徴  発

07.徴  発
 「湘桂作戦」の戦略主旨が、中国大陸を北から南に鉄道を打通させ、南方圏との海に代わる交通の確保にあった筈にも拘らず…中国軍は爆撃で「公路」を寸断し…「湘桂鉄路」の鉄橋も爆破した上、レールまで取り外したので、列車による補給も絶望視された…。「湘江」の水路にしても、海軍の掃海艇によって「株州」付近まで航路を開発したものの、度重なる猛威を奮う米軍機の空襲で…この被害も大きく、輸送船もまた…銃爆撃を受けて…その大半が沈没する状態だったので、補給の実績は皆無に等しかった…。湘桂公路は、中国軍がずたずたに破壊した後を必死に追い掛けて修復し、或いは新規に別な道路を建設するにしても、何百㎞と云う長大な距離では、容易なことではない。橋梁も架設しなければならず、支流を合わせると何十本もの河があるのだから、架橋工事等を考慮すれば、軍需品輸送路の確保どころか緩和さえ程遠い状態であった…。人間を通す橋なら簡単でも、自動車を通過させる本格的な架橋用資材もないし、苦心して代替品を見付けても、現場に輸送する手段が無ければ如何ともなし難いのである…。日本軍の軍需物資は長距離輸送方法が全く壊滅となって了い、「湘桂公路」を縦軸に千里の道程に三十余万の第一線の部隊将兵は、各地に散開したが塗炭の苦しみを浴びた…。…「飛行場」撲滅に凄惨な死闘を重ねた苦労は虚しくも、無意味な結果となった…。…在華米空軍機は「四川省」の「成都」飛行場に「Bー25型機」を百機前後を数え、満州…朝鮮、九州各地の要衝へ出撃していたのである…。中国戦場における「米軍航空隊」の出現は湘桂作戦の成果を著しく低下させた。中国駐屯のわが「第五航空軍」が少数機を以て何回か「成都飛行場」を急襲しても決定的な損害を与えるまでに至らなかったのが実情だったと史実にある。これは当時の日本陸軍航空機のうち、大型爆撃機の航続距離が長大とは云えない問題もあって、四千哩の航続距離をもつ Bー25には比するべくもない数値がその理由だった…。而も、中国地内で…果敢な銃爆撃を頻繁に繰り返す戦闘機の「カーチス Pー51型機」や軽爆撃機の「Bー25型機」等は「成都飛行場」に各百機前後が配置されており、昼間の部隊移動は無論だが、車両輸送行動等は例え小規模、小人数と雖も忽ち発見されて狙撃される始末で、この被害は各所・各隊が個々に分散されている為、避難の方法が統制され難いばかりでなく、連絡・情報網の不備が欠点とされる日本軍は甚大の損害を被り、今作戦最大の頭痛の種で、在華米軍機は最大脅威の的であった…。…「トセ部隊」も当然、空襲を退避せねばならず、各隊は「桂林」より東約八十kmの「全県」付近までの湘桂公路沿いの農村に潜伏して…次期作戦命令を待ったのである…。…私たち第四分隊の八名も「赤蘭村」で「三六五号車」一台を得意の偽装で隠蔽して、毎日の警備体制も密やかに、さながら隠遁生活のように息を詰めて暮らすことになった。第三分隊も少し離れた隣の集落で十名ぐらいが身を潜めていた…。トセ第二大隊では、軍司令部の「特命」により、各地に車両、兵員を派遣し、敗走した敵軍の残留物資の輸送任務等に従事していたが、私たちの分隊でも…「三六四号車」と、北島兵長以下十名が十一月初旬に「全県」に集積された米穀類を配送する使役の為に、…段列長武本少尉の直接指揮下に入った侭だから…「荒張班」は小人数になっていた…。…その頃は、十一月半だったが…集落の周辺は…黄金色の稲穂が、未だ残っていた…。…戦火に災いされて、刈り込みが遅れている巨大なうねりが重そうに曲線を描いていた。私たちには農家出身の兵隊が多く、白米生産の作業に支障はなかった。無疵の農機具が揃っているし、米づくり技術は優秀である。…その時代に電動器具がなかったのは当たり前のことで、疑義を挟む者もいない…。都会育ちの私が担当したのは、根気のいる足踏みの「米つき機」だった。