後であったが、何故か巷間に伝わることもなく、太平洋戦争の渦中に翻弄されてしまい、本作戦を牛耳った軍参謀連中が理不尽にも、広大な戦場を棋盤に例える僭越な棋譜を描き続けた為…その犠牲となった…十万余の将兵が湖南の戦野を血で染め尽くした惨劇が…結果として残ったのである…。…一九四四年(昭19)五月二十七日…、進軍を開始したと記録に残っている。「武昌」地区の周辺に集結していた大軍は一斉に喚声を上げて南進の火蓋を切った…。…「湘桂公路」を照りつける太陽は…コバルト色の大空を焦がさんばかりに炎え盛り、道端の所々に立ち並んだ緑葉樹は蒸れて…うす汚く萎れていた…。…延々と続く車両部隊の轟音は耳を劈き…、濛々と巻き上がる爆煙や、土埃を浴びた兵隊の顔はどす黒くくすぶり、眼光だけが不気味に目立つ異様な光景だった。「岳州」に入ると優美な洞庭湖が右手に見え隠れしてくる。…小銃を担って行軍する歩兵隊を右に左に注意しながらも、第四分隊の三車両に分乗した私たちは、満載の荷重で…ぎりぎりと軋む車体に気を遣っていた…。…この頃から、アメリカ空軍の奇襲攻撃が頻々と起こり、緊迫感は異状に昂ぶり、日本軍の中でも特に殺気漲る徒歩部隊や、重砲を牽引する挽馬車両隊のけたたましい叫声が雑多な騒音を貫くように慌ただしく…辺り一帯に響き渉る…。…街道に沿って流れる「湘江」の碧さも粉塵で濁るかと思う…、怒涛のような大部隊が前進すると、路面は忽ち荒廃して車両の行進が困難となり、運転担当者を悩ました…。…重厚な…わが「トセ部隊」は悪路に車輪がはまり、進行速度は急激に堕ち、難渋の度合いを深めていたのである…。六月の灼熱に…流れる汗は沸騰し、苦渋の進軍は無惨に入り乱れたから「湘桂公路」に犇く…その様態は、敵空軍機にとっては将に絶好の攻撃目標となった…。…軽快な戦爆兼用の「カーチス Pー51型機」は小編隊の低空攻撃で避け難く…辟易したが防空対策が極度に貧弱なわが軍は打つ手もなく、忽ち飛散して…逃げ惑う始末だった…。…「トセ部隊」でも急遽、主要街道を外れて、各隊毎に分散し、巨体に偽装を施して息を潜める退避の日々が次第に長引いて…二進も三進も行かなくなって了った…。…止むを得ない手段とした部隊命令で…、昼間は休息時間に当てて、専ら夜行軍を続けることで…、損害を軽微にする体制に変わったのである…。…折りしも湖南の戦場は、連日晴天の灼熱苦だったが、肝心な飲料水は乏しくて、井水場を知らせる連絡方法も、援護手段もなく…兵隊は地獄の責め苦に喘いでいた…。当然…、何よりも大事な炊事用の水を探すのにも苦労したのである。騒めく軍勢は、数少ない水場の使用権争奪の怒号で、収拾のつかない醜態を暴露した。「段列隊」所属の貨物自動車の積載物は常時一定しているとは限らない。…車両用燃料(ガソリン)なら、ドラム缶(百八十リットル入り)十本程度を搭載するが、この場合は夜間走行時に荷揺れしないように万全の処置を施さないと大怪我の元になる。その理由は…荷台には必ず、兵隊が四、五人は乗っているからだが…。…一箇分隊の員数が二十人として、責任分担の保有車両が三台だから、運転手席と車長席の二人以外は、窮屈や危険とかは度外視で…、兵隊は荷物並の扱いなのである。夜間の悪路では速度も出ないが、それでも積み荷の揺れを押さえるのは難しい。…一瞬の油断から手足を挟めて了い、取り返しのつかない怪我人を出すことになる…。こうして、明け方近くに走行を中止し、万一の空襲に備えての損害予防で、ドラム缶を全部車外に出し、警備範囲内の距離に分散して隠蔽する。…車両は苦心惨憺して偽装するが…、その日が暮れる頃、出発迄には全て元へ戻す。この繰り返しは余程の事情でもない限り変わることはない…。…その上、分隊炊事だから、班別の当番兵が、毎回…目の色を変えて水探しに狂奔する。…当番兵同士は互いに連絡を取りながら右往左往して駆け回り…水場を探索するのだが、良水を探し当てることなど滅多にあるものではない。…多少遠くでも、灌漑用貯水池(クリーク)があればその水を使う…。付近では…幾隊もの日本軍が時間を気にしながら、其々炊事の為に留まって炊飯の煙を上げているが、それさえも不意の空襲を耐えず予想しつつの仕事だから命懸けである。