地獄の進撃

06.地獄の進撃
 第十一軍では当初の武居高級参謀による作戦計画は長沙城の攻略に重点をおいていたのに反し、後任の参謀島貫武治大佐が、衡陽城の攻略を主眼に…その周辺で、主決戦が行なわれることは間違いないとの判断の下に作戦計画が根本的に変更されたのである…。日本軍の南進を逸早く察知した中国軍は、従来から湖南の要衝だった「長沙」を殊更に増強することは控え、衡陽と…その周辺に新たな戦力を結集し、万全の布陣で…日本軍主力をこの地に誘い込み、全面的に迎撃態勢を執る作戦であった。以上の推移により、両軍の作戦構想が偶然一致していたことが頷けるのである…。当時、白昼の敵前渡河を敢行して、工兵、歩兵の戦死、負傷者が圧倒的な多数であったが…このような無策無謀の作戦は日本軍では後々までも続く蛮行で、この損害が非常に大きいのだが、上官の命令は即、天皇の命令として絶対不犯だった大日本帝国の軍隊では兵士の人権や自由は全然許されない…『死は鴻毛の軽き』に等しいのである…。兵士は菊の紋章の刻まれた小銃一挺を傷つけ紛失しても、重営倉か軍法会議の重罰が待っているが、参謀は己れの無能を弁えぬ拙劣な作戦指導で一箇聯隊を全滅させても、勲功になることはあっても懲罰に問われることがない…。而も…、作戦行動中の糧抹が一週間分以上の量を携行出来るのは車両部隊に限られており、その他は殆どの部隊が…建前では後方兵站基地から輜重隊の車両や馬匹が、前線まで輸送し、弾薬と共に補給されることになっているが現実には弾薬の補給が精々であった。「糧抹」は全て現地調弁をすることが中国大陸に於ける日本軍の常套手段であり、湘桂作戦では…戦線の距離が大きいので、特にその最たるものになった…。言葉は無難に、建前としては調達した糧秣の代金を支払うことになっていたが、実際には無償の徴発だった…。 …住民から食糧を強奪するのである…。 「聖戦」を謡い文句にした天皇の軍隊だが、事実は野盗集団と変わらない凶悪無慙の軍団で、通り魔のように集落を襲撃して、零細な命の糧を悉く奪い去って了う…。それが米や麦ばかりか、農民の財産である豚、鶏から、農耕作業用の牛を奪い、家を破壊し…或いは放火し、時には主婦、姑娘を強姦することも珍しくなかった…。然し、その反面には…食糧不足で進軍もまま成らず、灼熱の湖南路で…枯渇に耐えられず、クリークの生水を飲んで疫病に感染し、戦闘能力を喪失した部隊も少なからず、湘桂街道に累々と「死骸」が横たわっていたのも忘れられない事実である…。このような状況の下に、湘桂公路を縦軸に東西五十kmの地に展開した我が第一線部隊十五万、後続の諸隊と合わせた三十余万の大軍勢が数カ月間、千五百kmに及ぶ大長征をするのだから、現地の農民は日本軍を怨嗟し、忌み嫌い、怖れをなして逃げ惑った。私たちは…「湘潭」「衝山」「易俗河」と敵の反撃と空襲を躱しながら前進を続けた。「衡陽」攻撃の主戦師団は第百十六(嵐‥岩・京都、奈良、滋賀)第六十八(桧‥佐・大阪、和歌山)で、その一部は六月二十六日、湘江東岸の衡陽飛行場を占領し、その主力部隊は南と南西から衡陽市街を包囲し、攻撃を開始した…。衡陽城には第十軍長、方先覚中将の指揮する三箇師が磐石の防備に当たっていた…。この将軍は…「昭和十六年」の第一次、第二次の長沙作戦に当たり、長沙城を死守した。猛将で、過ぎし…昭和十八年初冬の、常徳作戦に際しては、第十軍を率いて「常徳」の南側に来援し、わが‥第十一軍の第三、第六十八師団と交戦した経歴がある…。…日本軍には以前から、師団長閣下の馬前で奮戦することを無上の光栄とするような前時代的な思想が重視されたのは否めないとしても『親任官閣下』と奉られて思い上がり、異常な行動を見せる非常識な将軍がいたことも事実として伝えられている…。