…作業は予想外に捗り、皆の顔に笑いが蘇った…。早速、炊きあげた飯はねばりも適当にあって、久しぶりに食べた白米に歓声が上がり、八人家族の一家が、和やかに食事をしているような雰囲気である…。人心地をとり戻した私達は…限界に近かった状況が一段落したのだなと思い、このような生活が例え異質であろうとも…新しい「内務班」づくりをすることになった。…その家に住み着いて四日目頃には、ドラム缶の風呂場も造り、気嫌のいい話し声は昨日迄の苦しかった戦闘や、辛かった行軍の思い出を遠い彼方に追い遣った…。………………。「鳥居上等兵殿ッ、変な親爺が入って来ましたが、こりゃぁッ、何でしょうかッ…」飯塚一等兵は三十六才の温厚な男で、乱暴な動作はしないが、声はばかでかい…。…「保科ッ、おまえが見てこいよ…」 云われた私が、玄関口に行って見ると、飯塚と向かい合って、其処に立っていたのは、人品骨柄も立派な六十才ぐらいの親爺で…服装こそ質素だが、怪しい素振りもないし、顔に静かな笑みを湛えながら、何やら早口でまくし立てているが、さっぱり話が通じない。土間に字を書いたり、盛んに意志の疎通を図ろうと一生懸命の様子である。拾い読みの字句と片言の会話で、どうにか察するところ、…この一帯の村長らしい…。(此処の村は、以前から自分が村長で、一族も大勢いて…、今日まで山中に避難していたけれど、女子供が可哀相なので、此処で暮らすことを何とか認めて欲しい…)…意味を理解すれば……。家長制度が厳しいのは何処も同じで、恐らく彼が代表者として陳情に来たのものだろうが、…私たちにしても故郷には両親が居て、其々が戦地にいる息子の安否を毎日気遣っている筈なのである…。鳥居上等兵に伝えると「お前が、荒張班長に報告しろよ…」と彼は事もなげに云った。…班長は厳格な人だが、部下を殴打したことがないのを密かな自慢にしている人である。報告を受けた荒張軍曹は玄関先に出たが、私たちの予想以上に穏やかな口調だった。「戦争で現在…自分たちが任務を受けて…待機しているのだから、家を明け渡す訳にはいかないが、何棟も空き家があるんだから日本兵の妨害にならなければ、暮らすことを許可しよう。…冬も間近だし、心配しないで…みんな早く戻って来るように……」…剽軽な槙島上等兵が滑稽な身振り手振りで、これを親爺に伝えると、彼の人柄に惹かれたのか、親爺は嬉しそうに頭を下げ、大仰に涙を拭きながら何処へか姿を消した。翌朝の早い時間、私たち炊事要員が食事の支度をしていると、戸外が何やら騒がしいので、何ごとだろうと飛び出して見ると、山盛りにした笊の荷物で…天秤棒をしならせた二人の男が、昨日の親爺と一緒に声高に喋り合っている。…何時の間にか荒張班長が、顔に似合わぬ優しそうな声で、彼らに指示を与えていた。…その翌日は、四十代に見える婦人が十才ぐらいの男の子を連れて来て住み着いた。 最初に戻って来た二人は兄弟で、四五日様子を見てから…今度は妻たちを連れて来た。彼らは一見して実直そうな身のこなしで、二家族は親密に助け合っていた。兄の張彦郎は三十五才で、その女房は色黒の丸顔で、二才の女の子がいた。器量はよくないが愛敬者だった。弟の範雄は三十二才…、妻の蓉鈴は二十五才ぐらいで、妊娠しており、身のこなしが大儀そうで、どう云う訳か何時も沈みがちの暗い顔をしていた。「ホシナー、ライライー」…兄嫁は直感的な判断力を発揮し、直ぐに打ち解けて、大声で遊びに来いよと誘いをかけるのだが、私は遠慮して出掛けなかった。「用事もないのに民家へ入るな…」と班長から言われていたし、お世辞を真に受けぬ方が無難だと、空返事で聞き流していたのだが、ある日…、弟の範雄が私を呼び止めた。「ナゼ、ホシナー…アソビニコナイカ。兄哥マッテルヨ…」…兄は軽々しい、挨拶が言えないので困っている、と聞かされて…驚いた私は…その夜、彦郎の家を尋ねると、範雄夫婦も同席しており、思い掛けない歓迎をしてくれた。