…飯盒を両手に下げた若い兵隊が並ぶようにして水場を行き来する…。…「布ばけつ」を天秤に吊して、もの慣れた格好で水運びをする奴もいた…。日によって炊事時間が各部隊同時になれば…どうしても水場の混雑が喧騒になる。…当番兵は悠長に構えている時間の余裕がないのである。どんな状況でも‥なんとか取り捌いて…目的を達成しなければならない…。…例え、人馬の屍が浮かんでいる「クリーク」でもよんどころない場合には水を掻き分けて…でも「米」を洗い磨がなければ、忙しい行程の合間の大事な食事時間が遅れて了う。不衛生を承知ですることだが、大ッぴらには出来ないから、同じような行動の兵隊の陰に隠れて素早く…、混雑の人ごみに紛れて…要領よく分隊に戻る…。…若し、顔馴染みの当番兵に見られたとしても下級の兵隊同士であれば、相身互いの助合い運動が徹底しているので、大抵「口」を噤んでくれるから発覚する心配はない…。戦闘の最中とは云え、当初は空襲以外の被害が少ない頃で、後に全軍に蔓延した「腸チブス」等の伝染病は、未だ発生していない頃だったから、衛生知識や病気に対する予防知識が少ない兵隊たちは…目先の安楽に気を奪われるだけで…「衛生・防疫」に万全の注意を払おうとするゆとりなどはある筈もなかった。その当時「防疫給水班」と云う「良水製造機」を携行しながら従軍する部隊も存在したが…その「良質水」は高級将校の飲料水を賄う程度の貧弱な能力だったのである…。…苦労の多い夜間走行の疲労を癒す昼間の休息時が来ても、炊飯だけは欠かせない。而も、飯炊きの最中に…突然…飛来してくる敵の「P-51型機」の奇襲は珍しくない。各所に立ち上る煙が日本軍の居場所を教えるようなものである。…私たちは…予期しているものの、咄嗟の非常処置に戸惑う……。「空襲~ッ……空襲~ッ………」悲鳴のような喚き声を上げながら退避場所を求めて逃げ惑う大勢の兵隊の中で、炊事当番兵は慌てながらも、用意の土砂を両手で掬い、炎え渋る焚火を目掛けて、矢次早に覆い被せ…煙を隠蔽しなければならない。…自分たちの炊煙が敵機の攻撃目標にされては一大事だからである…。もう少しで飯が炊き上がるかな…と云う時でも「待った」は許されない…。…度々の空襲を受けても当番兵は怯えてばかりはいられない。飯の出来栄えが悪ければ遠慮なく古年次兵の辛辣な文句を食らうからである。「飯ぐらい満足に炊けよッー……もたもたするんじゃぁねぇッー」…彼らは三年前の初年兵時代に当時の「宜昌作戦」に…野戦での「分隊炊事」の経験があり…、戦闘間の食事の支度が並み大抵の苦労ではないことを知り尽くしているのだが…、当番兵には何故か同情の素振りも見せない…。六月初旬頃の時点では…これが今世紀に最大と云われる程の一大決戦ながら、過去に経験の少ない空襲の認識と対処方法等に甘い者が多数だったと云わざるを得ないのである。雨が降れば空襲の恐怖がない替わりに、全く別の苦労が待ち受けている。今度は中国全土特有の粘土質の土壌に覆われた進行道路は、忽ち雨水を含んで弛む。…人馬が歩行するほどに「ぬかるみ」状態が悪化し、車両部隊の前進は難航した。重車両が通過するには…なんとか堪えられる程度の「簡易補修」をするのだが、各分隊合同の使役兵は全身泥まみれになって、暫定施工をするにしても補修材料等が貧弱だから…工事は遅々として一向に捗らない。仮設道路なのだが…半日費やしても、目標工程に達しないのである…。本道路が完全に破壊されている場所は大きく迂回して村道等を通るのだが、其処が今迄に車両の通行が少ない所だと地表が軟弱だから、全重量十トンに近い車両が続けば忽ち車輪がめりこんでしまい…これも簡単には通れないのである。僅かの雨でもタイヤが滑るからぬかるみを作り、時間を浪費するすることになる。…徒歩部隊の進行は散漫のようでも、荷馬を叱咤しながら細々と隊列を進めていけるが、…車両部隊は空襲防禦上から…一ヶ所に集結した侭での停止は避けねばならぬ。出来得る限り散開して…車体隠蔽の偽装をし、道路工事の仕上がりを待つより仕方がない…。…こうした期間でも炊事当番兵は「血まなこ」になって飲料水の在処を求め、焚き木集めに走り回らなければならない…。「湘桂公路」も「岳州」を五km以上離れると「集落」らしい家並みが無くなる…。