攻城を目指す二箇師団が並立すると、功名争いとなり、どうしても競合した両軍が無謀な攻撃を繰り返すような無能ぶりを露呈して了う…。その犠牲になるのは、命令によって戦う多数の兵と、下級将校たちで、この生命を代償として…将軍に、参謀に、部隊長に、隊長に勲章が輝くのである。 『国破れて山河あり、一将功成りて万骨枯る…』とは…嘗て、この虚しさを晩唐の詩人「曹松」が已亥歳(八七九年)黄巣の乱に…天を仰いで七言絶句しているのだが、昭和の帝国日本陸軍には…その詩情を無視する頑なな道義が厳然として生きていた。強気一辺倒の、島貫高級参謀が指導する衡陽周辺の誘致殲滅作戦は、失敗を重ねて多大の犠牲を払う無策ぶりだったが…、中国軍第九戦区の主将方先覚中将の方も、頑強に抵抗を続けたものの、衡陽城守備軍の苦戦は常軌を逸しており、切々とその苦衷を上司の第九戦区司令の『薜岳大将』に打電した程、困憊していた…。連戦四十二日、衡陽城を固守奮闘した中国軍三箇師の抵抗も限界に至り、三万の将兵は死闘一ヵ月余の疲労を隠せず、旦夕に迫る落城を覚悟して…憂色深かったのである。…八月七日。西北郭に進出した第五十八師団(広・熊本、宮崎、鹿児島、大分、沖縄)が…突如として城門を突破したのだが、この腹背からの攻撃には、如何に頑強な城内の守備兵も総崩れとなり、遂に白旗を掲げたのである。然るに、衡陽城西方近辺の第一線では、今だに中国軍第六戦区からの援軍が、第四十師団(四国)を迎撃の真っ最中であり、万洋山々系を中心とする東部方面では、第九戦区、第七戦区、第四戦区の中国連合軍が、第三師団(幸‥山・愛知、岐阜、静岡)、第十三師団(鏡‥鹿・宮城、石川、福島)…、どちらも第十一軍の骨幹と言われた両古豪師団を向こうにして、徹底的な抵抗戦で歯向かい…足掻き続け、日本軍をてこずらしていた…。衡陽城攻略戦に並行して展開された東部の決戦こそ、将に湘桂作戦の主戦場であった。…日本軍の兵站線は膨大なこの地域を支える機動性はゼロだったが、それ以前の肝心な物 質的能力が欠如しており、而も…窮余の一策だった徴発すら出来ない激戦であった…。両軍の攻防戦は真夏の「岳塀」の高地に於いて鎬を削ったが、死骸は山をなして炎熱の太陽に炙られる様は悲惨の極みを呈し、而も…その状況下に発生した疫病も凄まじく、忽ち前線一帯に蔓延したので…双方の数千人が次々と倒れる惨状は地獄そのものであった。後方からの補給は全然なく、空腹を抱えた兵隊は、死にもの狂いで近隣の集落に食物を探し求めたが、もう…とっくに漁り尽くされていて舐めるものさえ見当らなかった。当時の中国軍守備陣地から発せられた…無線を傍受解読した記録が残っているが…、「約六割ノ兵力ヲ失イ、残兵ノ再編成ニハ少ナクトモ六ヵ月ヲ要スベシ…」となっている。「衡陽」から「全県・桂林」へと追撃する日本軍は宛ら「阿修羅王」か、はたまた「幽鬼」の如き様相で肉薄しているが、辛うじて逃れてゆく第九戦区軍も、それに匹敵する壮絶な抵抗であり、その壊滅的な戦力低下もまた、同様だったことを知ることができる。私達の車両が、衡陽を通過したのは八月半ばだったが、街の中央部は完全に破壊され尽くして瓦礫の山となり、道路は僅かに車両の通行を取り繕うように片付けられていた。危なっかしい足元にも拘らず、大勢の市民が野菜や穀物を物交する露天の取り引きは、何やら頓狂な…甲高い声があちこちに騒々しく、甚だ奇異な感じの光景であった…。…あれほどの激戦から一週間ぐらいで、その人数は何処から集まって来たものだろうか。日本兵を眼前にしても差程顔色も、態度も変えない鷹揚な「湖南人」に私たちは呆れるより、むしろ…脅威の眼で、これを見ていた…。郊外に出ると、街道沿いに広がる水田には稲穂が稔りを告げて垂れ下がっていた。…何処を見渡しても農民の姿らしいものはなく、それが亦、奇妙であった…。