「ジャンケン」で負けると、茶わんの黍酒を一気飲みをするのが習わしだと云う。その夜、「彦郎」達から聞かされた話の内容は、村長の二十歳になる末娘が一人帰りそびれて…「山中」で付き添いの母親と共に寂しがって泣いているので、此処で親子一緒に暮らせるように取り計らって貰えないか…と云うことだった…。明くる日…早速、班長にご注進すると…、「そのことは前から知っていたんだが、若い娘だから、どうしたものかと考え倦んでいるんだょ…」…何ヵ月も女の肌に接していない血気盛りの兵隊がいる前に格好の餌を与えるようで、困っていたらしい班長の思案を知って、私は返す言葉がなかった…。…二、三日すると…、古参の高田兵長から……。「村長の娘が此処へ帰ってくるってぇことが決定したぞッ…」「…へえぇッ、どんな娘なんだろうかなァー」「いいかぁッ、部落の連中の信頼を裏切るような行為だけはするなょッ…」重厚な口調の高田兵長に釘を刺されたが、矢張り気になるのが人情と云うもので、若い連中にはそれ相当の好奇心が蠢いていたが、口だけは尤もらしく…。「ごたごた騒ぎを起こしたくないですょッ」班内には…三十才未満は四人居て、その中で私だけが二十二才で一番若い。然し、女に執着心を抱いているのは『何も俺だけじゃぁーないんだけどなぁ…』と想っても迂闊に古参兵の戯言を批評するような、そんなだいそれたことは喋れない。…やがて…。娘の「麗芳」が母親に連れられて村へ帰って来た。私たちは何気ないないような顔をしながらも、食い入るような目付きで娘を覗いたが、編み下げの髪も乱れた…その顔だちは、焦げ茶色にうす汚れていて服装もみすぼらしく、病弱らしい小娘で、何だか当てが外れたような私たちは勝手な批判をして笑い合った…。…十二月も押し迫って毎日は冬支度で忙しく、薪割り作業や米作りに追われていた。…彼らは「春節」と称して…旧暦で正月を祝うが、日本人は新暦で行なうから、間近い新年の準備に色々と趣向を懲らしていたが、話題になるのは日本の師走の風景だったが、比較もできない現在の雰囲気に、事毎に大笑いしながら、みんなはあれこれとお国自慢を披露して…遠い故郷を偲び、漸く訪れたような気がする些細な平和を結構楽しんでいた…。…その頃…、私たちは「班」が引っ繰り返るような「事件」を起こしてしまった。その朝…。「正月には肉料理が食いてぇなぁ…どうだッ、保科ッ、思い切って一丁ッ、ぶちかますかぁッ、…」…毎度のことながら、慣れた手捌きで朝食の支度をしている鳥居上等兵が押し殺すような低い声で、私を見つめた……。(あッ、徴発をやる気だッー…)直ぐ脇で食卓を拭いている飯塚一等兵には…この意味が分からなかったらしい。…「朝食が済んだら、班長殿に断って出掛けましょうッ…」「保科ッ、班長には余計なことを云うなよッ……」…「はいッ、山鳥を射ちに行くと云った方がいいですねッ…」…この「赤蘭村」に落ち着いてから一ヵ月近く経ち、豊富な米と、野菜には恵まれたが、それまでの四ヵ月間はろくな食生活をしておらず…僅かな「徴発」で、かろうじて露命を繋いできたのだが、最近では…空腹の辛さも忘れてしまうほど、満腹感を味わっているものの、満足しきれない贅沢な欲望が興るというのも…俗人の愚かさなのであろうか…。然し…、この界隈には、街道擁護の為、広範囲に渉って、「トセ部隊」の二大隊本部及び、同系列中隊の分隊等が駐留しており、それ以外にも…第二十七師団系属の生き残り隊等が肩を並べるように近在の集落を足場にして、休養と宣撫を兼ねていたから、無断で…これらの警備地区に踏み込む「徴発」は禁止されたのも同然であった…。…第四分隊の荒張軍曹は…部下の北島兵長以下十名が「全県」地区の別途任務に出発しして以来、此処に残った八名の衰弱し切った体力が、快復するまでの暫定措置として、現在地の警備体制を大幅に緩和して…休養を優先とし、部下の早期復調を図っていた…。