…大体、中国は古来より、個人財産の自己防衛心が確立しているから、都市から隔離された場所で…街道筋から丸見えの民家などは殆ど見受けることがない。 大概一km程奥へ入り込んだ場所に小さな集落を構成して外からの剽窃を防いでいる…。…私たちは、「武昌」を出発してから、約半月ほどだったので、手持ちの食糧は十分に車 両に積み残っていた。後日それを食い尽くして…空腹のあまり、凶暴性を発揮して集落を襲い、食物を「徴発」した…己れたちの浅ましい姿を未だ想像することもなかった…。然し、炊事用の焚き木不足には閉口していた。街道を通行する各部隊の膨大な人数を賄う炊事に必要な燃し木の数量は桁外れだったから、無理もない現象なのである。畢境、集落に踏み込んで…強引に奪い獲る行動を起こすようになった…。我が軍の最前線の歩兵部隊は米空軍の猛襲を避けながら…「長沙」へ肉薄した。…一方、中国軍の情報分析は精細緻密で、今度の日本軍の作戦が南に進撃するということを逸早く察知して、湖南の拠点「長沙」を対日戦第一の前哨戦と定め…、第九戦区軍が最も重視している岳麓山を主陣地にして、その周辺施設及び、兵力部署の配置等は完璧とされたが…、第十一軍の戦略では…。 岳麓山の攻略を第三十四師団(椿‥健大阪、和歌山)の主力部隊が「湘江」を渡河して、この中国軍前線陣地を攻撃することになった…。…これに主幹砲兵としては、野戦重砲兵第十四聯隊(九州、小倉)が当たり、十五榴曲射砲を挽馬操車して陸路を進み…、十加と、十五加砲は、「湘江」の水路を遡航して此処まで来たが、この付近を防備する中国軍の激しい迎撃を受けて所定位置への到着が大幅に遅れた為、六月十六日の薄暮を期して攻撃を開始することが決まったのである。独立野戦重砲兵第十五聯隊は…第二大隊長内山隆大尉が指揮する十加砲二門を先行させたが、後続の主力部隊は米軍機の空襲に圧されて…その前進は遅れがちだった。…水路を巧みに…挺進し、先行した二門は湘江の「三叉磯」付近(長沙北西二km対岸)に揚陸し、直ぐ様、岳麓山の敵軍陣地を砲撃し、猛反撃していたラインメタル重砲を制圧して第三十四師団の歩兵部隊の苦悶を和らげたのである…。然し、後続の聯隊主力は六月十七日朝、最後の停泊地「霞凝港」の接岸が遅れて夜明けとなり…、米軍機の編隊に波状攻撃を受けて…戦死数名、戦傷十数名を出した…。その上、弾薬数十発が暴発し、十加、十五加、各二門が沈没した…。十八日の払暁に至り、三叉磯付近に逐次揚陸した本隊は、直ちに岳麓山南側の敵重砲陣地に圧倒的な砲撃を与え、忽ち沈黙させて第三十四師団の突撃隊を援護したのである…。「長沙」攻略には熊本兵団の第五十八師団を充当し、これに他の野戦重砲隊を配属して大々的に市街地を破砕し、敵軍の外郭陣地を一挙に攻撃し、同月十八日には歩兵部隊が市街に突入し…遂に、十五時頃に至り、此処の「長沙城」も完全に攻略した…。…この作戦開始以来、長沙までの総合戦果並びに損害の概略は次のとおりである…。
 遺棄死体  三五、000
 俘虜   一一一、三00
 重砲一0、野山砲五一、機関砲二九、迫撃砲六九、重機一五二、軽機四七三その…他。 飛行機撃墜   三三、
 我が軍の損害
 戦死    一五0三、  戦傷   三六六二、   戦病  四000、
 戦死馬    九00、 戦病死馬  一七00、 戦病傷馬  八000、  以上
             ( 数字は 森金千秋著 日中戦争最前線 による)
…「段列隊」の車両は「弾薬、燃料、食糧」を満載して、陸路の悪条件を排除しながら、空襲の脅威にも屈せず…必死の形相で進撃する凄絶なものだったが…一寸刻みの苛酷の苦しみに襲われた私達は、のた打つように…喘ぐ吐息は今にも絶えんばかりであった…。此処まで来る途中で…我が分隊の「石崎八郎上等兵」は弾薬受領任務で、後方の…「岳州」へ反転したが、運悪く…米空軍の爆撃編隊「 Bー25型機 」の奇襲を受けて被弾し…「三六三号」車の弾薬は爆破され、車体は大破炎上したのだが、彼は一度は避難したものの…炸裂する弾片を身に浴びて看護する時間もなく…悲壮な戦死を遂げたのである…。

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