…徒歩部隊は数次の激戦を辛うじて越えてきたものの、戦死、傷病等で…隊列から離脱した数は初期の七割にも達しており、極度の疲労で…その歩行は弱々しかった。兵隊たちの頬はこけ落ち、眼は窪み、顔色はどす黒く貧相にうす汚れ、破れた軍衣は泥と血に塗れて見る影もなくやつれ果てて、苦闘の跡を物語っていた…。…長沙から衡陽までの距離は約百七十kmだが、路線は日本軍の進撃阻止を図る破壊工作で寸断されており、公路を修復したり、或いは新たに迂回路を建設するにしても、当時の日本軍には「ブルドーザー」がなかったから、全てが人力に頼らざるを得ない。従って補修工事は遅々として進捗らぬと云う…非近代的な状況だった…。「トセ部隊」は五トンキャタピラー牽引車を保有していたので、橋梁や道路建設に必要な大型資材として、民家の柱梁を牽き倒す程度のことは出来たのだが、それだけでも機械力の凄さは人力を圧倒して、強力、迅速な作業能率を発揮したが、運転者は…整備不十分な時に、必要以外にエンジンやキャタピラーに大きな負担をかけるのを嫌がった…。…本来は休息する筈の昼間時でも空襲を避けながら道路補修をしなければならず、夜間に自動車を走行させる運転者は…必ず休養するのが決まりだったが…彼らは寝る前には先ず車両の整備を実施し、怠けるような者は一人としていない…。進路妨害で破壊された道路を短時間で、応急修理した悪道路を走行していくので、車両の損傷が甚だしく、相次ぐ故障に只泣くばかりだったが、良策のあろう筈もなく、部隊の機械整備班は何処にいるのか連絡を取る方法もなかった…。予備品はとっくに使い切っており、代わりの部品が手に入る当てもなく、私たちは途方に暮れたが、進行を止休してしまえば…重大任務が果たせなくなる…。…例え、臨時的な方法でも処置しなければ…前進が出来なくなるのは目に見えていた…。止むを得ない手段として、考えついたのが部品泥棒という卑劣な手段だった…。…街道を通過するのは日本軍の自動車だけだから、同一車種に狙いをつけて、その車両を襲い、必要部品を盗もうと云うのだが、「強奪」になれば当然、殺し合いとなる…。先方だって必死で闘争うだろう。然し、話し合いで決まる内容ではないのである…。…わが部隊では「フオード」の貨物車が圧倒的の主役を占めていたのだが、私たちの「三六五」号車は…その35年型だから、同型車が街道を走行して来ても相手の台数が多い場合は見送って、単独行動で走る車を目標に…根気よく狙いをつけて、実行に移す計画だったが、こんな非道なことを荒張班長に相談しても叱責されるだけで許可になる訳がないから…事後の結果を度外視し、思い切って…無断で決行することになった。厳格な荒張班長に「無法はするな」と何時も戒められていたが、良識が生命を護る保障にならない「例」を何度も見てきた私たちは、今日までの凄惨な戦況の中で生き残ったのは運が良かったからで、自分が品行方正だったからだとは一度も思っていない…。携行食料が底をついてから二ヵ月間に数え切れないくらいの「徴発」で生命を繋いできたことが何よりもそれを実証している…。人道上の問題をとやかく云われても、第一線の極限状態で生死の境界を潜り抜けてきた実績に照らし合わせても「一か八かの」一発勝負に賭けるのは当たり前のことだった…。 班長を説得しようとしても、建前上の正論で…反対されるのは分かり切っている。『閃いた判断力に、迷わず突進してこそ…生きる道も開かれるのだ…』…私たちの念頭には過去の社会通念や常識は存在していなかった…。…現在の生命が、分秒後には何人も予測できない事態になるかも知れないのである。濁流に流れる小舟のような思いだったが…遂に、その計画を実行するときがきた。…先ず、喉から手が出る程欲しいのが「タイヤチエーン」だった。手持ち品は、迂回路のぬかるみを脱するときにちぎれて、やくにたたないのである。