…三部屋に別れた寄居の不寝番制度も廃止し、銃器管理は各自の個人責任と決め、炊事場兼、食堂の広い土間に於いて行なう朝夕の人員点呼だけを残すに止めた…。あの進撃では…何度も空襲に曝され、車両一台を焼失し、部下の戦死傷者もあった。車両事故で運行不能となり、飢餓と恐怖で絶望しながら、孤立無援の日々も耐えた…。…敵軍と遭遇しても…戦友に見放され騙されたりして…血涙を呑む苦労を重ねたが、直属中隊長さえも、自己の存命にのみ汲々とする「切り捨て御免」の戦場哲学を体験させられてから、縦の幹線とはいえ、無益な隷従を押しつけることを避け、助け合いの気持ちを大切にする思い切った家族的な防衛体制で、内務班の規律を守る方針に切り替えていた。だからと云って、荒張軍曹が身勝手な惰弱な人間に変わった訳ではない。彼は…相変わらず…班内では厳格な口調で部下を掌握していた…。だが、以前よりは叱責の言葉が減って、柔和な態度が多くなっているようだった…。…鳥居上等兵は、次から次へと続いた異常な戦闘間の出来事を見事に統率してのけた班長の心底を理解していただけに「徴発」を言い渋ったのだが、然し、この計画が…裏切り行為になるとも思っていないし…、此処が戦場ならば…この程度のことは止むを得ないことなんだと、割り切っていたのである…。 「鳥居ッ、遠出する時は、最低三人で行けょッ…」…班長の言葉には…部下の意図を推察しているようなふしもみえたが、表立って送り出すのは控えていても、万一の場合を想定する用心と気遣いが含まれていた。朝食の後片付けもそこそこに、鳥居上等兵に従って戸外に出る飯塚と私は、久しぶりに持つ小銃の感触に浮き立っていたが、これが大事件の根源だとは知るよしもなかった…。集落の出口まで来ると、畑仕事の中年夫婦者が、手を挙げて挨拶をしてくれた。彼は小作人の「魯」さんだが、私たちは「バクダン」と気さくな渾名で呼んでいた。…人一倍鋭敏な聴力の持ち主で誰よりも早く、飛行機の爆音を感知して「バクダンーッ」と叫んで逃げ出すのである。 どうして「爆音」が「爆弾」なのか意味は不明だった。…私が鳥射ちの手振りをして…〈一緒に行こうょ、面白いぜ…〉と誘いをかけると…、…(承知した。 俺は喜んで一緒に行く…)と彼は二つ返事で承諾したのである。この地方特有の狩猟好みの広西壮族だから、鳥射ちと聞いては尻込みをしない…。持っていた鋤を女房に手渡すと、有無を云わさぬ顔で…こちらへ駈け寄って来た…。…彼ならこの地域の地理に明るいだろうし、体も大きく力もありそうで頼り甲斐がある。集落を離れた四人は、八km程西北方に在ると云う…辺鄙な部落を目指して歩いた…。…目的地近くまで来ると、鳥居上等兵が…急に厳しい顔になって三人の歩みを止めた。「静かにッ…この蔭でッ、待機していろッ…」彼は、小銃を両手に構えると身を屈めて…素早く農家の裏手に回り込んだ…。暫らくすると、姿を現した鳥居上等兵が(みんな此処へ来いょッ)と、手招きするので…三人がぞろぞろと近寄り、辺りをそっと見回したが…別段異変が起きた様子もない。「なぁ、保科ッ、何だか変だと思わないかぁ、豚や鶏どころか人ッ子一人見えねぇょッ…何となく、人の気配があるんだがなぁ…」そう云いながら尚も油断なく鳥居上等兵は周囲に目を配っている……「感ずいてッ、逃げたんですねぇ、隠れて見張ってる野郎がいる筈ですょッ…」私たちの会話は「バクダン」には通じないから、彼は「虚頓」とした顔をしていた。「もう少し奥へ入ってみようかッ…」三人が尚も気を配りながら、一○mくらい先のバナナ樹に近付くと、その蔭は…一段下ったところが直径二十mほどの円形の「クリーク」になっていた。「あッ、水牛がいるッ、…」飯塚一等兵が素ッ頓嬌な声で指差すところに、大きな水牛が水中で鼻だけ上にして、目をむいて警戒心旺盛な荒まじい鼻息で、こちらを睨んでいた…。