編集後記

11.編集後記
 …私は…過ぎし第二次大戦の後期、中国大陸に於いて「湘桂作戦」という歴史的な一大スペクタクルの渦潮に身を投じたが、奇しくも生還した兵士の一人である…。…一九四六年(昭21)四月末の…復員以来四十数年間は…その悲惨な体験は人に語るのを頑なに避けて沈黙を守ってきたつもりだった…。然し、五年前に四十二年ぶりに初参加した「トセ三会」で、生き残った少数の戦友たちが老齢となり、貴重な戦争体験を後世に伝えられないような気がした。これは一大事だと思い…僭越を承知の上で…私なりに調査した「従軍記録」と「敗戦経緯」を文書に残す必要があるように思われ…、約半年後に大要を作成した。
 当初は箇条書きでしかなかった旧著「流浪奇談」を…その後三年の月日を費やして事件と史実を照合させながら、それに…身近な人物を登場させて物語風に書き直した…。…文中に再三登場してくる「鳥居政夫」氏が私にとっては人生修業の師匠であり、尚且つ生活上の恩人だったので…彼の半世を織り混ぜて、自伝式の記録体にして書きだしたのが意外に筆の運び具合が捗って…二十五編にもなって了った…。…誰でもそうだろうが…人は…気脈の通じ合える者同士が、接近し易いものである。私達の師弟関係は延べ四十年を超える長丁場の「人生ドラマ」であり…、敗戦日本の荒波に揉まれ通した波瀾万丈の物語りは…簡単には語り尽くせない熱い内容だったが、その鳥居氏は残念ながら…昭和六十一年七月末に不帰の客となった。……………………。合掌…。
 五年前の五月に初参会した…『石和』の「トセ三会」で偶然再会した「松本政雄」氏はその当日大変お世話を頂いた「好漢」であったが、次期の再会を誓ったにも拘らず、彼が翌年の一月末に病没したのを知った時…この世の限界を思い知らされて息が詰まった。…その「トセ三会」の当日、甚だ恥ずかしいことだが、私は戦友の顔を識別できないほど記憶が薄れていたのだが…久しぶりに野戦談義を堪能して感無量だった。その後は…先輩諸氏の数人と文通を続けているが、何時までも…お元気でおられる事を願っている…。…「鳥居政夫」氏と私の因果関係が特に強烈で生々しいのは格別の特殊事項として……、四十二年間もの空白期間の後に再燃した今回の戦友関係は、年中行事の一環として、旧交を暖める程度の付き合いが尤も無難なように思えるし…一定の距離を保って交際した方が…後々までも円満な交際ができるような気がしてならない…。高齢者の多い「戦友会」の人たちにも「回」を重ねて…噺をすれば、或いは…新しい友情関係が生ずるかも知れない…と考えてはいたが、昭和十八年四月「トセ部隊」に「同月同日」に入隊した「矢後一三」氏と…昔の懐古談が交錯して、再び戦友の「縁」が復活したのだが、彼の意気に感じた私は「戦友会運営議事」のお手伝いをするようになった。平成四年四月初旬…。「宮城蔵王」の総会で…私には何かと因縁浅からぬ「久保田朝久」氏が入院しているのを知って…、取り敢えず見舞状を差し上げて心配していたところ…、日ならずして私の家に当の久保田氏から電話が掛かってきた。「そんなに心配するほどでもないんだょッ…今年の五・一会に出席できるかも……」いつもの彼の笑い顔が見えるような明るい声で元気らしい話をしていた彼だった…。…然し、私は本当にそうなんだろうかと、その真偽の程を知りたくなって、その日の夜…彼の留守宅に電話を入れてみた…。「肺癌の末期なんですが…本人には報せていませんので、そんな軽い調子なのかも…」と、留守を守る夫人の…全てを諦めているような暗い声が返ってきた。六月七日に…「トセ五・一会」の総会が山梨県の塩山市で開催されたとき、主催者の八木久夫氏に彼の病状を伝えたところ…「東京に戻ったら直ぐ其の足で何人かで病院へ見舞いに行きましょう…」と云う話になった。「実は…明日八日は…私が面会に行く約束をしていますので、そんなに大勢で病院へ押し掛けますと病人が驚くでしょうし、取り敢えず明日は私が彼の病状を確かめて、夕方までには…ご連絡しますから、それで…善処して下されば……」私は…そのほうが賢明だろうと思い、幹部諸氏に納得して貰った…。…「塩山総会」が閉会した翌日の朝、私は新宿行きの列車に乗ったが、そのとき「渋谷」まで同行してくれたのは久保田氏の親友「山田邦八」氏で、この方は既に病院を尋ねており…「まだ…今のうちなら、話も出来るだろうが…彼の命は夏まで持ち堪えられまい…」と、冷静な意見であった。 私の方は県内の「山北町」に居る「矢後一三」氏に事前より連絡済みだったので、川崎溝ノ口の駅前で彼と落ち合い…「帝京病院」へ向かった。…病室のベッドで久保田氏は、無理に元気そうなふりをしているのが見受けられたが、何気ない顔をした三人の世間話が数分間弾んだが…、それが今生の別れになってしまった。「久保田朝久」氏の訃報が入ったのは…その日から六日後の六月十四日である。各方面に連絡をしてくれたのは…「矢後一三」氏だった。彼が病没したことから…「矢後一三」氏と私の交友関係は以前より親密度を増した。矢後氏は…兵隊の頃は私よりも一年以上も古い軍歴だったが、特に緊密な間柄と云う訳でもなかった。…終戦で、復員した彼は…地元に在った有名大企業を務め上げただけに、現代の社会生活でも若者を凌ぐ斬新な…意見を持っており、硬軟の世情を弁えた彼の言論は卓越しており、世間の狭い私は…何かとご教示を頂いている次第である…。彼は…戦後間もなく開始された小規模の戦友会当時から「トセ三会」に尽力してきた功労者であるが、最近に至るまでの年月に物故者を十数人も見送った厳然たる事実から…、 「もう…あと何年もしないうちに戦友会に集まるのは両手の指で間に合う程度の人数になるだろうょッ、寂しいことだけれど、歩留まりの決まらない人間の寿命なんだから打つ手もないし…その積もりで対処するしかないねッ…」 再会する度に聞いてきた彼の言葉に同意していた私は…とても他人ごととは思われず、「明日は我が身……」の心境になっていた…。奢侈に明け暮れる現代では想像もつかない苛烈な戦場から生還してきた私達が、敗戦日本に復員して以来、社会事情の全てが平和を前提とする民主主義の世の中に四十数年、猛烈に勤労貫いてきたが、現在では…あの軍隊時代を思い出すよすがもない安穏な生活になったけれど、唯一…戦友会だけが…兵隊当時の直向きな「思い出」を蘇らせてくれる。この『流浪奇談』は在りし日の「トセ部隊」に居た兵士達の面影や挿話を再現し、まとめたものであるが、何方かに…少しでも興味を持って頂けるならば…本望である…。

                            平成四年八月十五日

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