…その日。「全県」方向に走って行く一台の貨物車の後尾に追いて「ハンドル」を握る…四年兵の八重島上等兵と私たちは敵兵と交戦するような緊張感だった…。…どうせ悪路で長丁場を走れないことが分かっているから追跡は困難ではないのだが、その車がどの辺りで走行を中止するのかが気懸かりだった…。前方に彼等の車両軍団が屯していたら、決行を中止しなければ、万一「盗み」を発見された場合に、こっちの身が危なくなる…。荷台に兵隊が…何人乗っているのかも問題だったが、悪業は第一に決断が必要である。曖昧な意識で行動すれば、どうしても生ぬるい動きになるので…それが、とり返しのつかない「死」に繋がるかもしれないのは今までの「徴発」で実証済だった…。その時狙った車両は、単独行動で…而も、運転台にいた二人の兵隊以外は誰も乗っておらず、決行条件が揃っているのが分かった時、私たちは無言でほくそ笑んだ…。夜間に…この街道を走行する友軍の貨物自動車は珍しくないから、私たちが…その車を追跡しても…こちらの悪巧みが発覚することはない。その日の未明、彼等は街道を僅かに外れた小石だらけの凹地に停車をすると、熱した車体から離れて地上に横たわると…疲労している二人は忽ち…高鼾で眠って了った八月末の湖南地区では明け方近くでも気温が高いから、その方が自然だし、戦場慣れをした者ならば誰でも…そのようにして寝るのである。二百mほど離れて、それを窺っていた八重島上等兵が、素早いこなしで身を屈めながら彼らの方に接近していったが、直ぐに合図の手まねきをするのが分かり、私と飯塚一等兵は…身体を寄せ合わせるようにして…音忍ばせながら…近寄った…。「タイヤチエーン」は、荷台の後部に積んであるのが見えていた。幌を張ってない荷台は空荷だったから、これも…お誂え向きの一つである。八重島上等兵が、手を伸ばしてチエーンをそろぉッと引っ張った。私は…少し離れた後で辺りの様子に気を配っていた。「飯塚ッ、奴らだけを見張ってろょッ…」小声で囁くと無言で頷く彼は…這うようにしながら…眠る二人に接近した。…二本分の「タイヤチエーン」は乱闘騒ぎも起こらず、窃盗は成功した。盗みを仕掛ける方は「攻勢」だが、盗られる方は油断が身の不幸に繋がっていく…。人間の運命を変える「勝負」の結果が「凶」になった時、同情心を揺さ振るのは平和な時代だけのことであり、地獄の淵に居て…仏心が出ることは「死」の前触れなのである。身勝手な理屈をつけて悪業を正当化するしかないのである…。…これに…味を占めた私たちは、次の「目標」を目指して…眼が血走っていた…。…第二回目…。その夜は…曇り空で真の闇夜だった…。再び、狙いをつけた獲物を追跡した私たちは、息を潜めて…その車に忍び寄った…。今度は大胆にも、内燃機関部の「キャブレーター」を取り外すのが目的なのだ。…前回で手慣れたとは云っても「ボンネット」を開けてから暗やみの中で「スパナ」を使う仕事は並み大抵のことではない。手探りの末、漸く目当ての機関部を撫で回すところまできたのだが…、暗くてどうにもならない。…思わず摺ったマッチだったが…一瞬、「ばッーー…」と火が燃え上がった。「あッ……」と驚く間に火は見る見る大きく広がっていく。滲み出ていたガソリンに引火したものに違いない。消火をしょうとする余裕など…あるべき筈がない。 「逃げろッ…」 …八重島上等兵と私はいきなり車を飛び離れて、後は夢中で未だ明けきらない薄闇の中を駈け出した。愚図々々していると…その場で射ち殺されて了う。後を振り返ると、車の前部はもう、手の施しようがないほど燃え盛っている…。炎に浮かぶ二、三人の兵隊は声も枯れんばかりに絶叫して…車の周りで騒いでいる。燃料タンクが爆発して、物凄い火炎が未明の空を焦がした…。…後味の悪い感じだったが、逃げ切るより仕方がなかった。