「よしッ、あいつをッ、引っ張り出せッ、…」…大声で怒鳴る鳥居上等兵の恐ろしい剣幕に…目を白黒させながら飯塚が…「バクダン」に向かって…一生懸命に手真似で…「引っ張れッ…」とせっつくのだが、彼は両手を大仰に振る仕草で…後退りをするだけだった…。「バクダン」は、この場の雰囲気で…異常事態の出現を察知したに違いない。その時、轟然と一発の銃声が耳元で炸裂した。腰を抜かしたように三人は夢中で這いつくばっていた。 「………………」物凄い水牛の唸り声と水飛沫が辺り一面に飛び散ったが、直ぐ静かに治まった…。…至近距離で、眉間に命中した弾丸は致命傷だったらしく、水牛の息が絶えた…。「どうだッ、……」鳥居上等兵は無言だったが、得意満面の顎をしゃくって小銃を持ち変えた…。…短気な彼が前後の成り行きを無視した咄嗟の行為が、今度は次の事態を引き起こした。「陸(おか)に引き揚げろッ、…」「えぇっ……。」 「クリーク」は二mに近い深さがあった。広西壮族地区は中国南部とは云うものの、季節は十二月の中旬である。三人に睨まれた「バクダン」は逃れられぬと察したのか、おろおろしながら上衣を脱いでいたが、やがて水中に浮いている水牛の角を左手で握り、片手泳ぎしながら岸辺まで引っ張ってきた。…私たち三人は力をふり絞って(陸)へ揚げようとしたが、到底それは無理だった…。一トンもあろうかと思われる水牛なので、足場の悪い位置からでは…二、三人程度の人力で引き上げるのは…断念するしかなさそうだった…。「飯塚ッ、後足を切っ飛ばせょッ…」…「えッ、自分がやるんですかッ…」「当たり前だぁッ、何ぃ~震えてるんだッ、早くしろッ、…」私の足も小刻みに震えているのだが、痩せ我慢で身を乗り出し、下半身ずぶ濡れになるのも構わず…、飯塚に協力して…遂に、両足を股上で切り離して了った…。「バクダン」は困惑したような泣き顔で…茫然としている…。鳥居上等兵は小銃を腰にあてがった姿勢で周囲に気を配っていた…。天秤棒を使った二つ荷で「バクダン」に担がせようと思い…、盛んに強制するのだが、「それだけは勘弁してくれ」…と彼は頻りに哀願するばかりだった…。農作業に重要な原動力で、農家の財産的価値が大きい水牛を無法に殺戮した現場を見せられて…気が転倒したのも当然だろうが、私たちには常識的な思いやりなど…ない…。小銃を持つ日本兵に、無理強いされた彼は既に観念したらしく、担ぎ荷を拵え始めた。恐らく、彼は今日、同行したことを悔やんだろうが、私たちの方も思い掛けない事態が展開されて…狼狽えていたが、今更もう、後には戻れない…。…鳥居上等兵が大きな声で「人が現われねぇうちに、早く退散しようぜ…」と云い放って歩き出したが、私たちは全身に水しぶきを浴びているから寒くて堪らない。「早くッ、早くッ…」と云われて急いで…その場を離れたが…、百kgを超過しそうな両足を担ぐ 「バクダン」が、どれほど怪力の持ち主であろうとも、かれこれ一kmぐらい歩いたら、流石に肩の天秤棒を下ろしてしまった…。汗が流れる顔は無表情だったが、疲れを癒す彼を鞭打つような無理強いは出来ない…。…私たちは「赤蘭村」までの距離を思うだけで暗澹となってきた。交替できる重量ではないので、何度も休ませながら、あと三㎞ほど迄に接近した…。…一方、事件現場では…。日本兵が不法に領地へ侵入したばかりか、大切な農耕用の水牛を射ち殺された農民は矢張り物陰に隠れて様子を窺い、一部始終を見ていたのである。よそ者に警戒心を抱くこの地域一帯の「三江僮族」独特の習性であった…。武器を取って日本兵と闘っても勝算なしと判断したが、泣き寝入りはしなかった。直ぐ隣村落に駐留していた…地区警備担当の「日本軍部隊長」に訴え出た…。其処は元関東軍麾下、第二十七師団所属の「独立山砲兵第二聯隊」、「第一大隊本部」の駐留地で、七月以来四ヵ月間に「衡陽」付近の壮絶な山岳戦で甚大な損害を被り、僅かに生き残った気息奄々の将兵八十名足らずを率いた大隊長市川少佐の陣営であった…。作戦開始以来続いた戦闘で、壊滅的な痛手を負ったにも拘らず、旺盛な士気は衰えなかったのだが、支援物資が断絶した為に戦闘能力が激減したのが悔やまれてならなかった。然し…彼は現役将校の豪気な信念と理想に燃えていた。戦闘を停止した現在は、部下の兵士にも…近郷近在の村民に対する非道行為を厳重に取締り、豊富な米穀類だけでも「感謝すべきこと…」だと、質実剛健を誇る生活を送っていたのだが、そんな信条を覆すような…わが日本兵の無法な掠奪行為を『注進』された時、部下への見せしめの為もあって…彼は…烈火の如き憤激を示した。…「乗馬~用意ッ…」号令と同時に、五名の部下の先頭に立つ少佐は…飛び乗った鞍上で馬腹を蹴るや…掠奪者の急追を開始した。逃走中の日本兵が連れていた「バクダン」の「顔」には見覚えがあるとの証言により、追跡隊は「赤蘭村」に向かう一本道に馬蹄音を轟かせ、泥を跳ね上げ、もうもうとした土煙りを空高く舞い散らし…まっしぐらの縦隊で…疾走した…。「そのぉぅッ、兵隊止まれッー………、」遥かに、大音声が聞こえた時点で、鳥居上等兵は瞬時に事態を判断した…。「飯塚ッ、バクダンを連れて先に帰れッー」二人を…送り出した畔道の直ぐ前は黍畑だったので、忽ち姿が隠れて見えなくなった。…その直後…、私たちは…云うまでもなく追跡隊に捕捉されたのである…。…二人は逃げたり抵抗しても無駄だと思い、素直に従ったが、第四分隊の安泰だけを念じながら…爾後の処遇を想定して…口を閉ざした侭だった。…彼らは…二人に有無を云わせず雁字搦めに縛り上げ「山砲隊」へ引き連れていった…。…一方、荒張軍曹は…血相変えて戻って来た飯塚一等兵から、事件の概略を知って驚いたのは事実だが、こうした…不足の事態にも…彼は取り乱すような動揺はなかった…。…数か月間も…衣食の給与が途絶えた状態で、この地まで進撃してきたが、敵軍と交戦する恐怖心よりも…「飢餓」が齎らす人倫の乱れを増長させた「徴発」行為を是認した軍部の野蛮な方針を、以前から彼は…少なからぬ疑問を抱く心境なのであった…。而も、現在は一応…進攻を中止した状況で、部隊は駐留の形式を踏んでいながら…依然として一切の給与はなく、現地調弁で…将兵は「命」を維持している現状である…。「山砲隊」現役将校の市川隊長が、この近在に駐留していることは聞いていた。…然し、警備地の領域主張も、単なる偶発的な論拠に過ぎないと…彼は思っている。明日にも移動命令があれば、その「権益」は崩壊する「砂上の楼閣」ではないか…。…然し、「市川隊」に掛合って…二人の部下を釈放させるのには「少佐と軍曹」と云う階級の「格差」が災いして「請願」は跳ね除けられ、潰されるかも知れない。「全県」にいる「武本隊長」に頼めば…話は纏るかもしれないが、今次作戦途上で彼が功名を焦るあまり、進撃手段に専横暴挙を発揮し、部下を冷遇した数々の経緯から、忘れ られない…諸々の確執を思うと気が塞いで了うのである…。「物事は須く当たって砕けろッとの諺もあるし、自分で『市川隊長』を尋ねよぅッ…」…荒張軍曹は…(身を棄ててこそ浮かぶ瀬もあろぅ…)と、意を決したのである。その頃…、市川隊では…鳥居上等兵と私は立木に背中合わせに括り付けられてしまい、…早速にも、激しい尋問が始まろうとしていた。「牛がぁッ、農民の財産だと云うことが分からんのかッ、このうッ、馬鹿者ッ…」…「ええいッ…、日本人の面汚し奴ッ…」取調べを担当している曹長は「贅沢な肉食」を狙ったこの犯行に、少なからぬ嫉妬心があるから、厳しい口調で責め立てる…。何と罵倒されようとも…二人は無言の侭で……詫びを入れる態度は見せなかった……兵隊間の「いやがらせ」や「しごき」の暴行虐待の悪弊は、昔日より…日本人全ての階層が…「位階等級」で…上下差別をし、優劣を競い合う根性と通ずるものである。「待てぃッ、…」 大声で…曹長を制したのは…市川少佐だった…。…陰湿な尋問を見兼ねたのか、隊長は笑みを湛えながら…二人の方へ歩み寄って来た。