…為りゆきから説明をしても、謝って許される事柄ではないのは百も承知だから、私たちは…一目散に逃げ帰った…。…翌朝の炊事の合間に足を伸ばして、遠くの方から…その付近を偵察すると兵隊の姿は見えなかったが、焼け爛れた「車体」と燃え燻った木部から未だ煙が出ていた…。街道には昼間の走行中に空襲されて、炎上した骨がらみの車が、各所に横たわっているので、誰も特別に意識しないだろうが、他人の痛手を一々気にする心のゆとりがない戦場では…運を救けるものが、暴虐と云う非常手段しかないのだと徹底すべきことで、この悪逆非道の類似行為としては…飢えに狂った者が、食物を獲い合う事件等…日本兵同士の険悪な部隊闘争になりかねない事実も起こっていた…。…その頃…、荒張班長が同乗している「三六四号」車が突然、故障したので、私たちも同時に停止することになったのだが、手持ちの食料はとっくに途絶えていて、真ともな飯は食っていない時だった…。…遠い部落に敵軍が集結したとの情報が入り、誰もが「徴発」を控えていたからである。 止むを得ず、畑の堀残した小芋を茹でて…皮毎食べることで飢えを凌いでいた…。…九月になると、付近の小山が俄に秋の気配が濃厚になったが、同時に、この地方特有の雨期に入り、絶え間なく降り続く日が多く、殆ど前進が停止した侭で…日が過ぎた。芋も取り尽くしてしまい、空腹で閉口したが、どうすることも出来なかった…。そんな時、小雨に濡れながらも…、裏山へ茸探しに出掛けた飯塚一等兵が、暫らくしてから、両手いっぱいに茸を持って気色満面で帰ってきた…。…彼は埼玉県の飯能出身で、故郷の風景に似通っている「山」にはきっと食用茸が自生しているだろうと見当をつけたのが見事に的中してほくほく顔だった…。 食物にかつれていた分隊の連中が、そうと知るや…手分けして、この「茸狩り」を始めたが…またまた大収穫があり、早速これを「油炒め」に味付けし…「珍味、珍味…」と、久方ぶりの歓声を挙げたものの…「茸」は大量に油を吸収するものだから、小量しか残っていなかった油は一回の料理で無くなって了った…。雨期の合間に行なう「茸狩り」は少し離れた第三分隊でも始まったようで、付近は時な らぬこの「大捕物」で賑わい、貧相面の兵隊が眼の色を変えて飛び回っていた…。「こりゃぁー間違いなく食用油だッ」「香ばしいぜー、旨い、旨い…」何処から出してきたのか小瓶に入った何やら得体の知れない油を味見した大田上等兵の言葉に吊られて、空腹に耐え兼ねた連中が…貪り食い始めたが、瞬く間に全部平らげて、この油に警戒心を抱く者はいなかった…。然し、これは…「桐油」(ドンユー)と云う傘に塗る油で、食用油ではなかった。…忽ち、全員が腹痛と下痢に見舞われ呻吟したが、体力を消耗していて喧嘩にもならず、もとより悪意があった訳ではないから、班長も顔こそ顰めたが叱責はしなかった…。私は症状が軽く済んで直ぐに元気になったが、最古年次の高田兵長の衰弱が一番ひどくその侭寝たきりの容体になって了い、第四分隊では思いがけない非常事態となったから、騒ぎの張本人、大田上等兵は意気消沈していた…。「兵長殿ッ、申し訳ありません。お許し下さいッ…」弱々しい口調で…繰り返し詫びているのだが、今更こんなことで、この男に敵愾心を持って反発するわけにはいかないのである…。「仕方がねえさ…、兵長殿だって…怒るより…早く治りたいだろうよ…。」元々無口の高田兵長は目を瞑って、一言の声も出さなかった…。…私達は…雨期の切れ間の曇り空を仰いでは、気を揉んでいたが、然し…、事を急いでも道路事情が最悪なのだから、無理をして走行しても容易でないのは分かり切っていた。…荒張軍曹は…高田兵長の容体が快方に向ってきた様子を窺っていたが…。「さあッ、何がなんでも三日後には出発しようッ…」と大声を出した…。