「おぃッ、何時までも黙っていると、偽日本兵にされて銃殺刑にされるぞッー…」二人は「ぎょッ」として括られた両手に力が入ったが…直ぐに(まさかァー)…と否定しようとし…、隊長の顔を凝視したが…、それが万更脅しでもないような気がしてきた。如何に戦場とは云え…同じ日本軍に殺されては堪らない…。「自分が悪くありましたッ…」鳥居上等兵が歯切れの好い口調で…隊長に頭を下げた…。…「おぅッ、なんだッ…貴様らはッー関東者かぁッ、ー」「はいッ、東京出身でありますッ、…」…「うわッはッはゝゝッ…」 髭を撫でる隊長の顔が崩れた。私たちは…市川隊が東京部隊だとは知らないから…隊長が何故笑うのか解せなかった。…「貴様らのッ、部隊名と、隊長名を名乗れッ…」「はぃッ、独立野戦重砲兵第十五聯隊ッ、第二大隊段列ッ、陸軍少尉ッ、武本良平殿でありますッ…」全てを観念したものなのか、鳥居上等兵がすらすらと事実を答申する…。「准尉上がりの人だなッ…」…「はぃッ、そうでありますッ…」「うわッはッはッはゝゝゝ…儂わァーその人をーッ、よく知ってるぞォー…」隊長は直ぐ脇に立っている大男の曹長へ笑いながら顎を振った…。「この兵隊たちの縄を解いてッ、…自由にしてやれッ…」「はぁッ、…、…、…、…」…常日頃、厳格な隊長が、突然変心して…いかにも愉快そうに笑うものだから、曹長は毒気を抜かれておろおろと戸惑っている…。事の成り行きに吃驚したのは…縄目を弛められた私たちも同じであった…。緊張感が一挙に開放された意外な展開に、笑い顔も出ないのである。「儂わァ…、おまえたちの隊長とは十年来の戦友なんだッ…、……」…全く、人生とは…摩訶不思議な縁が絡み合っているものだと知らされたのである…。この市川少佐の若い時代、未だ…神奈川県座間の…「陸軍砲兵学校」に在学当時。教練教官に附いていた優秀な助教が、現在の武本少尉の前身だったのである。秀才揃いの青年士官連中の前に立つ、その助教は、紅顔の現役志願兵選出の下士候補生の中で学術、技量共に卓越した沈着冷静な指導力を上層部に認められ、砲兵将校の専門校の専任助教に抜擢された…その頃の熱血溢れる若き武本軍曹であり、数年後の「ノモンハン事件」の国境紛争に於いては「ノロ高地」の激戦時でも共に「山砲隊」の勇士として、九死に一生を得、奇跡的な生還をした二人だったが、巡り巡って…今期の「湘桂作戦」にその「武本良平」が「重砲隊の段列長」になっていたとは、彼の努力もさることながら、時代の流れに便乗した出世志向軍人の典型であり、知る人ぞ知る栄進であった。…広大な中国の南部…、広西省の秘境「越城嶺」を今、北に仰ぎ見るこの地に在って、はからずも世紀の会戦に臨んだ旧知の二人が、奇しくも醸しだされた時間の狭間で、奇縁の邂逅になることを想い、万感胸に迫る…市川少佐の目蓋は小刻みに瞬いていた…。……………。…悪辣な事件がらみに生じた「情誼」と「感動」は、軌道を外れた悪徳兵の無法行為にも思い掛けない「免罪符」を与える「恩恵」に取って代ったのである…。…莞爾たる笑みを湛える市川少佐の容姿は…阿弥陀如来そのものだった…。「何ともーッ、命冥加の奴らょのぅーッ…あっはぁッ、はぁッはゝゝゝ」…豪快に身体を揺さ振る…この大隊長こそ典型的な…虚心坦懐の武人であった…。「おぉぃッ、お前たちはッ、早速ッ、武本さんと儂が会見できる段取りをせいッー…」…私たちは天にも昇る心地になった…。とんだ処で転がり込んできた幸運を無造作に掴んだ嬉しさに、手を舞い、足の踏みどころも忘れ、飛び跳ねるようにして二人は「赤蘭村」に駈け戻った…。…「荒張軍曹」とは丁度、出会い頭の鉢合わせになったが、お互いに驚くやら喜ぶやら、…事の仔細を話す順序も支離滅裂で、逐一報告が終わった途端に…今度は分隊全員の使命となった「会見場所」を造り出す段取りに追われ、上を下への大騒ぎとなった…。先ず、「会見場所」は「両隊長」の在所にほぼ中間のこの「赤蘭村」にすること。「会見場」の設置と酒肴の準備は第四分隊が受け持つこと。荒張軍曹は隊長の指令が殆ど伝わらなかった今次戦闘間でも、独自の判断力を発揮し、苦況の中で分隊を引率し、今日まで生き永らえてきた自信と誇りがあった。今…鳥居上等兵の悪業を詰るより、両隊長の「会見」を成就させる方が優先だと割り切ったのである。…「全県」市街の東部地区に駐留している隊長の在所までは約十kmの距離である。今回起こった事件の顛末を…なるべく体裁よく、無難に取り繕った内容にして隊長に報告させようと、伝令の高田兵長に云い含めて何度も念を押していた…。あの「隊長」が、この話を「承諾してくれた」と云う返事を待つ間、彼には…再び直属隊長への不信感が重苦しく襲いかかり、陰欝な気分と焦燥感で戦慄しながら、無言で耐えなければならぬ長い時間だったろうが、私たちは「会見場」を設置したり、宿舎内外の大掃除等で忙しい時間となった。…三日後の…、午後○時三○分が「会見」の時間と決定するまで…双方の隊長への通信方法は足を頼みの「伝令」を再度派遣して、準備万端を整えた…。…当日は早朝から宴会の支度や、入り口道路の清掃やら…全員大わらわの活況だった。鳥居上等兵は疲労も忘れて自慢料理の腕を振るい、例の「水牛肉」もビフテキとなる予定で…「肉うま煮」や「すきやき鍋」の下拵えも完了し、開催時間を待つだけとなった。やがて…。…両隊長がそれぞれの護衛兵を従えて到着した…。…劇的な再会と、「水牛事件」が暴露される場面があったのだろうが、炊事場で忙しく立ち働く私たちには垣間見る暇もなかったが、充実したひとときであった…。接待用の酒については、私たちが此処に落ち着いた時、真っ先に思い付いたのが「酒」であり…、正月用にしようと「どぶろく」を、大がめ三本も醸造しておいたのだが、この日に全部飲み干されたとしても、なんの異存もない心境なのである…。別棟の中庭にしつらえた…「会見場」は急場しのぎとは見えない綺麗な仕上がりになったが、どの程度に満足してくれたのか、聞こえてくる両隊長の愉快そうな高笑いから推察しても…「水牛殺し」の糾明ではないようである…。あの「一件」に関わる私たちに呼び出しの声が掛からないことは、どうやら、不問に付されたとみていいのだろうか…。「ほぉッー…」と…顔を見合わす私たちは安堵の胸を撫で下ろしていた。分隊の連中も…会見が予想以上に成功したらしい様子を伺うと、自然に喜悦の表情が浮かび…顔を寄せ合わせて…細やかな「祝杯」を交わしたのは…云うまでもない…。戦闘間では、指揮官の状況判断の良否が、従う兵士の生命を与奪し、運命を変える。…今回の事件が人倫にもとる行為だとしても、客観的な立場で…大局から解釈するとすれば…「悪」の根源を育てた巨大な軍部に至り、大それた造反をも生じかねない。部下の不始末を冷静に処理するのも、両隊長が「事件」を公表すれば…「軍司令部」から裁定が下った場合…、己れの戦歴に「傷」を付けねばならず、昨日までの戦闘や、戦史を震駭させるほど凄惨だった進撃を振り返れば、軍命令の無理強い故に、数多くの部下兵士たちの命運を散らした悲嘆と共に、直属上官への怨嗟の叫びに繋がっていく…。彼ら隊長も…非情極まる進攻を畏怖し、密かな憤怒に震撼していたのかも知れない…。「五族共存」の東洋平和を提唱して十五年、蒋政権を駆逐せんとして膺懲の剣を執った七年の経緯の果てだが、異境の南国で戦闘った将兵は悉く「満身創痍」になっていた…。…かくして…。再三再四…生命の極限状態に晒された私たちは何時終わるとも云えない湘桂作戦末期の頃…、既に支那派遣軍の統制権さえ…危ぶまれる非常事態を微かながらに嗅ぎとりつつも…口には出せない不安の胸中で…仮駐留の日々を過ごしていた……。

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