爆破された橋梁の仮布設が長引いたり、道路補修が難工事だったことなどで前進が大幅に遅れて了ったが、第四分隊の二台が低くたれ込む曇り空を隠れ蓑にして…その日の早朝に走行が再発進されたのだが運よく敵機に発見されることもなく、何時しか広西省の「全県」も通り越し…目指す「桂林」には目と鼻の距離にまで接近したのだが早くも十一月の声を聞き…そろそろ寒さを意識する頃になっていた。その「十日」…、遂に…「桂林」が第三十七、第四十、第五十八の三箇師団によって、完全占領されたという情報が入った…。そして…更に約一五十km西方の要衝「柳州」も、第三、第十三の両師団の攻撃により符号を合わせたように同月十日にこれも占領したのである…。「桂林」郊外の山々は南画的な独特な風景で、天を衝くように奇岩が列をなしており、その裾を流れる「漓江」の峡谷は屏風岩が覆いかぶさるように切り立って…、老松が水面に映える景観は例えようもない美しさで、古来より夙に知られる景勝地であった。…東方八十kmの「全県」は「広西壮族」の最東端地区の都市だったが、去る九月十四日…第十三師団の第百四聯隊により、無血占領されていた。その「全県」より約十km西に離れた「赤蘭村」と云う所まで来た時点で…私達の車両は「桂林」からの大隊命令が伝達されて停止し、駐留をすることになったが、段列長の武本隊長に…その報告をするまで三日も要した程、連絡不十分の状況下であった。その付近は南側三kmに、かの湘江に連なる清流があって、遥か南東方向には「海洋山々系」の険しい山々が、雲の彼方に霞んで見える所だった…。 西南方向は桂林平野の末端となり、横長に千里の沃野が広がっていた…。南側には黍畑が連綿と並び、バナナ樹も所々に見え、小ぶりの房がまだ残っていた…。…豊穣そうな広々とした水田地帯の農村は、見るからに裕福らしい風景であった…。…「広西壮族」は広い中国でも特異な少数民族で、その系譜は粗野獰猛の性格を有すると伝えられ、地区編成の兵団が強豪なのは此処の特殊な団結心によるものだと云う…。民兵制度が残っていて、村落同志の対立抗争が多く闘争本能が旺盛な地域である。…今回の「湘桂作戦」と相前後して開始されたビルマの「インパール作戦」は、大本営と南方軍が命運を賭けたが、大敗を喫して…既に七月四日の時点で作戦が中止されていた。七月六日には、日本の最前線基地だった「サイパン島」の守備隊が玉砕して米軍の手中に帰し、無敵連合艦隊も零落して南太平洋戦域全般の日本軍は窮迫した戦況であった。「湘桂作戦」の「衡陽周辺」の戦闘では、我が軍の十箇師団、歩兵だけでも八十箇大隊が…約十倍の中国軍の精鋭と攻防戦を展開した。「湖南の会戦」の記録は現防衛庁戦史室にその詳細が記録されているが、内容は悲惨の極致で、想うだけで全身が震える…。八月十日…。「衡陽城」の陥落までに四十余日、我が軍の精鋭二箇師団が事実上の壊滅状態になると云う空前絶後の犠牲を強いられただけでなく、周辺の丘陵や、数箇の陣地攻防戦では日中戦争の史上最大の壮絶な地獄の死闘が継続された。「衡陽・桂林両飛行場」を占領しても、飛行機の撃滅どころか、直ぐに別の場所に飛行場が出来る状態で、日本機の数は極端に少ないが、米軍機は圧倒的な数量を誇示し、逃げ腰になった日本軍を、徹底的に制圧したのである。米空軍自慢の「 Bー25 戦爆攻撃機」や「 カーチス Pー51型機」 等が作戦地域全般に亘って日夜定期的に飛来し、戦闘中の日本軍や「湘桂公路」沿道の後方兵站線を銃爆撃する攻撃手段は益々激しくなる一方であった…。…わが軍は、七・八月の衡陽周辺の陣地攻防戦では終始苦戦を強いられ、…何時終わるとも知れない泥沼作戦に追い込まれて、既に飽和状態となり、収拾のつかない破局が迫っているような切羽つまった状況に、希望的な観測をさし挟む余地は薄かった…。…その当時、第十一野戦補充旅団(岩本高次少将)二箇大隊三千は占領地の「醴陵」を警備すべく進駐してきたが、戦利品の兵器だけで装備した戦力の低さを敵軍に察知されてしまい、相対時していた山稜下の三方面から一斉攻撃を仕掛けられたのである。中国軍の第二線軍にも劣る弱小装備の日本軍を、この機に乗じて一気に殲滅し、全軍の戦意を高揚せんとして、必勝の信念に奮い立つ敵軍の猛烈な反撃は数日間も続き、その凄絶さには到底…抗し切れず…遂に北部の陣地は奪取される最悪の事態になった。この地区の日本軍で、支那派遣軍直轄の、第二十七師団(極‥竹、東京)南満州錦県、歩兵第三聯隊、第三大隊(小高大尉)は、去る七月九日以来の激戦で、僅かに生き残った五百名を率いて…敢然と「岩本支隊」に協力し、執拗な敵軍と連日交戦し、遂にこれを撃退、敗走させたのは凡そ一ヵ月後の、九月二十一日と記録されている…。小高大尉は下士候選出の特志将校だと云われたが、明晰の人物と評価されており…日本の敗戦を敏感に予測し、次第に忍び寄る苦戦、難戦の渦中で、前途洋々の若い兵士を一人でも無駄死をさせて堪るものかと…深く決意する使命感を抱いていたと云う…。大局を客観的に判断できる数少ない将校として、良識ある小高大尉は戦局が見通せるだけに、その現状が憂慮に堪えなかったのである…。当時、日本軍の部隊長は「死の苦戦」に喘ごうと、上司に援軍要請はせず、決して弱音を吐かないのを至上としたが、裏を返せば死して名を残さんとする卑劣独善な指揮官のエゴイズムで、これは兵士の人命を無視した横暴の極致に外ならない…。小高大尉は部下兵士を徒労の犬死をさせてはならぬと考え、自分の不利益は承知の上で師団司令部に援軍要請の電報を打ったが………。「貴隊ノ真価ヲ発揮スルトキナリ、健闘ヲ祈ル」第二十七師団の各大隊でも…数倍の敵軍と亘り合い、苦闘の最中で、隷下の小高大隊が壮絶な死闘に耐える苦衷を知っても、到底…援軍の余力は無かった…。早春三月。南満州の錦県を発って以来、京漢作戦を経て、河南、湖北、湖南と、一三百kmに及ぶ大陸を縦断して来た第二十七師団の各部隊は長途の疲労に加えて、給与も不十分の侭…「湖南の会戦」に突入し、七月初旬以降連続した激戦で、戦死傷病兵は部隊の七割を超える決定的とも云える甚大な犠牲を強いられた…悲壮な過程の出来事だった。…突き放された悲痛を乗り越えて、奮戦した…この小高大隊こそ、永遠に名誉の将兵として…日中戦争の「戦史」を飾る誉れ高い功績と云うべきであろう…。…………………。…わが「独立野戦重砲兵第十五聯隊」も、過ぎる五月十五日に、湖北省「沙荊地区」の「金沙舗」…「太山廟」の営舎を後にしてより、凡そ七ヵ月、千五百kmに余る大行軍を走破し、敵軍陣地に猛砲撃を浴びせて圧倒し、歩兵の進撃を援護する重砲兵の使命を全うした事実は、聯隊史に明記されて永くその戦功を讃えられる筈だったが「敗戦」の結果により、日本軍は完全に消滅して了い、全ての記録は国史上の論拠を失っている現代に於いては…我が部隊の僅かな生き残り老兵以外には殆どその名を語ることもない…。…………………。…一九四四年(昭19)十一月中旬…。広西省の東部、広大な穀倉地帯の一寓…「赤蘭村」に臨時駐留した「荒張班」の八名は「米軍機」の奇襲を避ける為に此処の農家を占拠して…暫しの間、仮寝の宿をとることになった…。私たちが、この村に進駐した頃は…此処の住民は全員が…何れかに逃避した後で、どの家ももぬけの空になっており、ひっそりとしていた…。…村長宅らしい豪壮な家を中心に…、清潔な家財道具を残した侭の、十棟程の農家が群がっていたが、どの家の生活程度も比較的に裕福らしい痕跡が認められた…。

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